九章 神武 十四話 初夜を成功させろ!
西暦二百四十四年。
那岐が磐余彦たちと共に暮らすようになってから、八年の歳月が流れていた。
竹と浦は十六歳となり、双子の姉妹は揃って美しく成長していた。椎根津彦は十五歳、磐余彦、日臣、大久米も十四歳となり、かつて幼かった子供たちは、それぞれ年頃の少年少女へと成長している。
そんなある朝のことだった。
磐余彦の婚姻を七日後に控えた館では、いつものように四人が朝餉を囲んでいた。
食事も半ばを過ぎた頃、それまで黙っていた磐余彦が、不意にぽつりと呟いた。
「初夜って、どうすればいいの?」
「…………」
日臣の手が止まった。
椎根津彦も磐余彦を見たまま動かなくなり、大久米だけが無言で瞬きを繰り返している。
「どうするって……初夜に限らず、やることは決まっているかと……」
日臣がなんとも答えにくそうに返すと、磐余彦は困った顔で首を振った。
「行為そのものは、なんとなく分かっているんだよ。でも、ほら、ちゃんとしたやり方って誰も教えてくれなかったから。初夜にも何か儀式とかするのかなって」
「儀式はさすがにありませんけれど……」
椎根津彦は少し考え込んでから続ける。
「何分、私も詳しくありません。そもそも那岐様のところにも、その手の指南書はありませんでしたし」
「そんな書物とかあんのかよ……」
「存在していることだけは知っています。見たことはありませんが」
「存在だけ知ってんのも妙に詳しいな……」
日臣は呆れながらも、しばらく考えた末に一つの案を出した。
「とりあえず、父上の鵜葺様にお聞きされては? そもそも婚姻を勧めたのも鵜葺様ですし、政略結婚の経験だってあるんですから」
「そうだね。訊いてくるよ」
磐余彦は素直に頷き、その日のうちに父の館へ向かった。
「なに? 初夜だと?」
息子から突然飛び出した言葉に、鵜葺は目を丸くした。
「そうなんです。私の供回りはみんな経験がありませんから、父上なら色々と指南していただけるかと思いまして」
「う、うむ……」
「父上の初夜はいかがだったのでしょうか?」
「…………」
鵜葺の顔から、見る見るうちに余裕が消えていった。
「あー……昔すぎて忘れてしまったわ。ははは……」
明らかに不自然な笑いだった。
磐余彦は首を傾げる。
「では、母上に訊けばよいのでしょうか?」
「訊くでない!」
「え?」
「いいか、絶対に母には訊かぬようにな!」
「は、はあ……」
理由は分からなかったものの、鵜葺のあまりの剣幕に押され、磐余彦はそれ以上追及することなく館を後にした。
戻って一部始終を話すと、日臣、椎根津彦、大久米は揃って沈黙した。
口には出さなかった。
しかし三人の胸中には、ほぼ同時に同じ言葉が浮かんでいた。
――しくじってんじゃねーよ。
「仕方ありません。那岐様にお訊きされては?」
椎根津彦が次の候補を挙げた。
「ただ、出来たら竹や浦がいない時を狙った方がいいですね」
「そうだね。二人には知られたくないし……分かった。行ってくる」
しばらくして、那岐の家の近くに一本の木から半分だけ顔を出している少年の姿があった。
磐余彦である。
竹と浦の不在を狙った方がいいと言われたため様子を窺っているのだが、自分が初夜のことで悩んでいるなど、双子にはどうしても知られたくなかった。
しばらく待っていると、都合よく那岐が一人で家から出てきた。
磐余彦は木の陰から小さく手を振った。
どう見ても怪しい。
「…………?」
那岐は不思議そうに首を傾げたものの、磐余彦の様子から内緒話の類だろうと察したらしい。周囲を確認すると、そっと木陰まで歩いてきた。
「どうしたんだい? 隠れるようなことして」
「隠れてました……竹と浦には知られたくなくて……」
「はあ……それで、なに?」
「その……婚姻が迫ってまして。私、まだ知らないのです」
「何を?」
「だから、初めてすることをです」
「ん? そりゃ婚姻は初めてだよね?」
きょとんとした那岐の顔を見ながら、磐余彦は思った。
駄目だ。
たぶん、この人も駄目かもしれない。
それでもここまで来た以上、引き返すわけにもいかない。磐余彦は半ば諦めながら、単刀直入に尋ねることにした。
「初夜のことです。私、その……女性とそういう経験がありませんから、どう振る舞えばよいのでしょう?」
「ああ……そっちか」
ようやく理解したらしく、那岐は何度か頷いた。
「それはね、おしべとぉー、めし――」
「もう結構です!」
「あれ?」
磐余彦は那岐の説明を最後まで聞くことなく、そのまま踵を返した。
「磐余彦? まだ何も説明してないんだけど」
背中から那岐の声が追ってきたが、磐余彦は振り返らなかった。
館へ戻った磐余彦から報告を受け、四人はしばらく無言になった。
今度こそ全員が、心の底から同じことを思った。
――役に立たない大人ばっかりだな。
沈黙を破ったのは大久米だった。
「衛兵には既婚者がいる」
「ん?」
大久米は一息置いて、さらに続ける。
「村人にも訊ける」
「ああ、そうか。館の衛兵には既婚者もいるからな」
日臣の顔が明るくなる。
「村人にも訊いてきましょう。年長者だけでなく、婚姻して間もない者にも話を聞けば、何か分かるかもしれません」
「じゃあ私も――」
「磐余彦様、さすがにそれは駄目です」
日臣が即座に止めた。
「どうして?」
「立場上の問題です」
椎根津彦も珍しく真顔で頷く。
「婚姻を七日後に控えた日向の皇子が、村を回って初夜について訊ね歩いているなどと知れ渡れば、威厳に関わります」
「そこまで?」
「そこまでです。ここは我らにお任せください」
日臣が胸を張り、大久米も力強く頷いた。
ただし、一つだけ問題がある。
――大久米は、どうやって訊くのだろうか。
磐余彦たちは揃って同じ疑問を抱いたものの、本人がやる気に満ちていたため、誰も口には出さなかった。
「いいですかい。最初は男が威厳を見せるもんですぜ!」
「お、おう。そうなのか?」
日臣が真剣な顔で頷いた。
ところが話を聞いていた男は、すぐに深いため息をついた。
「いや、まあ、そうは言いましたがね。結局は家内の機嫌を損ねないようにした方がいいですぜ。下手なこと言ったら、一生言われますからな」
「おう……大変なんだな……」
最初と言っていることが違う。
別の男にも訊いてみた。
「こうやって、ばぁーんとやって、次にどぉーーーんとやって――」
「もういい。次……」
日臣は途中で話を打ち切った。
人によって言うことが違いすぎる。
ある者は堂々としていればよいと言い、ある者は相手の話を聞けと言い、またある者はひたすら妻を怒らせるなと力説した。
何が正しく、何が間違っているのか、聞けば聞くほど分からなくなっていく。
「なんで初夜のこと訊いてんのに、その後の夫婦生活の愚痴ばっかり聞かされるんだ……」
すっかり疲れ果てて館へ戻ると、椎根津彦が机に向かって何やら熱心に木簡へ書き込んでいた。
「何してんだ?」
「聞き取った内容を整理しています」
「へえ……」
日臣は椎根津彦の手元を覗き込み、そこに書かれていた題を読み上げた。
「なになに……『初夜における男女の心理と実践について』」
日臣はしばらく木簡を見つめた後、ゆっくりと椎根津彦へ目を向けた。
「お前、新しい学問つくってないよな?」
「何を言っているんです。情報を分類しているだけです」
「分類って……」
「人によって言うことが違いすぎるのです。ですから共通している部分だけを抽出し、信頼性の低い情報を除外しています」
「研究じゃねえか」
結局、日臣と椎根津彦は数日をかけて聞き込みを続け、その結果を整理して磐余彦へ報告した。
一方、大久米はというと――成果なしだった。
大久米なりに身振り手振りと表情だけで懸命に質問したらしいが、肝心の意図が誰にも伝わらなかったのである。
こうして四人は夜になるたびに集まり、婚姻後の振る舞いについて話し合った。
相手を緊張させないこと。
一方的に話を進めないこと。
何をすれば正解なのかと考えすぎず、まずは相手の気持ちを確かめること。
聞き集めた話の中から使えそうなものだけを椎根津彦が選び、日臣が分かりやすく言い換え、大久米が横で何度も頷く。
そして、それらを磐余彦の頭へ徹底的に叩き込んでいった。
やがて婚姻の日を迎えた。
昼間の儀式は滞りなく終わり、夜になると磐余彦と吾平津媛は二人きりで寝所へ入った。
寝間着姿で向かい合った二人は、どちらからともなく視線を伏せた。
「…………」
「…………」
静かだった。
恐ろしいほどに静かだった。
磐余彦の頭から、ここ数日かけて覚え込んだことが綺麗さっぱり消えていた。
最初に何を言うのか。
どんな話題から始めるのか。
緊張を解すために何をするのか。
全部、忘れた。
日臣たちと何度も練習したはずなのに、目の前に本人が座った瞬間、何一つ思い出せなくなってしまったのである。
それでも、このまま黙っているわけにはいかない。
磐余彦は膝の上で手を握りしめ、意を決して口を開いた。
「……実は、最初に何を言えばいいのか、ちゃんと決めていたのですが」
「はい」
「緊張して、全部忘れてしまいました」
「あら……」
吾平津媛が少しだけ目を見開いた。
「私の近習たちも経験がなくて。皆が色々な人に訊いて回ってくれて、作法というか、どう振る舞えばよいのかを調べてくれたのです」
「まあ……」
「何日もかけて教えてもらったのですが、今はもう何も思い出せません」
正直に白状すると、吾平津媛の表情から少しだけ緊張が抜けた。
「私も……母や侍女から色々と学んできましたので、たぶん大丈夫……ですわ」
「大丈夫って……凄いですね。きちんと学んでこられたのですね」
「教わったとは申しましても、聞いただけです」
吾平津媛は恥ずかしそうに視線を落とした。
「私も……何をどうすればよいのか、本当はよく分かりません」
その言葉を聞いた瞬間、磐余彦の肩から力が抜けた。
自分だけではなかったのだ。
「姫」
「はい」
「私たちは、今日初めてお会いしました」
「そうですね」
「そして婚姻して、今から夜を共にすることになりました」
「…………はい」
吾平津媛の表情が、わずかに強張る。
磐余彦は少し迷ってから、ここ数日覚えた言葉ではなく、自分自身の言葉で話すことにした。
「私は、いきなり私を好きになってほしいとは考えていません」
吾平津媛が顔を上げた。
「今夜から少しずつ、少しずつ積み重ねていって、長い年月をかけて……いつの間にか好きになってもらえたら、それでいいと思っています」
「今でなくても、よいのでしょうか?」
「いきなりは、私だって無理です」
磐余彦は少し困ったように笑った。
「だって、初対面ですよ」
一瞬の沈黙の後、吾平津媛の口元が綻んだ。
「ふふふ……たしかに、そうですわね」
初めて見せてくれた自然な笑顔だった。
それを見て、磐余彦もようやく笑うことができた。
「だから、これからよろしくお願いします」
「はい」
吾平津媛は穏やかな笑みを浮かべ、静かに頷いた。
「喜んで」
翌朝。
磐余彦が顔を洗おうと奥から出てくると、それに気づいた大久米がすぐに水の入った桶と手拭いを用意して差し出した。
「ありがとう、大久米」
磐余彦が受け取る。
大久米は何も言わない。
しかし、その顔にははっきりと書いてあった。
――首尾はいかがでしたか?
「…………」
磐余彦はしばらく大久米の顔を眺めた後、小さく笑った。
「たぶん、合格点じゃないかな?」
大久米の眉がわずかに動いた。
「満点とはいかないけど……まあ、最初から満点じゃなくてもいいや」
その答えを聞いた大久米は、右手を軽く握りしめた。
声こそ上げなかったものの、その表情は誰が見ても満足そうだった。




