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【新説古事記】邪馬台国叙事詩―神代建国譚―  作者: 月見
九章 神武

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九章 神武 九話 洛陽

 魏の帯方郡へ到着した伊邪那岐率いる大倭壱国の一行は、まず郡治へ赴き、魏への朝貢を望んでいる旨を伝えた。


 しかし、海の彼方から突然訪れた使節をすぐに洛陽へ送ることはできない。身元や目的を確認し、上へ取り次ぐにも相応の時間が必要であった。


 郡治の役人からしばらく当地で待機するよう命じられ、一行は帯方郡に滞在することになった。


 待っているだけでは仕方がない。


 那岐は月読から預かっていた余分な貢物の一部を売り、旅の途中で使える五銖銭へ換えておこうと考えた。

 ところが、市へ出てみると事情は思っていたより複雑だった。


「五銖銭だけでは難しいのかい?」


 商人とのやり取りを終えた那岐は、手元の銭を眺めながら小さく首を傾げた。


 五銖銭そのものは再び流通している。


 しかし、長く続いた戦乱と政変によって銅は不足し、貨幣の流れはいまだ安定していなかった。とりわけ地方では、穀物や絹をそのまま価値ある品として交換に用いる習慣が根強く残っている。


 銭だけを持っていれば何でも買える、というわけではなかった。


 那岐は絹や穀物との交換も交えながら、少しずつ旅に必要な品と銭を揃えていった。


 そのついでに、市場の中をゆっくり見て回る。並べられている品々を眺めているうち、那岐の表情は少しずつ曇っていった。


 かつて漢がまだ大きく乱れる前、大陸との交易で目にした品々に比べると、種類が少ない。品によっては作りも粗く、以前なら普通に見かけた物が見当たらない店もあった。


「まだ戻ってはいないんだね……」


 那岐は誰に聞かせるでもなく呟いた。漢は滅びた。その後も戦乱は続き、今なお魏・呉・蜀が争っている。


 国の名が変わり、皇帝が変わったところで、失われた田畑や職人、交易路がすぐ元通りになるわけではない。


 市場を歩くだけでも、大陸が長い混乱から完全には立ち直っていないことが伝わってきた。もっとも、そんな那岐の感慨など、子供たちには関係がなかった。


「那岐様、見てください! あれ何ですか?」


 浦が見慣れない品を見つけて駆け出していく。


「勝手に離れないの!」


 竹が慌ててその後を追った。


 少し離れたところでは、椎根津彦が店先に並べられた道具を食い入るように眺めている。


「この形……倭で使っているものとは違いますね」


 日臣は行き交う兵の装備ばかりを気にしていた。


「槍も違うな……あの兵の鎧、どうなってるんだ?」


 大久米は黙ったまま、見たこともない食べ物が並ぶ店の前から動こうとしない。


 そして狭野は、どちらを見ればよいのか分からないほど忙しそうに辺りを見回していた。


「すごいなぁ……人も多いし、知らない物ばっかりだ」


 何を見ても珍しい。何を聞いても初めてだった。


 倭を出ることさえ初めてだった狭野たちにとって、帯方郡の市はそれだけで別世界のような場所である。


 那岐が過去の大陸と比べて衰えを感じている一方で、子供たちの目には、目の前に広がるものすべてが十分すぎるほど豊かで新鮮に映っていた。


 那岐はそんな子供たちの姿を見つめ、少しだけ笑った。


「まあ……今は難しいことを考えなくてもいいか」


 あちらへ行き、こちらへ行き、珍しい物を見つけるたびに歓声を上げる。


 帯方郡での待機の日々は、狭野たちにとって退屈な足止めにはならなかった。


 むしろ行く先々で新しいものを見つけては、六人そろって目を輝かせる毎日となっていた。




 後日、帯方郡の役人が案内役として付き、一行は洛陽へ向けて出発した。


 旅は想像していた以上に長かった。


 倭では海路を使えば比較的早く移動できることも多い。だが大陸では、広大な土地をひたすら馬車で進まなければならなかった。


 街道を進むたび、狭野たちの目には初めて見るものが飛び込んでくる。


 高い城壁に囲まれた都市。何重にも設けられた門。道沿いに築かれた集落や宿駅。大勢の人や荷を載せた車が行き交う街道。


 村と村の間に田畑や山野が広がる倭とは、何もかもが違っていた。


「また城壁だ!」


 馬車の窓から顔を出した狭野が声を上げた。


 遠くに新しい都市が見えるたび、最初のうちは子供たち全員が身を乗り出して眺めていた。


 椎根津彦などは休憩で馬車が止まるたびに城門の構造や道路の幅を確かめ、排水路や建物の造りまで熱心に観察している。


 日臣は城壁の上を歩く兵や門を守る衛兵ばかりを見ていた。


 竹と浦も市場へ立ち寄れば、見慣れない衣や道具、食べ物に興味を示した。


 大久米は相変わらず無口だったが、初めて見るものが現れるたび、じっと目で追っていた。


 しかし、そんな好奇心も、長い旅の前では少しずつ薄れていった。


 一日進んでも洛陽には着かない。十日進んでも着かない。さらに何十日と街道を進み続けても、目的地はまだ遥か先だった。


 旅は数か月に及んだ。しかも馬車の乗り心地は決して良いものではない。舗装された街道とはいえ、車輪が石や窪みに乗り上げるたびに車体が大きく揺れる。


 がたん。ごとん。がたがたがた――。


 その振動の中では、細かな文字を書いたり、落ち着いて木簡や竹簡を読むことも難しかった。


 それでも那岐は、せっかくの長旅を何もせず過ごさせるつもりはなかった。


「では今日は、狭野から読んでもらおうかな」


「ええー、また読むの?」


「昨日は日臣で終わったでしょ。今日は狭野からの番だよ」


 那岐は笑顔のまま竹簡を差し出した。


 狭野は露骨に嫌そうな顔をしながら、それを受け取る。


 馬車の中では、一人が書物を声に出して読み、他の者たちがそれを聞いて復唱することが日課になっていた。


 狭野がつかえれば椎根津彦が訂正し、浦が読み飛ばせば竹が指摘する。


 日臣は難しい字で何度も詰まり、そのたびに不機嫌そうな顔をした。


 大久米は読むこと自体を嫌がりはしなかったが、声が小さすぎて皆から何度も聞き返された。そんな日々が延々と続いた。


 ある日の午後。馬車の壁にもたれかかっていた狭野が、とうとう力なく呟いた。


「まだ着かないの……飽きちゃった」


 その場にいた全員が無言で頷きそうになった。


 日臣も窓の外を眺めたまま、深いため息を吐く。


「流石に俺も飽きてきました……広すぎだろ、魏はよ……」


 最初は見るものすべてに感動していた日臣ですら、今では城壁を見ても以前ほど驚かなくなっていた。


 椎根津彦が苦笑する。


「倭国は島国ですから、海路で移動できた分、まだ良かったのですね」


 その言葉に、日臣が即座に振り返った。


「いや……船はもういいわ」


 竹が呆れたような目を向ける。


「慣れなさいよね。情けなかったわよ」


「うっせーい」


 日臣が顔をしかめる。 対馬から帯方郡へ向かう船上で、散々船酔いしていた姿を思い出したのだろう。


 浦が吹き出し、狭野も笑い始めた。椎根津彦まで肩を揺らし、大久米もほんのわずかに口元を緩める。


 長く単調な旅路の中、馬車の中には久しぶりに明るい笑い声が響いた。




 さらに数日後、ようやく首都・洛陽の姿が見えてきた。遥か彼方、地平を横切るように灰色の線が伸びている。


「おお! 着いたぞ!」


 狭野は歓声を上げ、馬車から身を乗り出した。


 長かった旅もようやく終わる。そう思ったのだが、城壁が見えてからも馬車はいっこうに城門へ辿り着かなかった。


「……まだ着かないの?」


 狭野は首を伸ばして前方を覗き込んだ。


 遠くでは一本の線にしか見えなかった城壁は、近づくにつれて見上げるほどの巨大な壁へと変わっていく。やがて一行の馬車は城壁のすぐ脇を進むようになったが、前を見ても後ろを見ても、その果てが見えない。


「でかすぎるだろ……」


 日臣まで呆然と城壁を見上げた。


 倭にも集落を守る柵や濠はあるが、これはまるで違う。村や館を守るための囲いではなく、巨大な都そのものを丸ごと外界から隔てる壁であった。


 椎根津彦は驚くより先に、その造りへ目を凝らしていた。


「これだけの壁を築くには、どれほどの人手が必要なのでしょう……。土だけでも、とてつもない量です」


「ねえ、あれ! あっ、門が見えた!」


 浦が前方を指差した。


 城壁の先に、遠目からでも巨大と分かる城門が姿を現している。


「やっと入れるね!」


 浦が嬉しそうに声を上げたが、案内役の役人は何でもないことのように首を横へ振った。


「我らが入る門は、もう少し先だ」


「え? あそこから入らないの?」


「うむ」


 役人はそれだけ答え、馬車は城門を横目にそのまま進んでいく。


「まだあるのかよ……」


 日臣が思わず呟いた。竹も、さすがに呆然として外を眺めていた。


「一つの村を囲っている、という大きさではないわね……」


「村どころじゃないよ。これ全部の中に人が住んでるんだよね?」


 狭野が城壁を見上げたまま答える。


 倭で生まれ育った子供たちには、この巨大な壁の内側すべてが一つの都であるということ自体、なかなか実感できなかった。


 それからもしばらく進み続け、ようやく案内役の役人が前を示した。


「あの門より入る」


 今度こそ、一行が通る城門であった。


 近づけば近づくほど、その大きさに圧倒される。厚い門扉の上には高い門楼がそびえ、門前には多くの人や荷車が集まり、兵たちが行き来を監視していた。


 馬車は列に加わり、やがて城門をくぐった。


「うわぁ……」


 狭野が思わず声を漏らした。城壁の内側には、外とはまるで別の世界が広がっていた。


 城門から真っ直ぐに広大な道が遥か先まで伸び、その左右には建物が整然と並んでいる。人が歩き、荷車が走り、商人が声を張り上げ、役人や兵が忙しく行き交っていた。


「道が……真っ直ぐだ」


 狭野は大路の先を見つめた。日向の道とは違う。人が歩きやすい場所を選んで自然に出来た道ではなく、初めからここに道を通すと決めて造られたものだと、子供の目にも分かった。


「先が見えねぇぞ……」


 日臣もさすがに言葉を失っている。椎根津彦は目を輝かせながら、大路の左右へ忙しなく視線を動かしていた。


「道幅も広い……それに、端には水を流す溝があります。雨が降った時に、水が道へ溜まらないようにしているのでしょう。それに建物の位置まで揃っている……最初から計画して造られた都なのでしょうか」


「椎根津彦、歩きながら見なさいよ。置いていくわよ」


 竹が声を掛ける。


「あ、はい」


 慌てて椎根津彦が追いついた。竹自身も周囲が気になるらしく、落ち着かない様子で首を巡らせている。


「それにしても……人が多すぎるわね」


「すごいよね! こんなに人がいるのに、ちゃんと道を歩けるんだよ!」


 浦はすっかり興奮していた。


 確かに人は多いが、皆が好き勝手に動いているわけではない。荷車が通る場所、人が歩く場所、兵や役人が立つ場所がおおよそ分けられ、これほど多くの人が行き交いながらも、都そのものが滞りなく動いていた。


 城内の北方にはさらに巨大な宮城が構えられ、その正門から南へ大路が伸びている。整然とした道路、高い楼閣、絶え間なく行き交う人々と荷車――倭のどの国とも比べようのない巨大な都であった。


 狭野たちは、何を見るにも足を止めそうになった。何もかもが初めてで、何もかもが大きかった。


 その少し後ろを、那岐は静かに歩いていた。


 子供たちのように声を上げることはなく、洛陽の街並みを一つ一つ確かめるように眺めながら、遥か昔のことを思い出していた。


 四百年以上前、まだ少年だった頃。


 那岐は、大陸にある秦という国を見てみたいと思っていた。海の向こうにはどれほど大きな国があり、どんな都に、どんな人々が暮らしているのだろう。文字も技術も、見たことのない品々もあるという。一度でいいから、その世界を自分の目で見てみたいと願っていた。


 けれど現実は、そんな憧れとはまるで違っていた。


 徐福の一団に連れられ、現地の言葉を話せるという理由で使われ、山野を歩かされ、不老長寿の妙薬を探す旅に同行させられた。そして富士の麓で見つかった、不死の薬と伝えられた草は、薬ではなく猛毒だった。


 奴隷たちは試すように飲まされ、次々と死んでいった。那岐自身も毒に侵され、生死の境を彷徨った末に奇跡的に生き残り、自分が生きていることを知られる前に逃げた。


 そして、漣も失った。結局、秦の都を見ることはなかった。それから四百年以上の歳月が流れた。


 秦は滅び、その後に天下を統べた漢もすでにない。今は魏・呉・蜀が並び立ち、互いに争う三国の世となっている。


 あの頃、あれほど巨大に思えた秦という国すら、今では遠い昔の話だった。幾つもの国が生まれ、幾つもの国が滅び、何世代もの人々が生まれては老い、死んでいった。そのすべてを越えて、那岐はようやく大陸の都へ来た。


 誰かに連れてこられたのではない。縛られているわけでも、命じられるまま歩いているわけでもない。


 自分の意思で、自分の足で都へ入ったのだ。那岐は歩みを止め、しばらく大路の先を眺めた。


 行き交う人々の声、地を鳴らす荷車の車輪、遠くから響く商人の呼び声。四百年以上前に夢見た都とは違い、ここは秦の都でもない。


 けれど、それでよかった。那岐はほんの少しだけ笑った。


「ずいぶん遅くなったけれど……やっと来られたなぁ」


 その小さな声は、洛陽の喧騒に紛れて消えていった。




 那岐率いる大倭壱国の一行は洛陽に数日滞在することになった。狭野たちにとって、洛陽は何もかもが大きく、道を歩けば人の波が途切れず、荷車が行き交い、商人の呼び声が絶え間なく響いている。倭では見たこともない建物が並び、その先にもさらに街路が続いていた。


 そんな子供たちに、那岐は多少の銭を渡した。


「せっかくここまで来たのだから、宮だけを見て帰るのはもったいないよ」


 狭野は受け取った銭を手の中で転がしながら首を傾げた。


「宮だけじゃ駄目なの?」


「国を見るなら、市も見たほうがいいんだよ。人がちゃんと物を買えるのか、食べ物はあるのか、どんな物が売られているのか。そういうところを見ると、その国で人がどんな暮らしをしているのか、少し分かるからね」


「へぇー」


 狭野は分かったような、分かっていないような顔で頷いた。


「まあ、難しく考えなくてもいいよ。好きに見ておいで。ただし迷子にならないようにね」


「はーい!」


 子供たちは揃って館を飛び出し、大路へ出るなり狭野は改めて周囲を見回した。


「人が多いなぁ。ここだけで倭国中の人が集まっているみたいだ」


「確かにな」


 日臣は人の多さより、城門の衛兵や街路を巡回する兵たちの動きを気にしていた。


「城門の衛兵もしっかりしているし、街中にも兵がいる。どういう軍法で動いているんだろうな」


「私も興味があります」


 椎根津彦は忙しなく周囲へ視線を走らせた。


「兵だけではありません。この道路も見事です。道幅が揃っていますし、排水のための溝まで造られている。建物の位置も整っています。これほどの都をどうやって造ったのでしょう」


「椎根津彦はそんなところばっかり見てるのね」


 浦が呆れたように言う。


「だって、すごいではありませんか」


「それよりこっちよ、竹!」


 浦の興味はすでに市場へ移っていた。そこには色鮮やかな布、細工を施した器、装身具、香りの強い香料、見たことのない形の道具など、倭では滅多に目にできない品々が所狭しと並んでおり、竹も浦もいつの間にか店先から離れられなくなっていた。


「狭野ぉー! こっち、こっちー!」


 浦が大きく手を振った。


「なに?」


 狭野が近寄ると、浦は髪に一本の簪を差して振り返った。


「ねえ、見て見て。似合う?」


「え?」


 狭野は困った。簪が良い物なのかどうかなど、さっぱり分からない。そこで宗像での出来事を思い出した。女性の身なりについて何か訊かれた時は、分からなくても悪く言ってはいけないと、那岐にも日臣にも口を酸っぱくして言われていたのである。


「うんうん、すっごく似合ってるよ!」


「ほんと?」


「うん!」


 実際には何が似合っているのか分かっていなかったが、浦は満足そうに笑った。


「狭野、かわいい! いい子ね!」


「なんで私が褒められるの?」


「あ、そうだ。竹にはこれなんかどう?」


 浦は店先に置かれていた薄い絹布を手に取った。


「ちょっと、浦。勝手に触って大丈夫なの?」


「見るだけよ、見るだけ」


 そう言いながら、浦は竹の頭へ絹をふわりと被せた。薄く透けるほど繊細な布が黒髪の上から流れ落ち、普段は髪をきっちり結い、衣の乱れ一つ許さず、いつも凛としている竹の印象を柔らかく変えた。


「どう、狭野?」


 浦が嬉しそうに訊く。狭野は竹を見て、思わず息を飲んだ。


「…………」


「狭野?」


「あ……すごく綺麗だ……」


挿絵(By みてみん)


 今度は、那岐から教えられた言葉を思い出したわけではなかった。本当にそう思ったからこそ、自然と口から出た言葉だった。


「あ……」


 竹の肩がぴくりと動き、頬が少しずつ赤くなっていく。


「恥ずかしいよ、浦……」


 竹は狭野から視線を逸らした。狭野から本心で褒められると、なぜか昔から調子が狂ってしまう。武芸を褒められた時も、何かを上手くできたと認められた時も同じだった。理由は竹自身にもまだ分からなかった。


 その様子を見ていた浦も、なぜか胸の奥が落ち着かなくなった。


「…………」


 浦は突然、竹の頭から絹を取り去った。


「え?」


「もういいわ。戻しましょ」


「どうしたの、浦?」


「別に」


 浦にも、なぜ急に面白くなくなったのか分からなかった。ただ、狭野が竹を見る目が、自分を見た時とは少し違ったような気がして、それが気に入らなかったのである。


「浦、変なの」


「狭野には分からなくていいの!」


「なんで怒るのさ」


「怒ってないもん」


 少し離れたところでは、大久米がいつもの無表情で三人の様子を見守っていた。そこへ日臣がやってきて肩を叩く。


「おい、大久米。邪魔になるから、他所に行くぞ」


 大久米は顔だけを向け、僅かに眉を寄せた。


「ん? 分かってるよ。若様が心配だから、邪魔にならないところから見張ってるって言いたいんだろ?」


 大久米は頷いた。


「でもなぁ……そんな仏頂面でずっと見られていたら、向こうだって気が散るだろ。それに竹と浦がいるんだぞ。俺たちより強いんだから、護衛なら十分だ」


 それでも大久米は少し険しい顔をした。


「いや、だからな……あの三人の様子を見てみろよ」


 日臣は声を落として狭野たちを指差した。


「なんていうか……あれだ。お互いに気が付いてないけど、ちょっと気になってる感じだろ。そういう時は、少し離れておくもんなんだよ」


 大久米が日臣を見る。


「昔、親父から聞いたことがある。近習たるもの、主への配慮も大事だってな」


 半分は本当で、半分は嘘だった。日臣は父から近習としての心構えを数多く教えられてきたが、主の恋らしきものにどう対応するかなど教えられた覚えはない。それでも、なんとなく分かってしまった。


 日臣自身も竹と浦には憧れを抱いており、とりわけ竹に対してはその気持ちが強かった。真面目で、強く、いつも凛としている。


 武芸では何度挑んでも勝てず、負けるたびに腹が立つのに、それでもまた挑みたくなる。その感情が何なのかを言葉にするにはまだ幼かったが、気になる相手だからこそ、竹が狭野に褒められた時の顔や、浦が突然機嫌を悪くした理由には敏感だった。


 大久米は改めて狭野たちへ視線を向け、じっと凝視した。


「いや、見過ぎだって」


 日臣は呆れた。


「というかな、大久米よ。少しは喋れ。俺はお前の顔芸の通訳じゃねぇんだぞ」


 大久米は不満そうな顔をする。


「その顔も分かるから腹立つな……」


 日臣はため息をついて大久米の肩を掴んだ。


「ほら、行くぞ。あっちに兵舎がある。せっかく魏の都まで来たんだ。衛兵の装備でも見に行こうぜ」


 大久米はもう一度だけ狭野たちを振り返った。


「大丈夫だって。若様には双子がいる」


 そう言って、日臣はなかなか動こうとしない大久米を強引に連れていった。


 その日の夕方、館へ戻った子供たちは、それぞれが見てきた洛陽の話を那岐へ競うように聞かせた。


「那岐様、洛陽の道って本当にすごいんだよ!」


「衛兵の装備も倭とは全然違いました!」


「排水路の構造も見てきました。あれは日向でも一部なら使えるかもしれません」


「市場にはすっごく綺麗な物がいっぱいあったのよ!」


「浦、余計なことまで言わなくていいからね」


 次から次へと飛んでくる話を、那岐は楽しそうに聞いていた。


「そうかい、そうかい。みんなちゃんと見てきたんだね」


 狭野たちにとって洛陽での日々は、冒険であり、学びであり、買い物まで楽しめる旅でもあった。この時に見て、聞いて、触れたものの多くを、子供たちはやがて忘れていく。


 それでも、巨大な城壁、真っ直ぐに伸びた大路、人で埋め尽くされた市場、異国の兵や見たことのない品々、そしてそこで交わした何気ない言葉のいくつかは、長い年月を経ても彼らの中に残り続けることになる。

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