九章 神武 八話 大陸へ
宇佐へ到着した伊邪那岐は、主祭殿の二階で月読と対面していた。
かつてとはしきたりが変わり、三階にいる日巫女とは、たとえ父である那岐であっても自由に会うことはできない。それは那岐自身もよく承知している。
それでも久しぶりに宇佐まで来たのだから、本心を言えば直接顔を見たかった。
月読を前にしながら、那岐は何気ない仕草で天井を見上げ、それから三階へ続く階段へと目を向ける。
その先に、最愛の娘がいる。
けれど、決められたしきたりを自分の都合だけで曲げるつもりはなかった。
いつかまた会えることもあるだろう。急ぐ必要はない。
そう自分に言い聞かせ、那岐は三階へ向かいたい気持ちを胸の奥へしまい込んだ。
その那岐のやや斜め後ろには狭野が控え、さらに背後には竹と浦が並んでいる。狭野の後ろには日臣、大久米、椎根津彦の三人まで控えており、普段なら静かな二階の一室は随分と賑やかになっていた。
月読は父の後ろに並ぶ顔ぶれを一通り眺めると、どこか呆れたように口元を緩めた。
「父上、随分と大勢で来られましたな」
「あはは。教え子が増えてね。連れて行かないと色々と……ね」
那岐が曖昧に笑うと、月読は事情を察したようにそれ以上は追及せず、今度は竹と浦へ視線を移した。
「竹、浦。どうだ。ちゃんと護衛はできておるか?」
「はい、ひいおじい様。護衛として日々お仕えしております」
竹が姿勢を正して答える横で、浦も胸を張る。
「大丈夫です。ちゃんとやってますわ」
「そうか」
月読の表情が柔らかくなった。護衛の出来を確かめる以上に、まず二人が元気な姿を見せてくれたことが嬉しいのだろう。
しばらく二人を眺めたあと、月読はふと思い出したように尋ねた。
「では、そなたらも朝貢へ行くのか?」
「護衛の任務ですから、当然です」
竹は迷うことなく答えた。
「任せて! ちゃんと護衛をやり遂げますわ!」
浦も勢いよく続ける。
「…………」
月読はそんな曾孫娘たちを黙って見つめた。
言葉だけを聞けば立派なものだが、二人とも護衛の任務以上に、大陸へ行ってみたいという気持ちが隠しきれていない。しかも後ろに並ぶ狭野たちまで、どこか期待に満ちた顔をしている。
どうやら一人や二人の思いつきではなく、この場にいる若者たち全員の総意らしい。
最後に那岐を見ると、父は困ったような笑みを浮かべていた。
それだけで月読には十分だった。
「……なるほど。そういうことですか」
「あはは……」
那岐は笑って誤魔化した。
もっとも、今回那岐が宇佐へ呼ばれた本来の理由は、若者たちを大陸へ連れて行くためではない。
月読から那岐へ頼まれたのは、朝貢使節への同行であった。
使節長を務める難升米の後見として一行に加わり、実質的なまとめ役として使節を支えてほしいというのである。
一行は海を渡って魏へ入り、その都である洛陽を目指す。そして皇帝曹叡に謁見し、日巫女の使者として朝貢を行うことになっていた。
普段なら政治的な役目から距離を置く那岐にとっては珍しい依頼だったが、今回はあくまで難升米を支える後見役である。そのためか、那岐自身もそれほど嫌がる様子はなかった。
むしろ今回ばかりは、少し楽しみにしているところさえあった。
洛陽。
大陸に存在する巨大な都。
その地へ行ってみたいという思いは、那岐がまだ不老の身体を得るより遥か以前、四百年以上も昔から抱き続けてきたものだった。
少年だった頃には、海の向こうにある秦という大国へ行ってみたいと何度も夢見た。
その願いが、長い長い年月を経て、ようやく叶おうとしている。
政治のための旅であることに変わりはない。それでも那岐にとって今回の朝貢は、遠い昔に抱いた少年の夢へと続く旅でもあった。
宇佐の宮を出てしばらく歩いたところで、日臣は先ほどから気になっていたことを確かめるように、隣を歩く浦へ声をかけた。
「なあ、お前のひい爺ちゃんさ、本当にひい爺ちゃんなのか?」
「そうよ。ひい爺ちゃんは昔、壱岐の主だった人なの。今じゃ社まで建てられて神様として祀られてるし、伊予でも主になったことがあるから、瀬戸内じゃ知らない人のほうが少ないくらい有名なんだよ」
浦は自分のことでも語るかのように得意げに胸を張ったが、日臣にはどうにも腑に落ちないらしく、何度か後ろを振り返って月読の姿を思い浮かべていた。
「まじかよ……。だけど見た目がよー。どう見ても爺ちゃんって感じじゃなかったぞ。今、何歳なんだ?」
「えっと……たぶん百歳くらいじゃない? 不老だもん」
「百歳……」
日臣は思わず足を止めそうになり、信じられないものを見るような顔で浦を見た。
「本当に神様っているんだな……」
「百歳まではいっていないと思うわよ」
そこへ竹が口を挟んだ。
「たぶん九十歳前後じゃないかしら。ひいおじい様は、ご自分の年齢についてあまり詳しく教えてくださらなかったから、私も正確には知らないけれどね。それに、ひいおじい様が特別なのは不老長寿だけじゃないのよ。妖術だって使えるんだから」
竹の言葉には、隠そうとしても隠しきれない誇らしさが滲んでいた。浦も満足そうに何度も頷いており、二人にとって月読という存在がどれほど大きなものなのかは、その様子を見るだけでも十分に伝わってくる。
「妖術ですか……。それなら那岐様も使われていましたね」
椎根津彦は興味深そうに那岐へ視線を向けた。
「何度見ても、あれだけは理屈がわかりません。本当に摩訶不思議としか言いようがないですよ」
その言葉を聞いた狭野も、ふと気になったように那岐を見上げた。
「そういえば、那岐様は月読様よりもっと長生きなんだよね? 今、何歳なの?」
「え?」
突然、自分へ話が向いた那岐は目を瞬かせると、しばらく宙を見つめながら考え込んだ。
「あーーーー……たぶん四百歳くらいかな? もうずいぶん前から数えてないから、私もよくわからないや。あはは」
「…………」
あまりにも気軽に返された答えに、狭野たちは揃って言葉を失った。
九十歳や百歳というだけでも十分に現実離れしていたというのに、その何倍もの年月を生きている者が、今こうして当たり前のように自分たちの隣を歩いている。狭野たちには、その途方もない時間をどう受け止めればいいのかすらわからなかった。
しかし那岐自身は、そんな彼らの反応を面白がるように笑っているだけだった。
四百年という歳月は、決して祝福だけをもたらしたわけではない。人より長く生きるということは、それだけ多くの出会いを得ると同時に、それ以上の別れを経験するということでもあった。親しくなった者が年老い、自分だけを残して去っていく。その繰り返しの中で味わってきた孤独や寂しさは、長く生きたからこそ知る痛みだった。
けれど、それを今の狭野たちに語る必要はない。
若い彼らまで、自分が背負ってきたものを知る必要などないのだ。
「まあ、長く生きてると自分の歳なんてどうでもよくなってくるんだよ。細かいことは気にしない、気にしない」
那岐はいつもの調子で笑い、何事もなかったかのように歩き続けた。
その背中にどれほど長い年月が積み重なっているのかを、狭野たちはまだ知らなかった。
貢物の準備と使節団の人選が整うと、一行は大陸へ渡る前に宗像へ向かった。長い海路を進む以上、まずは宗像の社で海運の安全を祈願しておこうということになったのである。
宗像の社は、大倭壱国連合を代表する社の一つに数えられるだけあって、遠くからでも目を引くほど立派な造りをしていた。丁寧に整えられた境内には厳かな空気が漂い、初めて訪れた日臣たちは、自然と歩みを緩めながら周囲を見回していた。
「なんて素晴らしい社なんだろう」
日臣が感嘆の声を漏らすと、椎根津彦も建物の造りを興味深そうに眺めながら頷いた。
「たしかに、大倭壱国連合を代表する立派な社という話も頷けますね」
「綺麗な社だよねー……」
狭野も同意したものの、その声にはいつもの元気がなかった。言い終えるのとほとんど同時に大きな欠伸をし、眠たそうに目を擦っている。
ここまでの移動が思った以上に長く、しかも昼寝をする暇もなかったため、狭野の頭はすでに半分ほど眠りの中へ沈んでいた。足取りまで怪しくなり、ふらふらと歩いていたかと思えば、とうとう隣を歩いていた竹へ身体を預ける。
「ちょっと、狭野。ちゃんと歩きなさい」
「歩いてるよー……」
「それを歩いているとは言わないの」
竹は呆れたようにため息をついたものの、振り払うことはせず、そのまま肩を貸してやった。狭野は遠慮する様子もなく竹へ寄りかかりながら、半分閉じた目のまま社の奥へと進んでいった。
やがて一行が案内されたのは、海運安全を祈願するための祭場だった。
そこで彼らを待っていた巫女を見て、那岐は僅かに目を細めた。
市杵島姫。
月読の三女にあたり、現在は宗像の社で祭祀を担っている女性である。すでに六十を越えているものの、月読の血を色濃く受け継いでいるためか容姿に老いはほとんど現れておらず、見た目だけなら十代後半の美しい少女としか思えなかった。
もっとも、本人は実年齢について触れられることをひどく気にしている。
そのことを当然知っている那岐は、いつも通り穏やかに挨拶を交わすと、何事もなく儀式が終わることを願いながら狭野と並んで座った。
市杵島姫が祈りを捧げ、静かな声で祝詞を唱え始める。
周囲には厳かな空気が満ちていた。
本来ならば誰もが黙って頭を下げている場面である。
ただ一人を除いて。
狭野は眠かった。
とにかく眠かった。
何をしているのか理解しようとはしているものの、すでに思考そのものがほとんど働いていない。ぼんやりと目の前にいる市杵島姫を眺め、ふと頭に浮かんだ疑問を、そのまま口にしてしまった。
「このおばさん、何をしているの?」
その瞬間。
場の空気が凍りついた。
「……若様、それはヤバいです」
日臣が震える声で呟いた。
「……終わった」
椎根津彦はそれだけを口にして目を伏せる。
大久米は何も言わなかった。ただ静かに顔だけが青ざめていった。
那岐も同じだった。
長い人生の中で数え切れないほどの修羅場を経験してきた彼ですら、さすがに今回は顔色を失っている。
一方、竹と浦はほとんど同時に顔を逸らした。
自分たちは何も聞いていない。
そんな態度である。
「…………」
市杵島姫は笑っていた。
だが、その周囲から何やら異様な気配が漂い始めている。
目には見えないはずなのに、そこにいる全員がはっきりと感じ取れるほど濃密な妖気だった。
「市杵島姫!」
那岐は慌てて狭野の口を塞ぐと、必死に笑顔を浮かべた。
「あのね、この子、眠くて頭がほとんど働いてないんだよ。だから今のは気にしないでね? 市杵島姫は可愛いよ。若いよ。とっても綺麗だよ~」
「むぐっ……」
突然口を塞がれた狭野は状況も理解できないまま目を瞬かせている。
市杵島姫はそんな二人を見つめながら、ゆっくりと微笑んだ。
「あら、おじい様。何を慌てていらっしゃるのです?」
声だけを聞けば穏やかだった。
「私はただ、皆様が無事に海を渡れるよう、海運安全の儀式をしているだけですのよ。ほほほ」
笑っている。
確かに笑っている。
だが、目だけがまったく笑っていなかった。
それどころか、市杵島姫の周囲から漂う妖気は先ほどよりも明らかに強くなっている。
「いや、それ……本当に海運安全だよね?」
那岐は狭野の口を押さえたまま、恐る恐る尋ねた。
「これから私たち、大陸まで行くんだよ? 途中で嵐に遭ったり、船が沈んだりするようなものじゃないよね? 本当に大丈夫?」
「大丈夫ですわ」
市杵島姫はにっこりと微笑んだ。
「大丈夫ですから、どうぞご安心くださいませ」
「……そ、そう」
那岐はそれ以上聞けなかった。
海運安全の祈願は滞りなく続けられていった。
ただし儀式が終わるまで、市杵島姫の周囲から漂う恐ろしい妖気だけは、一向に消えることがなかった。
一行は奴国、壱岐、対馬を経由し、魏の直轄領となっている帯方郡を目指して海を渡っていた。
船の周囲には見渡す限り青い海が広がり、陸の姿はすでに遠く霞んでいる。潮風に髪を揺らしながら船縁へ身を乗り出した浦は、目の前に広がる景色に歓声を上げた。
「すごーい、広いなぁ!」
初めて見る大海原がよほど楽しいのか、浦は右へ左へと視線を動かし、波が船腹に砕けるたびに楽しそうな声を上げていた。
そのすぐ近くでは、まるで正反対の光景が繰り広げられている。
「うぉぉぉえええええ……」
日臣は船縁にしがみつき、青ざめた顔で海へ向かって盛大に吐いていた。しばらくしてようやく顔を上げたものの、すでに立っていることすらつらそうである。
「はぁ、はぁ……よく、はしゃいでいられるな……」
「あんたがだらしないだけでしょ」
竹は呆れたように言いながらも、船酔いひとつ見せず平然としていた。大陸まで那岐たちを護衛する以上、船旅も任務の一環でしかないと考えているのだろう。
大久米も船には強いらしく、揺れる甲板の上に静かに腰を下ろしながら、騒がしい仲間たちの様子を眺めている。
一方、椎根津彦は景色を楽しむどころではなかった。船頭のそばに張り付き、船体の造りから帆の張り方、風向きの読み方に至るまで、気になったことを次々と質問している。
「この帆は、風が横から吹いても進めるんですか?」
「ああ。帆の向きを変えてやればな」
「では、風が急に変わったときはどうするんです? 波が高くなった場合は?」
「お、お前さん、ずいぶん熱心だな……」
船頭が苦笑するほど、椎根津彦は貪欲に知識を吸収していた。
彼はかつて海で遭難し、その事故によって家族を失っている。本来ならば船を恐れ、海そのものを避けても不思議ではなかったが、椎根津彦はそう考えなかった。
あのとき自分たちにもっと知識があり、もっと海を知っていれば、結果は違っていたかもしれない。
遭難をただの不運として片づけるのではなく、知識と経験が足りなかったからこそ起きたことだと受け止めていた。
知らないことこそが恐ろしい。無知のままでいることは、時として命を奪う。
だからこそ椎根津彦は、二度と同じことを繰り返さないためにも、学べるものはすべて学ぼうとしていた。
「なんで元気なんだよ、お前ら……おかしいだろ……うっ」
皆の様子を恨めしそうに眺めていた日臣が再び口元を押さえると、竹は小さくため息をついてその隣へ腰を下ろした。
「まったく、しょうがないわね」
そう言いながら竹は日臣の背中をゆっくりとさすってやる。
本来なら、女に介抱されるなど日臣にとっては悔しくて仕方がないところだった。しかし今は意地を張る余裕すらなく、青ざめた顔のまま黙って竹の手に甘えるしかなかった。
どうやら日臣の船酔いだけは、簡単には治りそうにない。
そんな仲間たちの騒ぎをよそに、狭野は船首近くに立ち、どこまでも続く海の向こうを見つめていた。
これまで自分が知っていた世界は、日向や筑紫、その周辺だけだった。それが今、自分は海を渡り、倭の外へ向かおうとしている。
胸の奥には不安よりも期待の方が強く、これから何が待っているのだろうという思いでいっぱいだった。
まるで本当の冒険が始まったような気がして、狭野は潮風を受けながら自然と笑みを浮かべていた。
その少し離れたところで、那岐もまた静かに海を眺めていた。
帯方郡であれば、交易のためにこれまで何度か足を運んだことがある。しかし今回は、そこからさらに大陸の奥へ入り、魏の都である洛陽まで向かうことになる。
那岐はふと、四百年以上も昔の記憶を思い返していた。
まだ自分が十五歳ほどの少年だった頃、大陸からやって来た徐福たちの話を聞きながら、いつか秦という巨大な国をこの目で見てみたいと思ったことがある。
広大な大地に築かれた都とは、どのような場所なのだろう。数え切れないほどの人々が暮らし、巨大な宮殿や城壁が立ち並ぶ世界を、一度でいいから歩いてみたい。
当時は叶うはずもない夢だと思っていた。
秦はとうの昔に滅び、漢もまた歴史の中へ消え、今では魏が中原を治めている。それでも、あの日抱いた「大陸の都を見てみたい」という願いそのものは、四百年以上の歳月を経て、ようやく叶おうとしていた。
そのことを思えば、自然と胸が高鳴る。
だが今回の旅は、那岐個人の夢を叶えるためのものではない。
日巫女の使節として魏へ朝貢し、その皇帝から大倭壱国の女王として認められることができれば、連合の権威はこれまで以上に高まるだろう。
だからこそ、それが倭の中へどのような影響を与えることになるのか、那岐には少し気がかりでもあった。
三輪山との関係はいまだ修復されておらず、両者の対立は続いたままである。
大陸の皇帝から認められたという事実が、その溝を埋めるきっかけになるのか。それとも逆に、日巫女の権威をさらに強め、両者の距離を広げることになるのか。
海の向こうに待つ洛陽への期待を胸に抱きながらも、那岐はこれから先に起こることを思い、ほんの少しだけ不安を感じていた。




