九章 神武 十一話 遭難
西暦二百三十九年。那岐と狭野たちが共に暮らし始めてから三年の歳月が過ぎ、竹と浦は十一歳、椎根津彦は十歳、狭野、日臣、大久米は九歳になっていた。
日向の地へ戻ってから、しばらくが経ったある日のことだった。いつものように皆で朝食を囲んでいると、那岐がふと思い出したように口を開いた。
「今日は村の集会があります」
箸を動かしていた子供たちの視線が一斉に那岐へ向く。
「村で定期的に開かれている寄り合いがあるみたいでね。私も顔を出さないといけません」
「お任せ下さい。留守の間は、私が那岐様の代わりを務めます」
真っ先に反応した竹は、背筋を伸ばし、いかにも自分に任せてほしいと言わんばかりの顔をしていた。
「うーん、竹に私の代わりが務まるかはともかくとして……」
「務まります!」
即座に言い返され、那岐は苦笑した。
「まあ、それは置いておいて。私が留守の間、みんなはどうしましょうかねぇ」
「武芸の稽古でいいのでは? 俺はそれで構いません」
日臣が当然のように言うと、浦は楽しそうに笑った。
「私は浜辺に行って釣りがしたいなぁ。この前、魚あんまり釣れなかったし。今度こそいっぱい釣りたい」
「座学でよいのではないでしょうか。那岐様が留守にされるのでしたら、その方が一番安心されると思います」
椎根津彦が静かに提案した瞬間、狭野が慌てて顔を上げた。
「ま、待って! この前、那岐様が山菜がなくなったって言ってたじゃないですか!」
何か妙案を思いついたように身を乗り出し、そのまま勢いよく続ける。
「だから今日は山菜採りに行きましょう。ちょうどいいと思います!」
「……座学が嫌なだけじゃないでしょうね?」
竹が疑わしそうな目を向ける。
「ち、違うってば。本当に山菜が必要だと思ったんだよ」
「まあ、たしかにそろそろ採りに行かないといけない頃ではあるわね」
「でしょ!」
竹が同意すると、狭野の顔がぱっと明るくなった。
「俺はいらないけどなぁ……山菜って苦いのが多いだろ」
日臣が露骨に嫌そうな顔をすると、隣で黙って食べていた大久米も、こくりと頷いた。
「大久米まで何を頷いているの! 好き嫌い言わないの。食べられるものはちゃんと食べなさい!」
竹に睨まれ、大久米は何も言わず視線を逸らした。
「山菜採りですかぁ……」
那岐は少し考え込んだ。子供たちだけで山へ入らせることに多少の不安はあったが、そんな様子を見た浦が明るく声を上げる。
「大丈夫ですよ、那岐様。私たちだけでもちゃんと出来ます」
「そうです。私が皆をしっかり見張っておきますから」
竹も胸を張ったが、狭野はすぐに口を挟んだ。
「見張らなくていいからね。普通に山菜を採ってくれればいいんだから」
「あなたを一番見張っておかないといけないのよ」
「えぇ……」
狭野は露骨に嫌そうな顔をした。何をするにも竹から注意されるのが、最近は少し窮屈に感じるようになっていたのである。
那岐はそんな二人のやり取りを眺めながら、小さく笑った。
「まあ、いいでしょう」
「本当ですか?」
狭野が嬉しそうに顔を上げる。
「ただし、山へ行くのなら、あまり奥まで入らないようにしてくださいね。みんな一緒に行動すること。勝手に遠くまで行ったりしないこと」
「はい」
「それから、暗くなる前にはちゃんと戻ってくるんだよ」
子供たちは顔を見合わせ、次の瞬間、元気いっぱいに声を揃えた。
「はーい!」
子供たちは各自籠を持参し、遠足気分で山に入って山菜採りを始めた。
「いいですかぁ、あまり遠くに行かないこと。遠くに行ったり、みんなから離れたらだめだからね」
竹が皆に言い聞かせると、浦は気軽に答えた。
「わかってるって」
日臣も面倒そうに口を挟む。
「いちいち言わなくてもわかってる。細かい奴だなぁ」
そんな皆を見ながら、椎根津彦がふと気になったことを尋ねた。
「皆さんは食べられる草や芽の分別はわかっていますか?」
「……なんとなく?」
狭野は自信なさそうに答えた。
「いつも食べているのだろ? わかるぜ、たぶんだけど」
日臣もそう答えたものの、あまり自信はなさそうだった。
「竹といつも料理しているから、なんとなくわかるよ」
浦はそう答えた。一方、大久米は黙ったまま首を横に振り、あまり分かっていないことを伝えた。
「……後で、確認して分別しないといけないかもね」
竹が少し不安そうに呟いたところで、狭野が楽しそうに声を上げた。
「じゃあ、誰が一番たくさん採れるか競争だぁ」
「遊びじゃないんだから真面目にしなさーい」
竹がすぐに注意したものの、誰も気にする様子はなく、皆一斉に山菜採りに夢中になった。
竹と椎根津彦は自分たちも山菜を採りながら、ときおり皆の籠の中を確認し、食べられない草が混じっていれば取り出して山へ戻していった。
その途中、椎根津彦は根ごと引き抜こうとしている者を見つけると注意した。
「草は根まで取らないでください。次に生えなくなっては困りますから」
皆はその言葉を聞き、今度は根を残すよう気をつけながら山菜を採っていった。
珍しく狭野は夢中になって山菜を採っていた。目についた若芽や食べられそうな草を次々と籠へ入れていき、気がつけば籠は山菜で一杯になっている。
満足そうに籠を眺めてから周囲を見渡したところで、ようやく近くに誰もいないことに気がついた。
「あれ……みんなは?」
山菜採りに夢中になるあまり、一人だけ皆から離れてしまったらしい。先ほどまで晴れていた空にはいつの間にか雲が広がり、日差しも弱くなっていた。
涼しくなったおかげで疲れを感じにくく、普段より長く歩き回ってしまったのかもしれない。
「まあ、籠もいっぱいになったし……少し休んでから戻ろうかな」
そう呟いたところで喉の渇きを覚えた狭野は、どこかに沢か川がないか耳を澄ませた。
しかし近くから水音は聞こえてこない。仕方なく籠を抱え直し、水辺を探して山を下り始めた。
しばらく歩いていると、頬に冷たいものが触れた。続いて額にも小さな雨粒が落ちてきたため、狭野は空を見上げる。
「雨になるのかなぁ……早く帰らないと。みんなどこにいるのかなぁ」
少し不安になってきたものの、喉はかなり渇いていた。
「水だけ飲んだら、すぐ戻ろう」
そう決めてさらに山を下っていくうち、雨は少しずつ強くなっていった。
濡れた土に足を取られないよう、狭野は木の幹や枝につかまりながら慎重に進む。
やがて雨音の中に、さらさらと流れる水の音が混ざり始めた。
「あった!」
木々の間を抜けた先に小さな川を見つけ、狭野は嬉しそうに声を上げた。
「やっと見つけたぁ」
急いで川辺へ向かうと籠を岸に置き、膝にも届かないほどの浅瀬へ入って両手で水をすくった。
冷たい水を何度か続けて飲み、乾いた喉を十分に潤す。
「おいしい……」
歩き回った疲れも出てきたため、狭野はそのまま浅瀬にある大きな岩の傍へ腰を下ろした。
「ちょっとだけ休もう……」
雨の音を聞きながら息を整えていた狭野は、川の流れが少しずつ変化していることにまだ気づいていなかった。
足首ほどだった水は徐々に脛へ近づき、それに伴って流れも速くなっていく。
「……ん?」
ようやく異変に気づいて顔を上げると、先ほどまで澄んでいた水には枯葉や細い枝が混じっていた。
さらに上流から低い轟音まで聞こえてくる。
ゴォォォォ――。
「な、なに……?」
音は次第に大きくなっていった。危険を感じた狭野は慌てて立ち上がったが、その瞬間、足元を強い水流に押されて身体をよろめかせる。
「うわっ!」
急いで岸へ向かおうとしたものの、先ほどまで簡単に歩けた浅瀬はすでに別物になっていた。
水位は目に見えて上昇し、一歩進もうとするだけでも足を取られそうになる。
「まずい……!」
それでも必死に岸へ向かおうとした時、上流から大量の濁った水が押し寄せた。
川幅は一気に広がり、澄んでいた流れも茶色く濁って、大量の枝や枯葉が激しく流れていく。
「うわぁっ!」
足を取られた狭野は咄嗟にすぐ傍の岩へしがみついた。
両腕で必死に岩を抱え込み、何度も岩の上へ登ろうと足を動かしたが、激しい流れに押されて身体を持ち上げることができない。
「くっ……!」
手を離せば、そのまま流されてしまう。
だからといって岩にしがみつき続けていても、冷たい水に打たれながら少しずつ腕の力が奪われていく。
雨はますます激しくなり、狭野は岩に必死にしがみついたまま震える息を吐いた。
『どうしよう……動けない……』
その時だった。
「狭野ーーーー!」
激しい雨音を切り裂くように竹の声が響き、狭野は弾かれたように顔を上げた。
少し離れた岸辺には竹が立ち、そのすぐ傍には浦の姿もある。
二人は狭野がいなくなったことに気づいてから、ずっと山の中を探し回っていたのである。
「たけぇーー! うらぁーーー!」
狭野は岩にしがみついたまま必死に声を張り上げた。
ようやく見つけた狭野は増水した川の中に取り残され、濁った水が激しく流れる中、岩にしがみついていた。
少しでも手を離せば、そのまま濁流に呑まれてしまいかねない。
浦は周囲を素早く見渡した。
「狭野がしがみついている岩の上まで、飛び越えていくよ!」
「うん!」
二人は迷うことなく、川から突き出した岩を足場にして次々と飛び移った。
雨で濡れた岩は滑りやすく、その下では濁流が轟音を立てていたが、それでも足を止めることなく、やがて狭野がしがみついている岩の上へたどり着いた。
浦はすぐさま身を屈め、狭野へ手を伸ばした。
「狭野! 手を掴んで!」
「う、うん……!」
狭野が岩から片手を離した瞬間、流れに身体を持っていかれそうになった。
「わっ……!」
「狭野!」
狭野は必死に浦の手を掴んだ。
「竹!」
「わかってる!」
竹は後ろから浦の身体に両腕を回してしっかりと支えた。
浦一人で引っ張れば、そのまま一緒に川へ引き込まれるかもしれないため、二人で狭野を引き上げる。
「んんっ……!」
浦が歯を食いしばって腕に力を込め、竹も後ろから踏ん張った。
「狭野、足を岩に掛けて!」
「う、うん!」
狭野も何度か足を滑らせながら、必死に岩を蹴った。
「もう少し!」
「がんばって!」
二人の声に励まされて狭野が最後の力を振り絞ると、浦が勢いよく腕を引き、ようやくその身体が水の中から抜けた。三人は揃って岩の上へ倒れ込む。
「はぁ……はぁ……」
しばらく誰も動けず、雨だけが容赦なく三人の身体を叩いていた。やがて浦が身体を起こすと、そのまま狭野へ抱きついた。
「もう! 心配したじゃないかぁ~!」
「い、痛いよ浦! 力が強すぎるー!」
ぎゅうぎゅうと抱きしめられ、狭野は悲鳴を上げる。
「だって、本当に心配したんだから!」
いつもの明るい声だったが、わずかに震えていた。竹も狭野の前まで来ると、その頭を軽く叩いた。
「痛っ」
「何言っているの……」
竹は怒ったような顔をしていたが、その表情には安堵も滲んでいた。
「本当に心配したんだからね」
「……ごめんなさい」
狭野が素直に頭を下げると、竹はそれ以上責めなかった。川はなお増水を続けており、今は説教をしている場合ではない。
「急いで避難しましょ。ここも安全とは限らないわ」
「わかった」
浦もすぐに狭野から離れ、三人は慎重に岩場を離れて川から距離を取った。
木々の間を抜け、少し高い場所まで移動したところでようやく足を止めたが、雨は依然として強く、三人とも頭から足の先までずぶ濡れになっている。
竹は自分の袖から滴る水を見て眉を寄せた。
「ずぶ濡れね……。どこか雨を避けられる場所、ないかしら?」
「
そうだね……」
狭野は両腕を抱くようにして身体を縮めた。
「寒くなってきた……」
先ほどまで必死だったため気づかなかったが、身体からどんどん熱が奪われている。
浦が周囲を見回していると、木々の向こうに小さな建物らしきものを見つけた。
「あっ!」
浦が指差す。
「あそこ! 小屋じゃない? とりあえず行ってみない?」
竹も目を凝らした。雨に霞んでよく見えないが、確かに木々の間に小屋らしきものがある。
このまま雨の中にいればさらに身体が冷えてしまうため、迷っている暇はなかった。
「そ、そうね」
竹はすぐに頷いた。
「行きましょう」
三人は互いに離れないよう身を寄せながら、小屋へ向かって歩き出した。
雨脚が急に強くなった頃、那岐は子供たちが心配になり、村の寄り合いを途中で切り上げて山手へ向かった。
しばらく進むと、全身ずぶ濡れになった日臣、大久米、椎根津彦の三人を見つける。
「那岐様!」
「三人は無事だね。よかった。それで、ほかの子たちは?」
那岐が周囲を見回すと、そこに狭野と竹、浦の姿はなかった。
「それが……若様が行方不明になって、みんなで探していたのですが……」
「雨が酷くなってから、竹と浦も見失いました。今どこにいるのか、わからないのです」
「そう……」
大久米は何も言わず、申し訳なさそうに俯いて拳を握っていた。
那岐は三人を責めることなく静かに目を閉じ、深く息を吸って吐き出した。
吐息が青く染まり、身体から妖気が広がっていく。
意識を山中へ広げ、雨や風、木々や水の流れの中から三人の気配を探っていった。
しばらくして那岐は目を開いた。
「……いた」
三人が一斉に顔を上げる。
「三人とも生きています。細かい状態までは分からないけれど、気配はあります」
「よかった……」
日臣が安堵の息を漏らし、椎根津彦も胸を撫で下ろした。大久米の表情もわずかに緩む。
「三人は私が連れ戻します」
那岐は三人を見渡して続けた。
「あなたたちは家へ戻ってください。着いたら、まず濡れた衣をすぐに着替えること。それから囲炉裏を温めておいてくださいね」
「はい!」
「薪も絶やさないように。火をしっかり保っておいて。それと毛布をたくさん出しておいてください」
「わかりました!」
それでも椎根津彦はその場を動かず、申し訳なさそうに頭を下げた。
「那岐様……申し訳ありません。こんなことになってしまって……」
那岐は小さく首を横に振った。
「あなたたちのせいではありませんよ。気にしない」
「ですが……」
「今は反省するより、やることがあります」
責めるような声音ではなく、いつもの穏やかな口調だった。
「三人が戻ってきた時に、すぐ温まれるようにしておいてくれるかな。それも大切な役目です」
「……はい」
椎根津彦はようやく頷いたが、大久米はまだ俯いたままだった。
「大久米」
呼ばれて、大久米が顔を上げる。
「狭野たちは生きているよ」
大久米は黙って那岐を見つめた。
「だから、そんな顔をしないの。帰って迎える準備をしてあげてください」
大久米は力強く頷いた。
「ほら、早く戻りなさい。後は私に任せて」
「はい!」
日臣が返事をし、椎根津彦と大久米も頷いて家へ向かって走り出した。
その姿を見送った那岐は、再び三人の気配がある山の奥へ視線を向けた。
この雨では一刻を争う。いつもの柔らかな笑みを消し、那岐は雨の降りしきる山中へ入っていった。
狭野と竹、浦の三人は小屋へ駆け込み、互いに抱きしめ合うように身を寄せた。
小屋には囲炉裏も薪もあったが火種がなく、濡れた衣のままでは体温を奪われ続ける。
仕方なく三人は囲炉裏の傍に座り、互いの身体を寄せて温め合うしかなかった。
「竹・浦大丈夫? 私は大丈夫だからもっと寄せて、体が冷えちゃうよ」
「生意気言わないの」
竹はそう言いながら狭野を自分の方へ引き寄せ、反対側では浦も狭野の腕を抱えるようにぴったりと身を寄せた。
「十分引っ付いているじゃない。もっとくっつきたいなら、素直にそう言えばいいのに」
「そ、そういう意味じゃないってば、心配になっただけ」
狭野は顔を赤くしながら言い返した。
「子供がそんな心配しなくていいの」
「竹だってまだ子供じゃないか」
「あら、密着されて嬉しそうにしているのにそんなこと言うんだぁ」
「だから……そんなんじゃ……」
言い返していた狭野の声が急に弱くなった。
身体がひどく重くなり、強い眠気に襲われ、そのまま竹と浦にもたれかかるように目を閉じてしまう。
「狭野?」
竹が呼びかけたが返事はない。
「え? 寝ちゃったの? 寝ちゃ駄目」
浦の表情から笑みが消え、慌てて狭野の身体を揺する。
「狭野、目を開けて」
「もっと温めないと……」
双子の表情が一変した。自分たちも寒さに震えていたが、それどころではない。
竹と浦は左右から狭野を包み込むように身体を寄せ、これ以上体温を失わせまいと強く抱きしめるのだった。
その時、小屋の外から大きな物音が響いた。
――バタン。
何かが地面へ落ちたような音だった。
竹と浦が一斉に戸口へ顔を向けると、直後、戸が勢いよく開いた。
雨の向こうから姿を現したのは、一人の少年だった。
「那岐様!」
竹の表情がぱっと明るくなる。
「狭野が眠ってしまって……!」
「まだ体も冷たいの!」
浦も縋るように訴えた。伊邪那岐は二人を落ち着かせるように小さく頷くと、すぐさま三人の様子を確かめた。
狭野の顔色、呼吸、そして竹と浦の状態にも順番に目を向ける。
「大丈夫。そのままでいて」
穏やかな声だった。那岐が囲炉裏へ手を向けると、次の瞬間、火種すらなかった囲炉裏の中に、ふっと炎が生まれた。
「え……?」
竹が目を見開く。さらに那岐が指先を軽く動かすと、部屋の片隅に積まれていた薪がひとりでに宙へ浮かび、次々と囲炉裏の中へ収まっていった。
炎はたちまち大きくなり、小屋の中へ暖かな空気が広がっていく。
竹と浦は言葉もなく、その光景を見つめていた。那岐が妖術を使えることは知っていた。
けれど、こうして目の前で当たり前のように使われると、やはり現実とは思えなかった。
「これで少しは暖かくなるよ」
那岐はそう言ってから、三人の濡れた衣へ目を向けた。
「でも、濡れた衣を着たままではよくありません。竹、浦。いったん衣を脱ぎなさい。狭野は私が脱がせますから」
「む、無理です!」
竹が即座に答えた。
「そ、そうよ! 駄目です!」
浦まで慌てて首を振る。二人とも顔を真っ赤にして、那岐を睨むように見つめていた。
那岐は少し困ったように瞬きをした。
命に関わるような状況だというのに、こういうところだけは年頃の娘である。
「……困ったなぁ」
那岐は小さく息を吐いた。無理に言っても仕方がない。
「では、私は後ろを向いています。二人とも一度だけ衣を脱いで、しっかり水を絞りなさい。そのあと、すぐに着直してください」
竹と浦は顔を見合わせた。
「それなら……」
「うん……」
「濡れたままよりはずっといいからね。終わったら声をかけて。囲炉裏のそばでしっかり体を温めましょう」
「……はい」
「わかりました」
ようやく二人が頷いた。那岐は約束通り二人へ背を向け、その間に狭野の様子を確かめながら、少しでも早く三人の体が温まるよう囲炉裏の炎を調整するのだった。
那岐は胸元に狭野を大切に抱き、その両肩には竹と浦が寄り添っていた。
囲炉裏の火が小屋の中を暖めていく中、激しい雨音はまだ屋根を叩いていたものの、先ほどまで三人を震わせていた冷気は少しずつ遠ざかっていた。
やがて竹の身体から力が抜けた。
「……那岐様……」
小さく呟いたまま那岐の肩へ頭を預け、反対側では浦も目を閉じていた。
狭野が助かり、さらに那岐まで来てくれたことで、張り詰めていたものが一気にほどけたのだろう。
ほどなくして双子は二人とも静かな寝息を立て始めた。
那岐はそんな三人を見回し、困ったように小さく笑った。
「まったく……心配ばかりかけてくれるね」
もちろん返事はない。胸の中では狭野が眠り、左右では竹と浦が身体を預けている。
那岐は起こす気にもなれず、そのまま三人を抱くようにして火のそばに座り続けた。
半刻ほど経った頃には屋根を叩いていた雨音も次第に弱まり、やがて完全に止んだ。
外から聞こえていた激しい水音も遠ざかり、小屋の中には囲炉裏で薪が弾ける音だけが残っていた。
「さて……帰ろうか」
那岐はそう声をかけたものの、三人とも起きる気配はない。
竹も浦もよほど疲れていたのだろう。狭野を守るように寄り添ったまま、すっかり眠り込んでいる。
「これは歩いて帰るのは無理そうだね」
那岐は仕方なさそうに笑うと静かに手をかざし、淡い妖気を小屋の中へ広げた。
すると眠ったままの三人の身体がふわりと宙へ浮かび上がる。
那岐は一人ずつ落とさないように引き寄せ、胸元には狭野を、左右には竹と浦を抱きかかえた。そして小屋の戸を開く。
雨上がりの山には薄い霧がかかり、濡れた木々から雫が落ち、雲の切れ間からわずかな光が差し込んでいた。
「帰ろうね」
眠っている三人へ優しく語りかけると、那岐の身体は三人を抱いたままゆっくりと地面を離れ、木々の梢を越えて日向の里へ向かって飛んでいった。
三人は最後まで目を覚ますことなく、那岐の腕の中で眠り続けていた。
なお、山菜採りの籠は騒ぎの中ですっかり山に置き去りとなっていた。
そのため後日――那岐、狭野、竹、浦、日臣、大久米、椎根津彦。
家族七人そろって、もう一度山菜採りへ出かけることになるのであった。




