九章 神武 十二話 磐余彦の婚姻
西暦二百四十四年。伊邪那岐が狭野や子供たちと暮らし始めてから、すでに八年の歳月が流れていた。
竹と浦は十六歳になり、幼い頃の面影を残しながらも二人とも美しい娘へと成長していた。
椎根津彦は十五歳、狭野、日臣、大久米は十四歳となり、皆それぞれ年頃の少年少女へと成長している。
そんなある日、狭野の父が那岐の家を訪ねてきた。本来であれば、父である自分のもとへ狭野を呼びつければ済む話だったが、狭野を預けている相手は伊邪那岐である。
一族にとって祖神にも等しい人物のもとへ息子を預けている以上、自ら出向くのが礼儀だと考えたのである。
那岐も客人として丁寧に迎えたが、狭野の父について一つだけ困っていることがあった。
狭野の父の名である。
天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(あまつひこひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)。
長い。とにかく長い。
長い年月を生きてきた那岐でさえ、覚える気が起きないほど長く仰々しい名前で、とても毎回そのすべてを呼んでいられなかった。
そのため那岐は、初めて聞いた頃から勝手に名前を省略して呼ぶことにしていた。
「鵜葺でいいよね」
そう言って以来、那岐は一貫して狭野の父を鵜葺と呼んでいる。
本人も最初こそ何とも言えない顔をしていたが、相手が伊邪那岐では訂正もしにくかったらしく、今ではすっかりその呼び方を受け入れていた。
鵜葺が訪ねてきた理由は、狭野の縁談についてであった。
狭野にもそろそろ成人して身を固めてはどうかという話が持ち上がっており、相手は火須勢理の娘、吾平津媛だった。
火須勢理は狭野にとって大叔父にあたり、筑紫南部に大きな影響力を持つ豪族でもある。
その娘との婚姻は、単に狭野個人の縁談というだけではなく、日向と筑紫南部の結びつきを強め、この一帯を安定させるという政治的な意味を持っていた。
説明を聞いた狭野は、少し驚いたように父を見た。
「父上、私がもう婚姻ですか?」
「お前も、もう十四歳になる。婚姻しても問題ない年齢だ。それに相手の姫とも年齢が近いしな」
鵜葺にとっては、特別に早い話という認識ではないらしい。狭野は少し考えてから、素朴な疑問を口にした。
「ですが、彦五瀬お兄様がおられるではありませんか?」
兄である彦五瀬の方が年長なのだから、こうした婚姻の話ならまず兄からではないのかと考えたのである。
鵜葺は小さく息を吐いた。
「あいつの婚姻は日巫女様から許されておらぬのだよ。どうやら日巫女様には、彦五瀬を娶わせたい相手にお心当たりがあるようでな」
「それで弟の私なのですね」
「うむ。それに、この機会に成人も済ませればよい。問題なかろう」
「そうですか……」
狭野はそう答えたものの、まだ自分が成人し、妻を迎えることに実感が湧いていないようだった。
そのやり取りを、那岐は少し離れたところから静かに聞いていた。
十四歳での婚姻は、この時代では特別珍しいことではなく、まして豪族や王族ともなれば、婚姻は本人同士だけの問題ではない。
国と国、家と家を結びつける役目を持ち、政治の事情次第では、もっと幼いうちから縁談が決められることさえある。
狭野もまた、そうした立場に生まれた一人だった。
那岐にも思うところがないわけではなかったが、すでに政治の表舞台から身を引いて久しい自分が、口を挟むべき話ではない。
だから何も言わず、父と子の話を静かに見守っていた。
新たに館を建て、そこに狭野と吾平津媛が住むことになった。
館が完成し次第、狭野の成人の儀式を行い、その後に婚姻する予定である。
その夜、一行の食卓は妙に静かだった。成人も婚姻も本来ならめでたいことである。
だが、それは同時に、これまでの暮らしが終わることも意味していた。
食事の席で一番問題を起こすのは、普段なら大久米だった。
寡黙なくせに食べることには遠慮がなく、黙って人の分まで食べてしまう悪い癖がある。
見つかるたびに竹に叱られ、食べ物を取られた浦から文句を言われるのがいつもの光景だった。
しかし、その大久米でさえ今夜は自分の分だけを静かに食べていた。それだけで、いつもの食卓とは違っていた。
日臣が重い空気を変えるように口を開いた。
「若様、良かったではありませんか。成人と婚姻ですよ。めでたいではありませんか」
「うん、そうだよね」
狭野もそう答えたが、まだ実感が湧いていないようだった。
椎根津彦が続けた。
「若様が、新しい館に移られましたら我らもお供いたします。我らの部屋を片隅にで結構ですので、よろしくお願いいたします」
大久米も黙って頷いた。
日臣もすぐに同意する。
「そうですね。若様の館だし我らも付いていきますぞ!」
狭野と共に日臣、大久米、椎根津彦も新しい館へ移るつもりだった。
幼い頃から共に育ってきた四人である。主従というだけでなく、すでに家族のような関係になっていた。
一方、竹と浦は黙ったまま食事をしていた。
八年の間、皆で同じ家に暮らしてきた。その少年たち四人が揃って出ていくことになる。
竹と浦は那岐の護衛である。狭野が新しい館へ移ったからといって、二人まで共についていくわけにはいかなかった。
それが分かっているからこそ、二人は何も言えなかった。
普段なら明るくよく喋る浦まで、今夜は黙っている。竹もいつものように小言を口にすることなく、静かに食事を続けていた。
那岐もそんな二人の様子を見ながら、何も言わなかった。
子供はいずれ大人になり、自分の道を歩いていく。それは喜ぶべきことだと分かっている。
それでも、寂しいものは寂しかった。
八年間、家族のように暮らしてきた日々が、もうすぐ終わろうとしていた。
夜も更け、家の中が静まり返った頃、狭野はなかなか眠りにつくことができず、一人で外へ出ていた。
見上げれば日向の夜空いっぱいに星が瞬き、雲も少なく、月明かりの下では遠くの山の輪郭までぼんやりと見えている。
狭野は家の軒先に腰を下ろし、膝を抱えるようにしながら空を眺めていた。
婚姻、成人、新しい館。今日聞かされた話はどれも自分のことなのに、どうにも自分のこととは思えなかった。
これまで那岐や竹、浦、日臣、大久米、椎根津彦と共に暮らしてきた日々が、あまりにも当たり前だったからだろう。
「眠れないのかい?」
背後から柔らかな声がして振り返ると、那岐が立っていた。
「那岐様……」
那岐は狭野の隣まで来ると、そのまま同じように腰を下ろした。
「う、うん。まだ実感が湧かなくて……」
「そうだよねー」
那岐も空を見上げた。しばらく二人で星を眺めながら、那岐は急かすこともなく、狭野が話したくなるまで黙っていた。
「婚姻かぁ……」
狭野が小さく呟いた。
「うん」
「私が妻を持つんですよね」
「そうなるね」
「変な感じです」
狭野は困ったように笑い、那岐もそれにつられるように少しだけ笑った。
「でもね。実感が湧かないからといって、婚姻相手の吾平津媛には優しくするんだよ」
「それはもちろんです」
狭野はすぐに答えたものの、少しして首を傾げた。
「でも……どんな姫なのでしょうね。会ったこともないし」
「そうなんだよねぇ」
那岐は少し困ったように頬へ手を添えた。
「普通なら、好きになってから婚姻するものなのにね。狭野の場合は婚姻してから好きにならないといけない」
「それが役目ですから」
狭野の返事には、思ったよりも迷いがなかった。
那岐は隣に座る少年へ静かに目を向けた。八年前にはまだ幼く、泣きながら自分の傍へ寄ってきた子だった。
勉強を嫌がり、田仕事ではすぐに弱音を吐き、竹に叱られ、浦に甘やかされていた。
その狭野が、今では自分の役目というものを考えるようになっている。
「……これからは、見守っているよ」
「え?」
「狭野も大人になるんだからね」
那岐が穏やかに笑うと、狭野は少し寂しそうな顔をした。
「はい。でも……」
「ん?」
「困ったら、相談しにきてもいいですか?」
その言葉に、那岐は目を細めた。
「あはは。もちろんだよ」
狭野の表情が少し明るくなった。
「本当ですか?」
「本当、本当。大人になったからって、何でも一人で抱え込む必要はないからね」
「よかった……」
「ただし」
那岐は人差し指を一本立てた。
「夫婦喧嘩の相談だけは御免だよ。それ以外で頼む」
「ええっ、そこが一番相談したくなるかもしれないじゃないですか」
「それは二人でちゃんと話し合いなさい。私は知らないよ」
「そんなぁ」
狭野が不満そうな声を上げると、那岐は声を漏らして笑い、やがて狭野もつられるように笑いだした。
静かな夜の中、二人の笑い声だけが小さく響いていた。
数か月後、狭野のために建てられていた館が完成し、それに合わせるように成人の儀が執り行われることとなった。
まだ十四歳、つい先日まで那岐の家で皆と食卓を囲み、竹に叱られ、浦にからかわれていた少年である。
しかし、この日を境に狭野は一人の成人として扱われることになり、儀式を終えると、それまでの幼名を改めた。
磐余彦――。
これより先、彼はその名をもって生きていく。
日臣、大久米、椎根津彦の三人も少し離れた場所からその姿を見守っていた。
日臣は背筋を伸ばしてどこか誇らしげであり、幼い頃から「若様」と呼び続けてきた少年が、いよいよ成人したことに感慨を抱いていた。
これからは自分も近習として、これまで以上にしっかり仕えなければならない。そんな決意が表情にも表れている。
大久米はいつものように何も言わず、成人の装いをした磐余彦をじっと見つめながら静かに何度も頷いていた。
椎根津彦も穏やかな笑みを浮かべている。
幼い頃から共に学び、遊び、時には那岐に叱られながら育ってきた主の晴れ姿は、三人にとっても感慨深いものだった。
そして成人の儀から十日後、今度は婚姻の日が訪れた。
新しい館には朝から多くの者が出入りし、慌ただしく準備が進められていた。
やがて火須勢理の娘、吾平津媛が一行を伴って館へ到着し、婚姻の儀を終えると、磐余彦と吾平津媛は初めて夫婦として並んだ。
二人の間には、まだどこか硬い空気があった。互いにほとんど知らぬまま、この日から夫婦として暮らすことになったのだから無理もない。
吾平津媛は俯き気味に座り、指先を落ち着かなそうに重ねていた。その様子に気づいた磐余彦が、少し身体を向ける。
「姫、緊張しているのですか?」
吾平津媛が小さく顔を上げた。
「……はい。少しだけ」
磐余彦もまた緊張していないわけではなかったが、自分まで不安そうな顔をしていてはいけないと思ったのだろう。できるだけ穏やかに笑った。
「大丈夫ですよ。私がいます。安心してください」
吾平津媛は一瞬驚いたように磐余彦を見つめ、それから、ほんの少し表情を和らげた。
「は、はい。ありがとうございます。とても心強いです」
まだ二人のやり取りにはぎこちなさが残り、言葉を交わすにも互いに少し遠慮があった。
それでも磐余彦は吾平津媛を気遣い、吾平津媛もまた磐余彦に応えようとしている。夫婦としては、まだ始まったばかりだった。
そんな二人を、日臣、大久米、椎根津彦は少し離れた場所から眺めていた。
「立派になられたな……」
日臣がぽつりと呟くと、椎根津彦が静かに頷いた。
「ええ。本当に」
大久米も大きく一度頷いた。
三人にとって、これは主君の婚姻であると同時に、幼い頃から共に過ごしてきた仲間の門出でもあり、だからこそ素直に嬉しかった。
一方、そのさらに少し離れた場所には那岐と竹、浦の三人がいた。
浦はいつものような笑顔を浮かべていなかった。
普段ならこういう祝いの席では誰よりも明るく振る舞う娘である。それなのに今日は、磐余彦と吾平津媛が並んでいる姿を黙ったまま見つめている。
竹も同じだった。何か言いたそうにするわけでもなく、ただ真っ直ぐ二人を見つめていた。
八年間、幼い狭野と共に暮らしてきた。朝になれば起こし、食事を共にし、畑へ行き、武芸を教え、時には叱り、時には守った。
いつまでも弟のような存在だと思っていた少年が、今は成人し、別の娘を妻として隣に立っている。
竹にも浦にも、その胸の奥に生まれている感情が何なのか、まだはっきりとは分かっていなかった。
ただ、どうしてなのか、素直に笑うことができなかった。
那岐はそんな二人の様子に気づいていたが、何も言わなかった。
慰めることもしなければ問いかけることもせず、ただ静かに竹と浦の横に立っていた。
磐余彦と吾平津媛、その二人を誇らしげに見守る日臣、大久米、椎根津彦。そして少し離れた場所から、それぞれに複雑な思いを抱きながら眺める那岐と竹と浦。
祝いの声が響く中、三人だけはしばらく何も言わず、新しい夫婦の姿を見つめ続けていた。




