九章 神武 十五話 竹と浦の動揺
西暦二百四十四年、伊邪那岐が日向の地で磐余彦や子供たちと暮らし始めてから、すでに八年の歳月が流れていた。
竹と浦は十六歳、椎根津彦は十五歳となり、狭野も成人の儀を終えて磐余彦と名を改め、日臣、大久米とともに十四歳を迎えていた。
磐余彦、日臣、大久米、椎根津彦の四人が自立し、長年暮らしてきた那岐の家を離れてから一か月が過ぎていた。
新たに構えられた磐余彦の館では、それまでとは違う暮らしに戸惑いながらも、若い主とその近習たちが新しい生活を築こうと忙しく立ち働き、日々賑やかな時間を送っていた。
一方、磐余彦たちが家を出てからというもの、那岐の家には以前にはなかった静けさが居つくようになっていた。
朝になれば誰かが寝坊し、食事になれば取り合いが起こり、少し目を離せば口喧嘩が始まっていた頃が嘘のようで、今では食事の席に並ぶ膳も少なく、増築した部屋のいくつかは使う者もないまま静まり返っている。
その広さが、かえって人の減ったことを強く感じさせていた。
竹と浦も、このところ明らかに元気がなかった。
仕事を頼めばきちんとこなし、田の手伝いも家事も以前と変わらず行ってはいるものの、ふとした拍子に手が止まり、何を見るでもなく遠くへ視線を向けていることが増えていた。
食事の時も同じで、以前なら浦が何かを言い出し、それを竹がたしなめ、そこから騒ぎが広がっていったものだが、今では二人とも黙々と箸を動かすばかりで、囲炉裏で薪が爆ぜる音さえ妙に大きく聞こえるほどだった。
ある日の食事の最中、浦が箸を止めたまま、誰に聞かせるでもないようにぽつりと呟いた。
「今頃、磐余彦達はどうしているのかなぁ」
竹はすぐには答えず、手元の椀へ目を落としたまま、少し間を置いてから静かに返した。
「賑やかみたいよ。新しい生活で忙しくしているようだし」
「そっか……寂しくなんて感じている暇もなさそうね」
浦は笑おうとしたようだったが、その声にはいつもの明るさがなく、竹もそんな妹を横目で見ながら、小さく息を吐いただけだった。
「……そうね」
二人のやり取りを黙って聞いていた那岐は、何も言わず食事を続けながらも、ここしばらくずっと続いている双子の様子を気にしていた。
磐余彦たちがいなくなって寂しいのは自分も同じだったが、竹と浦が感じているものは、それだけではないようにも見える。
本人たちですらまだ上手く言葉にできていない何かを抱え、どう扱えばいいのか分からないまま過ごしているのだろうと思うと、さすがにこのまま見ているのもいたたまれなくなってきた。
「そうだ、狭野が館を構えてから、もう一か月ほどになるよね。そろそろ農作物やお米を持って、お祝いがてら顔を見に行こうと思っているんだけど、二人とも荷物運びを手伝ってくれないかい?」
「磐余彦の館に? 行きます!」
浦は考える間もなく身を乗り出し、先ほどまでの沈んだ様子が嘘のように即答した。
その声には隠しきれない嬉しさが滲んでおり、那岐は思わず小さく笑みを浮かべる。
対して竹は、すぐには返事をせず、わずかに視線を伏せて迷うような素振りを見せたものの、やがて静かに顔を上げた。
「……はい。お手伝いします」
浦ほど露骨ではなかったが、その表情にも先ほどまでにはなかった明るさが戻っており、二人とも形こそ違えど、磐余彦に会えることを素直に喜んでいるのが那岐にはよく分かった。
竹と浦には、護衛としての働きへの給金代わりに、交易で手に入れた上質な布の反や髪飾りなどの小物を、那岐が機会があるごとに与えていた。
最初は二人に衣を仕立てる技術を身につけさせるためでもあったが、自分たちの手で好きな衣を作れると分かってからは、裁縫への向き合い方も変わり、かつてあれほど嫌がっていた針仕事にも自ら取り組むようになって、仕立ての腕前は目に見えて上達していった。
二人は幼い頃に豊穣祈願で袖を通した巫女装束を気に入っていたらしく、今では護衛任務で用いる衣にもその意匠を取り入れ、巫女服を基本としながら袖や裾を動きやすいよう工夫した独自の装いを好んでいる。
那岐は新しい布を反で渡すたび、どのような衣に仕立てるのかを楽しみにしており、武芸ばかりに夢中だった幼い双子が、衣の柄や髪型、小物の組み合わせまで気にする年頃の娘へと成長していく姿を、微笑ましく見守っていた。
ここ最近は、せっかく仕立てた艶やかな衣を見せたい相手もおらず、二人とも身なりへの関心まで薄れているように見えていたが、この日は久しぶりに気持ちが浮き立ったのか、竹は帯の位置や袖の乱れを何度も確かめ、浦も髪を結い直しては小物を選び直している。
そんな二人の様子を見れば、誰に会いに行くことを楽しみにしているのかなど、那岐には訊くまでもなかった。
翌日、那岐は竹と浦を連れ、農作物や米を積んだ荷車を三人で押しながら磐余彦の館へと向かった。
しばらく歩いて館に到着すると、庭先では日臣と大久米が武芸の稽古をしており、二人は那岐たちの姿に気づくなり手を止めてこちらへ駆け寄ってきた。
「那岐様、ようこそおいで下さいました。竹も浦も、よく来てくれたな」
日臣が嬉しそうに声を掛けると、竹は久しぶりに見る幼馴染の姿を眺めながら、何でもないことのように言った。
「元気そうじゃない」
「ん? 元気というか、忙しいんだよ」
日臣は苦笑しながら答えたが、その横で浦が少し寂しそうに口を開いた。
「寂しくなさそうでよかったわ」
その言葉を聞いた大久米は、無言のまま日臣の肩へそっと手を置いた。
何かを伝えるようなその仕草に、日臣は一瞬きょとんとしたものの、すぐに大久米の意図を察した。
「え? あ、ああ……寂しくないと言えば、そんなことはないぞ。ただ、こっちの生活が忙しすぎるんだ。何せ新しい館だからな、何かと足りないものばかりで落ち着く暇もなくてさ」
「……そっ」
竹はそれだけ答えたものの、先ほどより表情がわずかに和らいでいた。
そんなやり取りを見守っていた那岐は、荷車へ目を向けてから日臣に声を掛けた。
「ところで、この荷物をお願い出来るかな? それと狭野に会いたいのだけど」
「あっ、申し訳ありません。椎根津彦ー!」
日臣が館へ向かって声を張ると、ほどなくして椎根津彦が奥から姿を現した。
那岐たちを見つけると、少し驚いたように目を見開いてから丁寧に頭を下げる。
「那岐様ではありませんか。ご無沙汰しております」
「椎根津彦、那岐様たちを磐余彦様のところまで案内してくれ。大久米、俺たちは荷物を奥へ運ぶぞ」
日臣が手際よく役割を振り分けると、大久米はいつものように無言で頷き、荷車へと向かった。
幼い頃には何かにつけて竹や浦と言い争い、那岐に叱られていた日臣が、今では館の中で人を動かし、きちんと取り仕切る立場になっている。
その姿を見た那岐は、口を挟むことなく、ただ嬉しそうに目を細めていた。
椎根津彦はそんな那岐に向かって一礼すると、館の奥へ続く道を示した。
「では、ご案内いたします」
奥へ案内されてからしばらく待っていると、やがて磐余彦と吾平津媛が揃って姿を現した。
新しい館での暮らしにも少しずつ慣れてきたのだろうか、二人の間にはまだ初々しさこそ残っているものの、夫婦として並ぶ姿は以前よりも自然なものになりつつあった。
「那岐様、竹、浦、よく来てくれました。元気にされてましたか?」
磐余彦は嬉しそうに三人を迎え、那岐もいつもの柔らかな笑みを浮かべながら答えた。
「元気だったよ。でもね、狭野たちがいなくなってから家がずいぶん広く感じるようになって、少し寂しくもあったよ」
「う、うん。そうですか……私も寂しく感じています。ずっと一緒に暮らしていましたからね」
磐余彦も照れくさそうに笑いながら頷いた。新しい生活は忙しく、妻を迎えてからの日々にも慣れなければならないことが多かったが、それでも幼い頃から共に過ごしてきた家を離れた寂しさまで消えてしまったわけではなかった。
那岐はそんな磐余彦の様子を微笑ましく眺めたあと、隣に控えていた吾平津媛へ視線を向けた。
「吾平津媛はいかがですか? 少しはここの生活に慣れましたか?」
「はい。磐余彦様をはじめ、皆様には本当によくしていただいております。まだ知らないことも多く、不束者ではございますけれど、これからもご指導いただけましたら幸いです」
丁寧に頭を下げる吾平津媛を見て、那岐は満足そうに何度も頷いた。
「うんうん、狭野は良い奥さんをもらったね」
その言葉を聞いても、竹と浦は何も言わなかった。
二人とも磐余彦と吾平津媛が並んでいる姿から目を逸らすこともできず、それでいて真正面から見つめ続けることもできないような、妙に落ち着かない気持ちに包まれていたのである。
やがて吾平津媛が二人へ目を向け、少し遠慮がちに声を掛けた。
「あの、そちらのお二人が竹様と浦様でしょうか?」
声を掛けられて初めて、竹は自分たちがまだ正式に挨拶すらしていなかったことに気づき、慌てて姿勢を正した。
「あ、失礼いたしました。ご挨拶が遅れました。竹でございます」
「浦でございます、姫」
二人が揃って頭を下げると、吾平津媛は柔らかな笑みを浮かべた。
「お二人のお話は、以前から磐余彦様よりよく伺っております。とても強くて頼りになる方々だと聞いておりますし、竹様はしっかり者で、浦様はとても優しい方なのだともお聞きしました」
「いえ、私たちなど大したことはしておりません」
竹は少し照れたように答えたが、浦は何も言わず、ただ隣に立つ磐余彦へ一瞬だけ視線を向けた。
自分たちのことを、離れて暮らすようになってからも磐余彦が妻に話していた。
その事実は嬉しいはずなのに、なぜか胸の奥には小さな痛みまで伴っていた。
そんな二人の心中を知るはずもない吾平津媛は、変わらぬ穏やかな笑顔のまま、二人へ丁寧に頭を下げた。
「これからも、夫をよろしくお願いいたします」
――夫。
その一言だけが、不思議なほど鮮明に竹と浦の耳へ残った。
磐余彦はもう、自分たちと同じ家で笑い合っていた幼馴染だけではない。
目の前の女性の夫となり、この館で新しい人生を歩み始めている。
その当たり前の事実を突きつけられた瞬間、二人はこれまで胸の奥に燻り続けていた寂しさも、磐余彦の姿を見るたびに覚えていた妙な苦しさも、そのすべてが何だったのかをようやく理解してしまった。
自分たちは、磐余彦に恋をしていたのだ。
「は、はい……」
浦は辛うじてそれだけを返し、いつもの明るい笑顔を作ろうとしたものの、うまく表情を整えることができなかった。
竹もすぐには言葉が出ず、ほんの少し間を置いてから、平静を装うように姿勢を正した。
「……承知いたしました」
磐余彦と那岐は、竹と浦の様子にそれまでとは違う妙な空気を感じ取り、このまま長居をするのはよくないだろうと判断した。
那岐はなるべく普段通りの柔らかな調子を崩さないまま、磐余彦へ向き直った。
「それでは、私たちはこれで帰らせてもらうよ」
思っていたよりも早い帰り支度に、磐余彦は少し意外そうな表情を浮かべた。
「もう帰られるのですか?」
「うん、実はこのあと少し寄っておきたいところがあってね。また今度、時間のある時にゆっくりお邪魔させてもらうよ」
「そ、そうですか……。わかりました」
磐余彦はどこか腑に落ちない様子を見せながらも、それ以上引き留めることはせず、那岐たちを見送ることにした。
館を出たところで、荷車の荷物を運び終えた日臣がこちらへ駆け寄ってきた。
「那岐様、もうお帰りですか? 荷車の荷はすべて降ろしましたが、空になった荷車はそのままお持ち帰りになりますか?」
那岐は一度荷車へ目を向けたものの、すぐに首を横へ振った。
「いや、このあと他にも寄るところがあるから、今日は置いていくよ。悪いけれど、後日、大久米にでも届けてもらえるかな」
「はい、承知いたしました。こちらで預かっておきます」
「ありがとう。それでは、また来るよ」
那岐はそう言って穏やかに手を振り、竹と浦を伴って館を後にした。
磐余彦の館を出るまで、竹も浦もほとんど言葉を発することなく、ただ俯いたまま那岐の後ろを歩いていた。
館の敷地を離れ、しばらく歩いたところで、浦がようやく顔を上げたものの、その声にはいつもの明るさがなかった。
「那岐様、寄るところってどこかしら……?」
その問いかけに那岐はすぐには答えず、少しだけ歩みを緩めてから、二人を気遣うように振り返った。
「……今日は、もう帰ろうか」
「うん……」
浦はそれ以上何も聞かなかったし、竹も黙ったままだった。
那岐が先ほど口にした「寄るところ」など最初からなかったのだと、二人にも分かっていたからである。
あの場にこれ以上いれば、自分たちがどのような顔をしてしまうのか分からないことまで、那岐は察してくれていたのだろう。
磐余彦と吾平津媛が夫婦として並ぶ姿を目の前にしたことで、竹と浦はようやく、自分たちの胸の奥に長い間あった感情の正体を知ってしまった。
幼い頃から一緒に暮らし、叱ったり、からかったり、守ったりしながら、いつの間にか当たり前のように傍にいる存在になっていた磐余彦を、自分たちはただ家族として大切にしていたのではない。
恋をしていたのだ。
そして、それに気づいた時には、磐余彦はすでに別の女性を妻として迎えていた。
二人とも涙を見せまいとして、しばらくは唇を噛みながら俯いて歩いていたが、館から十分に離れた頃、とうとう浦の足が止まり、堪えていたものが崩れるように涙が零れ始めた。
「……竹……私……」
最後まで言葉にすることもできないまま、浦は顔を伏せて泣き始めた。
その姿を見た竹は、いつものように励まそうと口を開きかけたものの、声を出した瞬間に自分まで耐えられなくなり、浦以上に激しく涙を流し始めてしまった。
「私だって……私だって……もっと早く気づいていたら……」
何を言っても今さらどうにもならないことくらい、竹自身が一番よく分かっていた。
それでも、胸の奥から溢れ出してくる悔しさと寂しさを押し止めることはできず、姉としていつも気丈に振る舞っていた竹も、その時ばかりは年頃の娘として声を上げて泣いた。
那岐はそんな二人に何か言葉をかけようとはせず、ただ静かに両方の肩を抱き寄せた。
恋を諦めなさいとも、いつか忘れられるとも言えなかったし、ましてや二人の気持ちを軽々しく慰めるような言葉を口にする気にもなれなかったため、泣きじゃくる双子をそのまま受け止めながら、ゆっくりと家への道を歩き続けた。
そんな中で那岐は、荷車を磐余彦の館へ置いてきたことだけは正解だったと、場違いながらも少しだけ思っていた。
『月読……この子たちも、とうとう恋をするようになったよ……でもね、好きになった相手が厄介だな……』
八年前、まだ幼く、武芸ばかりに夢中だった二人を預かった時には、このような日が来ることなど考えもしなかった。
料理も裁縫も嫌がり、護衛なのだからそんなものは必要ないと言い張っていた少女たちが、今ではすっかり美しい娘へと成長し、誰かを好きになったことで涙を流している。
それは喜ばしい成長のはずなのに、今の那岐には二人をどうしてあげればよいのか分からなかった。
泣き続ける竹と浦を両側から抱き寄せたまま歩きながら、那岐は遥か昔に失った二人の女性を思い浮かべ、心の中でそっと問いかけた。
『こんな時はどうしたらいいのかな……漣、那美……教えてほしいよ』




