九章 神武 七話 燕滅亡と帯方郡への道
西暦二百三十八年。
伊邪那岐が日向の地で狭野たちと暮らし始めてから、二年の歳月が流れていた。
竹と浦は十歳。椎根津彦は九歳となり、狭野、日臣、大久米も八歳になっている。
その頃、宇佐の宮では、大陸から届いた報せによって静かな緊張が走っていた。
月読は主祭殿へ向かい、三階へと続く階段を上っていた。
そこは大倭壱国を統べる日巫女が政務を執る場所であり、よほど重要な用件でもない限り、月読自身が直接足を運ぶことはない。
だが、この日の報告は、それだけの意味を持っていた。
月読が部屋へ入ると、日巫女は広げられた木簡を前にしていた。
「姉上」
呼びかけに、日巫女が顔を上げる。
「何かありましたの?」
「大陸から報せが届いた。燕が滅びたそうだ」
日巫女の目がわずかに見開かれた。
「……公孫淵が?」
「ああ。魏の軍に敗れた。遼東を支配していた公孫氏の勢力は、これで事実上潰えたと見ていい」
月読の言葉を聞き終えるより早く、日巫女は手元の木簡へ視線を落とした。
長く待ち続けていた報せだった。
かつて大陸を統一した大漢は、すでに存在していない。
長く続いた内乱と腐敗によって各地に群雄が立ち、やがて天下は魏、呉、蜀の三国へと分かれた。その中でも、中原と旧都洛陽を押さえる魏は他の二国よりも大きな力を持ち、大陸北方では最も強大な国となっていた。
日巫女も、その魏と関係を結ぶ必要性を早くから感じていた。
だが、倭から魏へ至る道には、大きな障害が存在していた。
遼東を支配する公孫氏である。
公孫氏は名目上こそ魏へ臣従していたものの、実際には独自に軍と領土を持つ半独立勢力であり、東方諸国と大陸との往来を自らの支配下に置いていた。
韓や倭をはじめとする東夷の国々が魏へ直接使者を送ろうとしても、遼東を越えなければならない。
その道を、公孫氏が塞いでいたのである。
さらに前年、公孫淵はついに燕王を名乗り、魏から完全に離反した。
魏との戦は避けられないものとなり、その勝敗によっては東方の情勢そのものが大きく変わる。
日巫女は、その行方を注意深く見守っていた。
そして今、その燕が滅びた。
「帯方郡までの道は?」
日巫女が尋ねる。
「まだ混乱は残っているだろうが、これまでのように公孫氏に遮られることはない。魏が遼東を押さえれば、韓から帯方郡を通じて魏へ使者を送る道も開く」
「そう……」
日巫女は静かに息を吐いた。
待ち続けていた機会が、ようやく訪れたのである。
大倭壱国は、倭の西方に広い勢力を持つまでになった。
しかし倭のすべてが、その支配に従っているわけではない。
東には、もう一つの大きな勢力が存在していた。
纒向を中心として各地の国々をまとめる、三輪山の東国連合である。
その頂点に立つのは邇芸速日。
かつて大年と名乗っていた男だった。
日巫女は、不意に半世紀ほど前のことを思い出した。
まだ少年だった大年が、大漢について語った日のことである。
『飢饉が終わっても腐敗は残ります。腐敗を正す力もまた失われております。ゆえに大漢はいずれ群雄が立ち、国は割れましょう』
十代の少年が口にした言葉を、当時どれほどの者が本気で受け止めただろう。
だが、その予測は現実となった。
大漢は滅び、天下には群雄が立ち、ついには三つの大国が争う時代へ入った。
そして、その言葉を口にした少年自身もまた、今では東国の諸勢力を束ねる人物となっている。
戦えば敗れず、政を執れば国を富ませる。
武だけではない。
民を養い、道を整え、国々の利害を調整しながら勢力を広げてきたことで、東の国々は邇芸速日のもとで大きなまとまりを持つようになっていた。
現在の倭は、宇佐の宮を中心とする大倭壱国連合と、纒向に宮を構える三輪山の東国連合。
事実上、その二つの大勢力によって分けられている。
だからこそ、日巫女には魏との関係が必要だった。
大陸最大級の国と正式な外交関係を結ぶことができれば、それは単なる交易以上の意味を持つ。
魏から倭の王として認められれば、その威光は倭国内にも大きな影響を及ぼす。
「今しかありませんわね」
日巫女が呟いた。
月読も頷く。
「ああ。燕が滅びた直後だからこそ、向こうも東方の国々との関係を改めて整えようとするはずだ」
「ならば、大倭壱国は他の国々に先んじて使者を送りましょう」
迷いはなかった。
「魏が東方へ目を向けた時、最初に名を刻むのは私たちであるべきです」
月読は姉の顔を見つめた。
「誰を遣わす?」
日巫女は少しだけ考え、すぐに答えを出した。
「父上にお願いしますわ」
「父上を?」
「ええ」
日巫女は当然のように頷いた。
「大陸の言葉も習慣も知っています。韓や帯方郡へ渡った経験もありますし、海路にも詳しい。何より、魏の者たちを相手にしても物怖じするような人ではありませんもの」
「それはそうだが……」
月読は苦笑した。
確かに、これ以上の適任者は思いつかなかった。
日巫女は再び木簡へ目を落とす。
「大倭壱国の使者として、父上に魏へ向かっていただきます」
燕の滅亡によって閉ざされていた道は開いた。
その先にあるのは帯方郡。
そしてさらにその遥か西には、魏の都、洛陽がある。
日巫女は長く待ち続けていた機会を逃すつもりはなかった。
日向の地で伊邪那岐が狭野たちと暮らすようになってから、日々は穏やかに過ぎていた。
那岐が狭野に教えているのは、王になるための特別な学問などではない。田に入り、土の状態を確かめ、苗を植え、水路が詰まれば泥にまみれてそれを直す。雨が続けば川へ向かい、水の流れを見ながら堤や溝の造り方を教えた。
時には家の前に木簡を並べ、文字の読み書きも教えた。
狭野は、決して物覚えの良い子ではなかった。
一度聞いただけですべてを覚えられるわけでもなければ、難しい文字を前にして何度も首を傾げることもある。それでも嫌になって放り出すことはなく、分からなければ何度でも那岐に尋ねた。
田を耕せば、なぜ水が必要なのかを聞き、水路を造れば、なぜここを曲げるのかと問いかける。
目にするものすべてが珍しいのか、狭野はいつも興味深そうに那岐の話を聞いていた。
那岐もまた、答えだけを教えようとはしなかった。
自分で見て、自分で考え、それでも分からなければ人に尋ねる。そうするうちに狭野は少しずつ知識を増やし、それ以上に、人の話へ耳を傾けることを覚えていった。
誰かが自分とは違う意見を口にしても、すぐに否定することはない。
まず聞き、それから考える。
那岐が狭野にもっとも身につけてほしいと願っていたのは、あるいはそうした寛容さだったのかもしれない。
一方、武芸について那岐が直接教えることはなかった。
もっとも、だからといって狭野が身体を動かしていないわけではない。
竹や浦に引っ張り出され、日臣や大久米と走り回り、木剣を持たされては何度も地面へ転がされる。本人が望む望まないにかかわらず、周囲には身体を鍛えることが好きな者が多すぎた。
その日も狭野たちが外で騒いでいると、宇佐から一人の使者が訪れた。
使者は那岐の前へ進み、丁寧に頭を下げる。
「宇佐の日巫女様より、お言葉をお預かりしております」
「姫から?」
思わず昔の呼び名が出た那岐に、使者はわずかに困った顔をしたものの、そのまま話を続けた。
「大陸の魏へ朝貢の使節を送ることとなりました。その使者として、伊邪那岐様にお向かいいただきたいとのことでございます」
「魏へ……?」
那岐は目を瞬いた。
大陸そのものが初めてというわけではない。
帯方郡の地には、これまでにも何度か足を運んだことがある。しかし、その先にある魏の都、洛陽へ行ったことは一度もなかった。
使者の言葉を聞いているうちに、那岐の胸の奥で、少年の頃から抱いていた好奇心がむくむくと頭をもたげてくる。
洛陽。
大陸でも指折りの巨大な都。
書物や旅人の話でしか知らなかった場所を、自分の目で見ることができる。
「分かったよ。姫に伝えておいて。私も宇佐へ向かうって」
「かしこまりました」
使者が頭を下げると、那岐はどこか楽しそうにその背を見送った。
朝貢の使者という役目は決して気楽なものではない。それでも洛陽へ行ける機会など、そう何度も巡ってくるものではなかった。
長く生きてきた那岐にとっても、それは一度は見てみたいと願っていた土地である。
使者との話を近くで聞いていた狭野が、目を輝かせながら駆け寄ってきた。
「大陸? 那岐、大陸に行くの?」
「うん。まず宇佐へ行って、それから海を渡ることになると思うよ」
「僕も行ってみたい!」
あまりにも迷いのない返事に、那岐は目を丸くした。
「狭野も?」
「うん! 行きたい!」
狭野はこれまで、日向の外へほとんど出たことがない。
ましてや海の向こうにある大陸など、話の中にしか存在しない遠い世界だった。
那岐はしばらく考えた。
朝貢の旅は長くなる。もちろん危険がないわけでもない。
しかし、これほど遠い土地を実際に目にする機会は滅多にない。狭野にとっても、きっと大きな経験になるはずだった。
「そうだね。宇佐で姫とも相談しないといけないけれど……連れていってあげてもいいかな」
「本当!?」
狭野の顔がぱっと明るくなる。
ところが、その言葉を聞き逃さなかった者がいた。
「では、私も参ります」
竹が一歩前へ出て、さも当然のように胸を張った。
「私は那岐様の護衛です。大陸までお供させていただきます」
「うん、私も!」
すぐさま浦も隣に並ぶ。
「私も那岐様の護衛だもん。絶対についていきますわ!」
「…………」
那岐は二人を見つめた。
言っていることだけを聞けば、立派な忠義である。
だが、二人の目が狭野以上に輝いている。
どう考えても護衛を口実に大陸へ行きたいだけではないか。
そんな那岐の疑いなど気にも留めず、今度は日臣が名乗りを上げた。
「なら私も行きます。若様の近習として、お供させていただきます」
「日臣まで?」
「当然です!」
さらに椎根津彦も、落ち着いた様子で続いた。
「そうですね。私は狭野様を主と決めております。若様が大陸へ行かれるのでしたら、私もお供いたします」
最後に残った大久米へ、全員の視線が向いた。
大久米はしばらく黙って仲間たちを眺めていたが、やがて無言のまま片手を挙げた。
「…………」
「大久米も行くの?」
那岐が尋ねると、大久米は大きく頷いた。
これで全員である。
那岐は思わず額へ手を当てた。
大陸という広い世界を見せること自体は悪くない。むしろ子供たちにとっては、倭国の外を知る貴重な経験になるだろう。
問題は、この子供たちが揃いも揃って癖の強い者ばかりだということだった。
長旅の途中でいったい何をしでかすのか。
考えれば考えるほど、嫌な予感しかしない。
しかし当の本人たちは、そんな那岐の心配など知る由もなかった。
「ところで、大陸ってどのくらい大きいの?」
狭野が素朴な疑問を口にすると、日臣が腕を組んで考え込んだ。
「さあ……倭国の倍くらい……でしょうか?」
「そんなものじゃないと思いますよ」
椎根津彦がすぐに首を横へ振る。
「大陸は倭国どころではないほど大きいそうです。どこまで行っても陸地が続いていて、まるで無限に広がっているようだとか。国も数え切れないほどあるのでしょうね」
「無限……」
狭野が目を丸くする。
竹も以前聞いた話を思い出したらしく、人差し指を立てた。
「そういえば、魏のほかにも呉や蜀っていう大きな国があるんでしょう? それに南にも北にも西にも、たくさん国があるんだって」
「月読ひい爺様がおっしゃってたね」
浦が嬉しそうに頷く。
「その魏だけでも、倭国とは比べものにならないくらい大きな国らしいですよ」
椎根津彦がそう続けると、今度は日臣が身を乗り出した。
「じゃあ兵も強ぇのかな?」
「文化そのものが違いますからね。武器や防具の形も、倭国とはかなり違うはずです」
椎根津彦の顔にも、年相応の好奇心が浮かんでいた。
「私も一度、実際に見てみたいです」
「すごーい。楽しみだね!」
狭野はすでに旅立つ気満々である。
「そういや、でっかい城門とか城壁ってのもあるんだろ?」
日臣も負けじと声を上げた。
「この前、木簡で読んだぞ。人が何人並んでも届かないくらい高いんだってさ。どんだけでけぇーんだろうな?」
大久米は相変わらず黙ったまま話を聞いていた。
大陸。
巨大な国。
果ての見えない城壁。
見たこともない武器や兵。
どうやら頭の中で何とか想像しようとしているらしいのだが、途中からよく分からなくなったのか、難しい顔をしたまま首を傾げている。
そんな子供たちの様子を眺めながら、那岐は小さく息を吐いた。
まだ出発すらしていないというのに、彼らの気分は完全に旅人のそれだった。
「まったく……朝貢に行くんだけどなぁ」
苦笑しながら呟き、それでも那岐自身の胸にも、少しずつ期待が膨らんでいく。
洛陽かぁ……。
まだ見ぬ大陸の都を思い浮かべながら、那岐もまた、遠い旅の先へと思いを馳せていた。




