九章 神武 十七話 軍議の夜
日向の南に築かれた砦には、磐余彦の父である鵜葺が率いる大倭壱国軍が集結し、南方より迫りつつある曾於族への備えを進めていた。
砦の一室では軍議が開かれ、中央に座した鵜葺の両脇には兄の彦五瀬と弟の磐余彦が控え、その後方にはそれぞれの近習たちが静かに並んでいた。
磐余彦の背後には日臣と椎根津彦が付き従っていた。
大久米は軍議には加わらず、主の不在中に陣屋を守るため警護の任に就いていた。
軍議で最も大きな問題となっていたのは、現在、砦よりさらに南で建設を進めている防御柵についてであった。
砦そのものは日向南部を守るための要地ではあるものの、そのさらに南には防備らしい防備を持たない村々が点在しており、曾於族の軍勢をそのまま北上させれば、それらの村々が戦場となる可能性が高かった。
そのため鵜葺としては、出来る限り南方に防御線を設け、そこで敵の進軍を食い止めることで村々への被害を抑えたかったのだが、肝心の防御柵はまだ完成には程遠く、曾於族の進軍速度を考えれば建設に必要な時間を確保できそうになかった。
このまま敵が予定より早く姿を現せば、南方の防御柵を放棄し、最終的にはこの砦まで軍を引いて迎え撃つほかない。
もちろん、その事態を想定して準備を怠っていたわけではなく、砦より南に暮らす民にはすでに避難を命じ、食糧を蓄えていた倉についても、運び出せる物は可能な限り北へ移していた。
しかし人だけを逃がせばそれで済むという話でもなく、家屋や田畑が荒らされれば、戦が終わった後の復興には長い年月と多くの労力が必要となるうえ、互いに多くの血を流せば流すほど、曾於族との関係そのものが修復不可能なところまで悪化する危険もあった。
鵜葺は、曾於族を完全に滅ぼすことなど望んではいなかった。
今回の争いがどれほど深刻になろうとも、最後には必ず話し合いのできる余地を残し、双方が引き返せるところで和議へ持ち込みたいと考えていたのである。
「父上、やはり防御柵は間に合わないのではありませんか?」
彦五瀬が地図代わりに広げられた木板へ目を落としながら問いかけると、鵜葺はすぐには答えず、南へ続く道筋を指先でなぞってから顔を上げた。
「曾於族は、今どこまで来ておる?」
「斥候からの報告では、あと三日ほどもあれば南の村々まで出てくるかと……」
「三日か。防御柵を満足な形まで仕上げるには、あと十日は欲しいところだな」
鵜葺は眉間に皺を寄せたまま、建設中の防御柵がある場所へ視線を落とした。
人手を増やして昼夜を問わず作業を続けさせたところで、七日もの差を埋めるのは難しく、このままでは完成を待たずして曾於族を迎えることになる。
彦五瀬も同じ結論に達していたのだろう。腕を組んでしばらく考え込んでいたが、やがて隣に座る弟へ顔を向けた。
「おい、磐余彦。お前によい案はないか?」
「私ですか……うーん……」
突然話を振られた磐余彦は困ったように唸り、目の前に広げられた木板を見つめながら考え込んだ。
曾於族の進軍そのものを止めることができればよいのだが、今いる兵を動かして正面から迎え撃てば、未完成の防御柵を守る兵まで減らすことになり、かといって南の村々をそのまま明け渡して時間を稼ぐのでは、避難させた民が戻った後の暮らしが成り立たなくなる。
どう考えても、簡単に答えの出る話ではなかった。
「……駄目だ。すぐには思いつかないな」
そう呟いて何気なく後ろを振り返った磐余彦は、自分の後方に控えていた椎根津彦と目が合った。
椎根津彦は先ほどから黙って軍議を聞いていたが、その顔には困惑よりも、何かを確かめながら考えを組み立てているような色が浮かんでいた。
磐余彦が見つめると、椎根津彦は何も言わず、ただ小さく一度だけ頷いた。
長い付き合いである磐余彦には、それだけで十分だった。
「椎根津彦、策を出しなさい」
「はっ」
名を呼ばれた椎根津彦は姿勢を正し、一度だけ周囲を見回してから口を開いた。
「必ず成功すると申し上げることはできませんが、一つ、試してみたい策がございます。ただ、そのためには幾つか必要な物を揃えていただかなければなりません」
策があるという言葉に、鵜葺の表情がわずかに変わった。彦五瀬も先ほどまで弟へ向けていた視線を、その後ろに控える若者へ移している。
「それは何かな? 申してみよ」
鵜葺は急かすことなく先を促した。
日臣や椎根津彦のことは、鵜葺も以前から聞き知っていた。
幼かった頃から磐余彦と共に伊邪那岐のもとで学び、文字や算術だけでなく、田畑、水路、地形の見方から大陸の知識に至るまで、長い年月をかけて直接教えを受けてきた若者たちである。
先ほどから後方に控える日臣も、軍議の内容を聞き漏らすまいと真剣な顔をしており、その隣にいる椎根津彦もまた、年若いとは思えないほど落ち着いていた。
伊邪那岐が長い年月を費やして育てた者たちが、実際の戦を前にして何を考え、どのような答えを出すのか。
鵜葺はそれを確かめるように、静かに椎根津彦の次の言葉を待った。
椎根津彦は一度言葉を切ると、軍議の場にいる者たちの反応を確かめるように視線を巡らせ、それから静かに口を開いた。
「戦船だけでなく、漁船や運搬船を含めても構いませんので、三十隻から、可能であれば五十隻ほどお借りしたくございます」
予想していたよりもはるかに大きな数が出たことで、彦五瀬は思わず眉をひそめ、すぐさま椎根津彦へ問い返した。
「は? 五十隻だと? お前たちが率いている兵は数百ほどであろう。それほどの船を揃えて、いったい何をするつもりだ。兵を運ぶだけなら、そこまでの数は必要あるまい」
彦五瀬の疑問は当然のものであり、その場にいた者たちも同じように椎根津彦へ視線を向けたが、椎根津彦は慌てて弁明することもなく、ただ姿勢を正したまま黙っていた。
その様子をしばらく眺めていた鵜葺は、彦五瀬を制するように穏やかに口を挟んだ。
「まあ良いではないか。これほどの数を求めるからには、何も考えずに申しているわけではあるまい」
「ですが父上、五十隻ともなれば、簡単に動かせる数ではありません。漁船まで集めれば、周辺の村々にも負担が出ます」
「それも承知しておる。だからこそ、何に使うつもりなのかは後で確かめればよい。策を出せと申したのはこちらなのだ、その者が必要だと言うのであれば、まずはやらせてみるべきであろう」
鵜葺はそう言ってから、改めて椎根津彦へ視線を向けた。
「よかろう。戦船だけでは数が足りぬが、漁船や運搬船まで含めてよいのであれば、五十隻を預けよう。ただし、これだけの船を動かす以上、何の成果もなく終わったでは済まされぬぞ。そなたがどのように使い、何を成し遂げるつもりなのか、その手腕を見せてもらおう」
椎根津彦は一瞬だけ目を見開いたものの、すぐに深く頭を下げた。
「ありがとうございます。お預けいただいた船も人も決して無駄にはいたしません。必ずご期待に添えられるよう、持てる知識のすべてを使って務めさせていただきます」
その後、軍議を終えた磐余彦たちが陣屋へ戻ると、入口に足を踏み入れたところで、奥から漂ってくる温かな料理の香りが鼻をくすぐった。
留守を任されていた大久米がすぐに姿を現し、いつもの無表情のまま静かに一礼したため、磐余彦は労うように声を掛けた。
「ご苦労様、大久米。竹と浦が来ているのかい?」
大久米は何も言わずに頷いたが、その返事を確かめるまでもなく、漂ってくる香りと奥から聞こえる物音だけで、誰が何をしているのかは十分に察することができた。
磐余彦たちがそのまま陣屋の奥へ進んでいくと、そこでは竹と浦が夕食の支度を整えており、二人ともまるで最初からこの陣屋にいたかのような自然な様子で働いていた。
「遅かったわね。いつまで軍議しているのよ」
竹が少し呆れたように言えば、その隣で料理を並べていた浦も振り返り、待ちくたびれたと言わんばかりに口を尖らせた。
「本当だよー。せっかく作った料理が冷めちゃうじゃない」
そんな二人の姿を見た磐余彦は、思わず頬を緩めた。竹も浦も、幼い頃は料理はもちろん、裁縫や洗濯といった家事などほとんど何もできず、那岐に言われるたびに嫌そうな顔をしていたはずなのに、今では陣屋にある限られた食材と道具だけで、皆のためにこうして夕食を整えられるほどになっている。
そして何より、竹と浦がこの場にいることそのものが嬉しかった。
日臣も大久米も椎根津彦もいて、そこに幼い頃から共に育ってきた双子まで加われば、長く離れていた仲間たちがようやく揃ったように感じられ、磐余彦には軍陣の中であることさえ一瞬忘れてしまいそうな、懐かしく温かな空気が戻ってきたように思えた。
一同が夕食を始めようとしても、椎根津彦だけはまだ姿を見せなかった。
明日から実行する策に必要な品々について兵たちへ細かな指示を出していたためで、ようやく仕事を片づけて陣屋へ戻ってきた頃には、他の五人はすでに膳を前にして彼を待っていた。
「椎根津彦、遅いわよ。みんな待っているんだから!」
入ってくるなり竹に叱られ、椎根津彦は少し困ったように皆の膳へ目を向けた。
「先に食べていてよかったのに。私のことまで待つ必要はなかったでしょう」
「何言っているのよ。せっかくみんな集まったんだから、一緒に食べないと美味しくないでしょ」
浦が当然のことのように言うと、椎根津彦もそれ以上は何も言わず、空いていた場所へ腰を下ろした。
こうして六人全員が同じ膳を囲んだのは、いったいいつ以来だっただろう。
幼い頃には毎日のように同じ家で食事をして、食べ物を取り合っては竹に叱られ、那岐に呆れられていたというのに、それぞれが成長して立場を持つようになってからは、六人だけで何の遠慮もなく食卓を囲める機会はめっきり減っていた。
だからこそ、戦を目前にした陣屋の中であるにもかかわらず、その夕食だけは昔の家に戻ったような空気に包まれていた。
「ちょっと大久米! それ私の肉よ! あとで食べようと思って取っておいたのに、黙ってしれっと食べないでよ!」
浦の抗議など聞こえていないかのように、大久米は表情ひとつ変えず、口の中の肉を噛みながら次の料理へ箸を伸ばしていた。
幼い頃、親を失ったうえに村を追われ、飢えながら彷徨った末に行き倒れた経験があるせいなのか、大久米は食べ物に関してだけは昔から遠慮というものがほとんどなかった。
普段は誰よりも寡黙で控えめなのに、食事となれば人の分まで平然と食べてしまうのである。
「まあまあ、大久米の食いしん坊は今に始まったことじゃないじゃないか」
磐余彦が笑いながら宥めると、日臣も大久米を見ながら鼻で笑い、それから竹と浦へ目を向けた。
「それよりお前らも最近、余計なところに肉が付きすぎじゃねえのか。そんなんでちゃんと護衛の役目を果たせんのかよ」
一瞬だけ、場の空気が止まった。
日臣の言葉につられるように皆の視線が双子の体つきへ向かい、竹と浦はほとんど同時にその意味を悟った。
二人とも顔を真っ赤にすると、とっさに胸元を左腕で隠しながら、右手に持っていた箸をぎゅっと握りしめる。
次の瞬間、竹の箸が日臣の右太腿へ、浦の箸が左太腿へ、それぞれ容赦なく突きつけられた。
「いってぇぇぇぇぇ! 何しやがる!」
両脚を押さえて叫ぶ日臣に対し、竹は悪びれる様子もなく冷たい目を向けた。
「ちょこっと突いただけじゃない。かすり傷にもなっていないでしょ、大げさなのよ」
「思い切り突いたのに意外と刺さらないものね。これじゃ武器にはならないなぁ」
浦は自分の箸を眺めながら、妙なところに感心していた。
「俺の太腿で試してんじゃねぇぇぇ!」
「この程度もかわせないくせに、よく私たちの護衛の腕に文句をつけられたものね」
竹がさらに追い打ちをかけると、日臣も売り言葉に買い言葉で身を乗り出した。
「上等だ! いつまでも姉貴風吹かせてんじゃねえぞ!」
「あら、また昔みたいに泣きべそかきたいの? 日臣ったら相変わらずかわいいわね」
「なんだとぉ!」
いよいよ立ち上がろうとした日臣の肩を、大久米が後ろから無言で掴んだ。
先ほどまで浦の肉を平然と食べていた男とは思えないほど真顔で、そのまま力任せに日臣を座らせる。
「離せ大久米! こいつら一回きっちり――」
日臣がまだ文句を言っている横で、椎根津彦は小さくため息をついた。
「やれやれ……せっかくの食事なのですから、もう少し静かに食べられないものですか」
そう言っている本人も、箸を動かしながら頭の中では明日の策を組み立て続けているらしく、風向きがどうだの、船の数がどうだのと、誰に聞かせるでもなく小声でぶつぶつ呟いている。
その様子に気づいた日臣は、今度は椎根津彦へ呆れた顔を向けた。
「お前も人のこと言えねえだろ。飯の時くらい仕事を忘れろよ」
磐余彦は、久しぶりに揃った仲間たちの顔を見渡しながら、自然と笑みを浮かべていた。
幼い頃から同じ家で暮らし、学び、叱られ、時には喧嘩までしながら育ってきた六人が、こうして再び同じ膳を囲んでいることが、何よりも嬉しかったのである。
「みんな、よく集まってくれた。明日からは忙しくなるだろうし、何が起きるかも分からない。だから今夜くらいは難しいことを考えず、こうして皆で楽しもう」
その言葉を聞きながら、竹は何も言わず磐余彦を見つめていた。
かつては自分でも理解できず、認めようともしなかった想いだったが、今ではもう誤魔化すつもりもなかった。
自分は磐余彦が好きなのだと、はっきり分かっている。
けれど彼にはすでに妻がおり、自分からその想いを伝えることなどできない。
それでも、こうして再び傍にいて、同じ食卓を囲み、声を聞き、必要とされるならば、今はそれだけで十分なのだと竹は思っていた。
そんな姉の横顔に気づいた浦も、何も言わず小さく微笑んだ。気持ちは自分も同じだった。
離れて暮らしていた時間があったからこそ、こうして磐余彦のすぐ近くにいられることが、どれほど嬉しいことなのかを浦もよく分かっていた。
今はまだ何かを望む必要などない。ただこの場所に戻ってこられたこと、それだけで胸が満たされていた。
皆の楽しそうな顔を眺めていた磐余彦は、ふと一人だけ、この場にいない人物のことを思い浮かべた。
那岐様がここにいてくれたなら、本当に昔のまま全員が揃ったのに――そこまで考えたところで、磐余彦は自分の考えがおかしくなって、わずかに笑った。
いつまでも那岐様を頼っているわけにはいかないのだ。
自分たちはもう、あの家で勉強から逃げようとして叱られ、畑仕事で弱音を吐き、くだらないことで喧嘩をしていた幼い子供ではない。
明日からは自分たち自身の判断で兵を動かし、その結果に責任を負わなければならない。
磐余彦は賑やかな仲間たちを改めて見渡しながら、胸の奥で静かに覚悟を固めていった。
那岐に守られていた子供たちの時間は、もう終わっている。
これからは、自分たちが誰かを守る番なのだ。




