九章 神武 十三話 少年たちの失恋
西暦二百四十四年。伊邪那岐のもとで狭野たちが暮らすようになってから、八年の歳月が流れていた。
八歳だった竹と浦は十六歳となり、幼い面影を残しながらも、今では二人とも美しい娘へと成長している。
椎根津彦は十五歳、そして狭野、日臣、大久米は十四歳となり、かつて一つ屋根の下で騒ぎ、叱られ、学び、遊んでいた子供たちは、いつの間にか皆それぞれ年頃の少年少女へと成長していたのである。
話は、狭野の婚姻を十日後に控えた頃へと遡る。
新たに建てられた狭野の館が完成し、狭野は日臣、椎根津彦、大久米の三人を伴って、長年暮らした那岐の家を離れた。
四人にとって初めて自分たちだけで暮らす館であったが、引っ越したからといって、すぐに落ち着けるわけではなかった。
狭野には成人の儀式が控えており、新しい衣を整え、必要な品を揃え、儀式の手順を確認するなど、慌ただしい日々が続き、狭野本人だけでなく日臣たち三人も準備に追われていた。
そして迎えた成人の日。狭野は正式に成人の儀式へ臨み、その晴れ姿を見るため、那岐も竹と浦を伴って館を訪れていた。
長い儀式を無事に終えた狭野は、この日を境に幼名を捨て、新たな名を名乗ることとなった。
磐余彦――。
それが、これから彼が背負っていく名であった。
儀式を終えた磐余彦のもとへ、真っ先に竹がやってきた。
「これで成人したのだから、これからは大人らしい振る舞いをしなさい」
祝いの言葉より先に飛んできたのは、相変わらずの小言だった。
「竹、今日くらい褒めてくれてもいいじゃないか」
「褒めているわよ。立派に儀式を終えたでしょう」
「それ、褒めてるのかなぁ……」
磐余彦が困ったように笑うと、その横から浦が顔を覗かせた。
「これから那岐様と離れて暮らすんだから、寂しくなっても泣かないのよ~」
「泣かないよ!」
「あら、本当に?」
「もう子供じゃないんだから!」
むきになって言い返す磐余彦を見て、浦は楽しそうに笑った。成人したといっても、こうして三人で話している姿は昔とほとんど変わらず、竹も呆れたように息を吐きながら、わずかに口元を緩めていた。
少し離れたところでは、那岐がその光景を静かに眺めていた。
祝いの言葉も、これからどう生きるべきかという教えも口にはせず、ただ穏やかな表情で成長した磐余彦を見つめている。
八年前、兄たちにいじめられて山で泣いていた小さな狭野は、もういない。自分の館を持ち、家臣を従え、新しい名を与えられ、一人の大人として歩き始めようとしている。
那岐は、そんな磐余彦の姿をただ静かに見守っていた。
その夜、成人の儀式を終えた四人は、ようやく新しい館で一息ついていた。
十日後には吾平津媛が館に到着し、婚姻の儀が行われる予定だったが、今夜くらいは何も考えず、のんびり過ごしたかった。
磐余彦は力を抜くように座り、大きく息を吐いた。
「大人かぁ……まだ実感わかないなぁ」
今日から狭野ではなく磐余彦と名を改め、成人の儀まで済ませた。それでも自分自身が昨日までと何か変わったようには思えない。
そんな磐余彦を見て、日臣が軽く笑った。
「その内、実感わきますって」
椎根津彦も穏やかに続けた。
「儀式は気持ちの切り替えをする為に、行うものなのかもですね」
磐余彦はなるほどと頷きながら、ふと周囲を見回した。
日臣、椎根津彦、そして大久米。幼い頃からずっと一緒だった三人が、今は自分の新しい館にいる。
「そういえば、四人だけで話すことって今までなかったね」
思い返してみれば、いつも那岐や竹、浦が傍にいた。男四人だけでこうして腰を落ち着けて話す機会は、確かになかった。
日臣は隣に座る大久米へ視線を向けた。
「四人と言っても、一人喋らない奴がいますがね」
もちろん大久米のことである。いつも通り無表情で座り、特に反論する様子もない。
しかし磐余彦は不思議そうに首を傾げた。
「大久米はちゃんと喋ってくれているじゃないか、顔に書いてあるし」
椎根津彦も大久米の顔を眺めながら、当然のように頷いた。
「たしかに、顔見たらわかりますからね」
日臣は二人を交互に見たあと、大久米へ目を戻した。
「大久米の顔芸を、みんなわかるようになっていたのかよ」
すると大久米は少し顎を上げ、いかにも誇らしげな表情を浮かべた。
日臣はすぐさま突っ込んだ。
「そこ、ドヤるとこでじゃねー」
「あはは……」
一斉に笑い声が上がった。
成人して新しい館へ移ったとはいえ、こうして四人で笑っている時だけは、昔と何も変わっていなかった。
「次は十日後に婚姻だよ。会ったこともない相手と夫婦になるって言われても、どうにも実感が湧かないんだよね」
磐余彦が困ったように笑いながらそう口にすると、それまでどこか和やかだった空気が少しだけ静まった。
会ったこともない相手との婚姻など、この時代の王族や有力豪族の家に生まれた者にとっては決して珍しいことではなく、本人の想いとは関係なく家や国の都合によって決められることも多い。
磐余彦もまた、その役目から逃れられる立場ではなかった。
「婚姻するからというわけではないんだけど……いや、やっぱり婚姻するからなのかな」
何かを言おうとして迷っていた磐余彦が、少し考え込んでから言葉を続けた。
「はい? どうされたのですか?」
日臣が怪訝そうに問い返すと、磐余彦は三人の顔を順番に見回したあと、少し照れくさそうに笑った。
「みんなの初恋って、誰なの?」
「いきなり何を聞いているのですか……」
日臣が思わず顔をしかめ、椎根津彦もすぐには答えられず視線を逸らした。
普段なら何でも話している仲とはいえ、こうしたことだけは簡単に口に出来るものではないらしく、大久米も黙ったまま三人の様子を眺めている。
「いや、みんなが言いたくないならいいんだ。ただ、私から話しておこうかなって思ってね」
磐余彦は一度息をつくと、覚悟を決めたように口を開いた。
「実は私……竹と浦が好きなんだ。いや、好きだったんだ、って言った方がいいのかな」
「だった?」
日臣が聞き返すと、磐余彦は自分でも答えが分からないような顔をしながら、ゆっくりと言葉を探した。
「うん。いつからだったのかは自分でもよく分からないんだ。最初からだったのかもしれないし、もっと後だったのかもしれない。小さい頃からずっと一緒に暮らして、毎日顔を合わせて、喧嘩したり叱られたり助けてもらったりしているうちに、いつの間にか好きになっていたんだと思う。だから、いつ好きになったのかって聞かれても、はっきりとは答えられないんだよ」
磐余彦にとって竹と浦は、物心がついた頃からいつも傍にいる存在だった。
特別な何かが起きて恋に落ちたわけではなく、家族のように過ごした長い年月の中で、気がつけば二人を特別な存在として見るようになっていたのである。
「では、なぜ何もお伝えにならなかったのですか?」
日臣が率直に問いかけると、磐余彦は苦笑しながら肩をすくめた。
「だって竹と浦は、私のことなんて結局、弟くらいにしか見ていないだろう? 二人は小さい頃から護衛としてちゃんと役目を果たしてきたし、私より二つも年上で、何でも自分で出来る立派な女性だよ。それに比べたら私は、ずっと竹に叱られて、浦には世話を焼かれて、家族の中で一番手のかかる子供みたいな扱いだったんだから」
そう言って笑ってみせたものの、その表情にはわずかな寂しさが滲んでいた。
「だから、二人が私をそういう相手として見ることなんてないんだろうなって、ずっと思っていたんだ。それに私は、もう十日後には妻を娶る。会ったこともない人だからって、これから妻になる人を蔑ろには出来ないし、自分の気持ちだけをいつまでも引きずっているわけにもいかない。だったら今のうちに、ちゃんと気持ちの整理をしておかないといけないと思ってね」
磐余彦はそう言い終えると、どこか自分自身に言い聞かせるように静かに笑った。
椎根津彦は少しだけ視線を落とし、何かを思い返すように間を置いてから、静かな口調で話し始めた。
「わかるような気がします。若様が……いえ、磐余彦様がそこまでお話しされるのでしたら、私も正直に申し上げましょう。実は私も、以前は浦に惹かれておりました。あの人は私にはないものをたくさん持っていますからね。明るくて、迷った時でもすぐに動けて、誰とでも自然に打ち解けてしまう。私には、ああいうところがとても眩しく見えていたのです」
日臣は意外そうに眉を上げ、椎根津彦の顔をまじまじと見つめた。
「眩しかったって、お前がそんなこと考えてたのかよ。全然気付かなかったぞ」
「わざわざ口にすることでもありませんでしたから。それに、もうとっくの昔に諦めていますし、今では心の整理もついております」
淡々と言い切る椎根津彦を見て、磐余彦は少し感心したように頷いた。それから今度は日臣へ顔を向ける。
「それじゃあ、日臣はどうなの?」
「俺ですか? いや、俺はその……」
日臣は途端に言葉を濁し、しばらく視線を泳がせていたが、やがて観念したように頭を掻くと、半ばやけくそになって声を上げた。
「ええい、もういい! 俺は竹が好きです! 好きだった……いや、違うな、今だってまだ未練がありますよ!」
「ああ……なるほど。昔、船の上で竹に吐き掛けて、自分のものだと印をつけていましたからね」
「違うわ! あれは船酔いだ! なんでそんな昔のことまで恋話に結びつけるんだよ!」
すました顔で言う椎根津彦に、日臣は勢いよく噛みついたが、磐余彦は笑うより先に不思議そうな顔をした。
「でも、どうして未練なの? 日臣はまだ竹に想いを伝えていないのでしょう。だったら、まだ諦めなくてもいいんじゃないの?」
そう問われると、日臣は先ほどまでの勢いを失い、少し困ったように頭を掻いた。
「そういうのは、言わなくても見てりゃ分かるもんなんですよ。それに俺には、まだ先にやらなきゃならないことが山ほどあります。磐余彦様の近習として一人前になって、武芸でも指揮でも誰にも文句を言わせないくらいになりたい。恋だの嫁だの考えるのは、その後でいいんです」
そこまで話したところで、それまで黙って皆の会話を聞いていた大久米が、不意に口を開いた。
「おれは……竹と浦が好きだ」
あまりにも突然だったため、磐余彦も日臣も椎根津彦も一斉に大久米へ顔を向けた。
普段なら必要なことさえ頷きや表情だけで済ませる男が、自分からこんな話題に口を挟むなど、三人とも考えていなかったのである。
大久米は三人の視線を浴びても表情をほとんど変えず、そのままゆっくりと言葉を続けた。
「けれど、二人を女として好きなわけじゃない。おれにとって竹と浦は、姉みたいなものだ。家族として好きだし、ずっと大切な人たちだと思っている。だから二人には、いつかちゃんと幸せになってほしい。それだけだ」
そこまで一息に話し終えると、大久米は再び口を閉ざした。
これほど長く大久米が自分の気持ちを言葉にしたことなど、これまで一度でもあっただろうか。
三人はしばらく何も言えず、ただ珍しいものを見るように大久米を見つめていた。
やがて日臣が、どう反応してよいのか分からないまま、ようやく声を絞り出した。
「お、おおう……お前、ちゃんとそんなに喋れたんだな……」
椎根津彦はしばらく磐余彦の様子を見つめていたが、これ以上この話を続ければ、かえって気持ちの整理がつかなくなるかもしれないと考え、日臣と大久米へさりげなく視線を送りながら口を開いた。
「磐余彦様、明日からは婚礼の準備もございますし、今夜はもうお休みになられた方がよろしいかと思います。夜の護衛は我ら三人で交代して務めますので、どうかこちらのことはお気になさらず、お休みください」
椎根津彦の意図を察した日臣も、すぐに話を合わせるように頷いた。
「そうですね。明日からまた忙しくなるんですから、今夜くらいはゆっくり休んでください。後のことは俺たちに任せてもらえれば大丈夫です」
大久米も二人の言葉に同意するように力強く頷き、何も言わないまま磐余彦へ安心するよう促した。
三人に揃って勧められた磐余彦は、どこか腑に落ちないような顔をしながらも、それ以上は何も尋ねようとはせず、少し困ったように笑った。
「そ、そうかい……それなら任せるよ。私は先に休ませてもらうけど、警護だからといって無理はしないようにね。三人とも、おやすみ」
そう言い残して磐余彦が立ち上がると、三人は揃って頭を下げ、その背中を静かに見送った。
奥へ続く戸が閉まり、磐余彦の足音が完全に聞こえなくなるまで待ってから、日臣はそれまで抑えていたものを吐き出すように大きく息をつき、椎根津彦へ顔を向けた。
「で、なんだよ。さっきから何か言いたそうな顔してるじゃねえか」
すると、それまで黙っていた大久米まで身を乗り出し、二人の顔を交互に見つめてくる。
普段なら何を考えているのか分かりにくい男なのだが、長年一緒に暮らしてきた日臣と椎根津彦には、その顔が「自分も同じことを思っている」と訴えていることくらい簡単に読み取れた。
「磐余彦様……どうやら、まったく気が付かれていないようですから」
椎根津彦が困ったように言うと、日臣も腕を組みながら深く頷いた。
「ああ、全然気が付いてねえな。あそこまで分かりやすいのに、どうしたら気付かずにいられるんだよ」
「竹と浦は、明らかに磐余彦様に惹かれています。昔はともかく、ここ最近の二人を見ていれば、さすがに分かると思うのですが……」
「知らねえのは本人たちだけなんじゃねえか? 磐余彦様は二人から弟みたいに思われてるって決めつけてるし、竹と浦の方も、自分たちがなんであんなに磐余彦様を気にしてるのか、まだ分かってねえみたいだしな」
日臣の言葉に、大久米が何度も大きく頷いた。その勢いがあまりにも強かったため、どうやら三人の認識にほとんど違いはないらしい。
「問題は、今さら私たちが何か言える状況ではないことです。磐余彦様は十日後には婚姻を控えておられますし、ご自身でも竹と浦への想いに区切りをつけようとされています。ここで余計なことを伝えれば、かえって皆を苦しませることになりかねません」
「ああ。この時期に恋路を引っかき回すのはまずいだろ。十日後には嫁さんが来るんだぜ? 今さら『実はあの二人も磐余彦様が好きみたいですよ』なんて言えるかよ」
日臣が頭を掻きながらそう言うと、しばらく黙って考えていた大久米が、突然ぽつりと口を開いた。
「なら……四人で初夜をすればいい」
日臣と椎根津彦はそろって言葉を失い、そのまま数瞬、大久米の真顔を見つめ続けた。冗談を言っているようには見えず、どうやら本人は本気で「それなら全員幸せになる」と考えているらしい。
「ねーよ!」
二人の声が見事に重なり、大久米はなぜ否定されたのか分からないという顔で首を傾げる。
「お前なあ、そんな簡単な話じゃねえんだよ。とにかく今は何も言わない方がいい。磐余彦様にも、竹にも浦にもだ。下手に口を出して、十日後の婚姻までおかしなことになったら洒落にならねえ」
「私もそう思います。今はそっとしておきましょう。時間が経てば、磐余彦様も竹も浦も、それぞれ自分の気持ちに折り合いをつけられるかもしれませんから」
「そうだな……それが一番だろ」
そこで話を終わらせようとした日臣だったが、ふと何かに気付いたように椎根津彦と大久米を見回し、自分自身のことまで思い返して、なんとも言えない顔になった。
「それにしてもよ……結局、俺たちみんな、あの双子が好きなんじゃねえか」
誰も否定しなかった。竹と浦に抱いている想いの形はそれぞれ違い、恋として惹かれた者もいれば、姉や家族として慕う者もいる。
それでも、幼い頃から共に育ち、笑い、喧嘩し、助け合ってきた二人が大切な存在であることだけは、三人とも同じだった。
日臣、椎根津彦、大久米は互いの顔を見合わせると、誰からともなくうつむき、どこか気恥ずかしそうに薄く笑った。




