九章 神武 十話 親魏倭王
難升米を使節長とする大倭壱国の使節が、魏帝への謁見を許されたのは洛陽へ到着して数日後のことであった。
使節の先頭には難升米が立ち、その次使として伊邪那岐が都市牛利と名乗って付き従っている。
本来ならば大倭壱国の使節を実質的にまとめているのは、大陸の言葉を解し、帯方郡にも何度か足を運んだ経験を持つ那岐であった。
すでに政治の表舞台から退いて久しく、今さら使節長として前に立つことを本人が嫌がったため、難升米が正式な使節長となっていた。
魏の宮殿へ入った一行は、案内された広間で皇帝の前へ進んだ。
高い御座には皇帝が座し、その周囲を多くの官人や近侍が固め、大倭壱国から運ばれてきた貢物も広間の一角へ並べられている。
本来、魏の宮廷では天子へ拝謁する者は身を低くし、地に頭をつけて敬意を示す。
しかし難升米は大陸の礼ではなく倭の礼を選び、深く身を伏せて柏手を打った。
乾いた音が広間に響き、礼法の違いに官人たちの間からわずかなざわめきが起こったものの、遠く海を越えてきた異国の使者ということもあって咎められることはなかった。
「遼東平定、誠におめでとうございます。我ら倭国を代表し、お祝い申し上げまする」
難升米の言葉を、後ろに控えていた那岐が魏の言葉へ訳して伝える。
皇帝は御座から動くことなく海の彼方から来た使者たちを眺めていたが、やがて傍らに控えていた近侍が一歩前へ進み出た。
「このたびの朝貢、誠に大儀である。また公孫氏討伐の後、いち早く臣従の意を示したことも、まことに殊勝である。献上された品々も良き物であるぞ」
那岐がその言葉を倭の言葉へ直して伝えると、難升米は再び深く頭を下げた。
「天子の御代が末永く栄えますことを、倭の女王ならびに諸国を代表し、お祝い申し上げます」
その言葉も那岐が訳すと、近侍は皇帝の意向を受けるように続けた。
「よい。このたびの朝貢に対する返礼については、後日あらためて沙汰がある。陛下より良き品々が下賜されるであろう。このたびの朝貢、誠に大儀であった」
難升米は恐縮してさらに深く頭を下げた。これで謁見は終わるものと思われたが、近侍は手元の文書へ目を落とし、もう一度声を上げた。
「また、このたびの功により、難升米を率善中郎将に任ずる」
思いがけない沙汰に難升米が目を見開いた。
「はっ……ありがたき幸せにございます」
「次使、都市牛利を率善校尉に任ずる。両名には、それぞれ銀印青綬を下賜するものとする」
今度は那岐がわずかに顔を上げた。隠居して久しい自分にまで官職が与えられるとは、まったく想定していなかったのである。
しかし、近侍が手にしていた文書には、まだ続きがあった。
「さらに陛下より、倭の女王へ詔が下される」
難升米と那岐は、揃って顔を上げた。広間の空気がわずかに変わった。
「倭の女王を、倭王とする」
その言葉を聞いた瞬間、難升米が息を呑んだ。
那岐も思わず近侍を見つめた。
今回の朝貢で日巫女が最も望んでいたもの。それが、いま魏の皇帝によって認められたのである。
「倭王には金印紫綬を授ける。また銅鏡をはじめ、絹布、錦、刀、その他の品々を下賜する。これらは詔書とともに帯方郡を通じ、後日、倭の女王のもとへ届けるものとする」
難升米は額が床につくほど深く頭を下げた。
「ありがたき御沙汰にございます。倭の女王も、この上なき誉れとしてお受けいたしましょう」
那岐もその言葉を魏の言葉へ訳しながら、内心では少し不思議な気持ちになっていた。
幼い頃から知っている娘が、いまや大陸の皇帝から倭を代表する王として認められたのである。
もちろん、日巫女がこの称号を欲していた理由も那岐には分かっていた。
倭国をまとめるためだ。それだけに、素直に喜んでよいものか、那岐には少しだけ複雑でもあった。
とはいえ、この場でそのようなことを口にするわけにもいかない。
難升米が深々と頭を下げる横で、那岐も仕方なくそれにならった。
「謹んで、お受けいたします」
こうして大倭壱国の使節は魏帝への謁見を無事に終えた。
日巫女を「親魏倭王」とすることは、この洛陽の地ですでに決まった。
しかし、その証となる金印紫綬や詔書、そして多数の下賜品が実際に日巫女の手へ渡るのは、もう少し後のことである。
さすがに狭野たち子供は宮中の謁見には連れてきておらず、宮殿を退出して宿舎へ戻る道すがら、那岐は与えられた官職の証を眺めながら、なんともいえない顔をしていた。
「……私、官職までもらっちゃったよ」
「誠に名誉なことでございます。それに日巫女様も、とうとう親魏倭王でございます」
「そうなのだろうけどねぇ……いやぁ……私は隠居しているんだけどなぁ」
難升米は返す言葉に困り、ただ苦笑するしかなかった。
魏にとって、遼東平定の直後に、海の彼方にある倭の国が臣従を求めてきた意味は決して小さくなかった。
魏と長く争っている呉は、長江流域だけでなく海上にも勢力を伸ばしていた。
かつては遼東の公孫氏とも海を介して結びつこうとしたことがある。
その公孫氏を滅ぼし、遼東を完全に支配下へ置いた直後、さらにその東方にある倭から使者が訪れ、魏の皇帝へ臣従を申し出たのである。
魏にとって、これほど都合のよい出来事はなかった。倭が実際に兵を出して呉と戦う必要などない。
東の海の彼方に、魏の皇帝を天子として認める国が存在する。その事実そのものに価値があった。
呉から見れば、魏は遼東を平定しただけではなく、そのさらに東の海域にまで影響力を伸ばしたことになる。
倭が魏と結びついた以上、呉にとっても無視できる存在ではなかった。
だからこそ魏は、大倭壱国を単なる遠方から訪れた朝貢国として扱わなかった。
韓の諸国の長に与えるものとは明らかに格の異なる待遇を用意し、その女王を倭の諸国を代表する王として遇することにしたのである。
もちろん、そこに一方的な厚意などなかった。
魏には、倭を自らの権威の下へ置くことで、東方にまで皇帝の威光が及んでいることを示したい思惑があった。
そして日巫女にもまた、魏という大国の権威を利用し、大倭壱国を倭国唯一の盟主として認めさせたい思惑があった。
魏は東方における権威を求めた。日巫女は倭国統一のための権威を求めた。両者の目的は異なっていた。
しかしこの時だけは、その利害が見事に一致していたのである。
宇佐の宮では、日巫女が月読に問いかけた。
「まだ魏から知らせはないの?」
「大陸は広く都は遠いです。父上達はおそらく都には届いているのでしょうが、戻りも長くかかりますので、もうしばらくお待ちください」
「……そうね」
日巫女はそう答えたものの、今回ばかりは落ち着いて待ってはいられなかった。どうしても魏から倭王の称号を得たかったのである。
大倭壱国は筑紫から中国地方、四国、瀬戸内沿岸へと勢力を伸ばしていたが、倭国統一にはまだ東の三輪山という一大勢力が残されていた。
三輪山は近畿だけでなく東の諸国とも深く結びつき、複数の国を従えている。
何より、その頂点に立つ邇芸速日は戦で一度も敗れたことのない無敗の将であり、政治や国造りにも優れていた。
半世紀ほど前、大年と名乗っていた少年が自分の前に現れた時、日巫女はその聡明さを見抜いて養子とし、邇芸速日の名と十種神宝を与えた。
だが、まさかここまで大きな存在になり、大倭壱国の東進を阻む壁になるとは予想していなかった。
だからこそ魏の権威が必要だった。
倭王として認められれば、大倭壱国連合の結束はさらに強まり、どちらにつくか迷っている国々も倭王のもとへ靡く可能性が高い。
武力だけでなく、権威によって三輪山を上回ることができる。
日巫女は目を伏せた。どれほど優れていても、邇芸速日は妖力も不老長寿も持たない普通の人間である。ならば、いずれは必ず――。
「……もう少し」
日巫女は小さく呟いた。
「もう少しの辛抱ね」
倭国統一まで、あと少し、日巫女はそう自分に言い聞かせるのであった。
帰国の途についた那岐は、ひどくご機嫌だった。
行きにはなかった荷車を一台わざわざ買い求め、その上には縄で括られた大量の竹簡が山のように積み上げられている。
それを見つけた浦が、興味深そうに荷車を覗き込んだ。
「那岐様、あの荷車には何が乗っているの?」
「あれかい? 竹簡だよ。最近は詩というものも流行っているみたいでね。それも少しあるけれど、農耕や治水、算術、医術、天文、法、それに国の治め方まで、最新の学問をいろいろ仕入れてきたんだよ」
その言葉を聞いた狭野が、荷車いっぱいに積まれた竹簡を見上げた。
「え? あれ全部、学問の竹簡なの?」
「そうだよ。よろこんで、みんな。これだけあれば、これから数年はみっちり学べるよ!」
満面の笑みを浮かべる那岐とは対照的に、狭野たちの顔から一斉に笑みが消えた。
誰も声には出さなかったが、考えていることだけは見事なまでに一致していた。
――絶対いらない。どこかで燃えないかな……。
そんな中、一人だけ椎根津彦は反応が違い、荷車いっぱいに積まれた竹簡を前に目を輝かせていた。
「那岐様、戻りましたら、すぐに読んでもよろしいでしょうか?」
「もちろんだよ。分からないところがあったら一緒に読もうね」
「はい!」
嬉しそうに答える椎根津彦を見て、狭野たちは何ともいえない顔をした。
この竹簡の山が、後に自分たちが国を築く時、どれほど大きな力となるのか、この時の子供たちはまだ知る由もなかった。
その後、魏からの使者が帯方郡を経て倭へ赴き、洛陽で下された皇帝の詔書とともに、親魏倭王の金印紫綬、銅鏡百枚をはじめとする多数の品々を日巫女のもとへ届けた。
洛陽ですでに決定されていた「親魏倭王」という称号が、ここに正式な印綬とともに日巫女の手へ渡ったのである。
海の彼方にある大国の皇帝が、日巫女を倭を代表する王として認めた。
その証である金印と詔書が宇佐へ届いたという知らせは、交易船から港へ、港から国へ、そして各地の豪族たちへと瞬く間に広まっていった。
親魏倭王――。
その称号と金印がもたらした権威は大きく、大倭壱国に従う国々は結束を強め、これまで態度を決めかねていた豪族たちも、その勢力を無視できなくなっていった。
魏という大国の後ろ盾を得たことで、女王日巫女の名声は倭国中へと広がり、大倭壱国は国力においても権威においても最高潮の時を迎えようとしていた。




