九章 神武 六話 六人の夏
西暦二百三十八年。那岐が狭野たち子供六人と暮らし始めてから、二年の月日が流れていた。
竹と浦は十歳、椎根津彦は九歳。そして狭野、日臣、大久米は八歳になっている。
季節は夏を迎え、海の水も十分に温んでいた。そこで那岐は、そろそろ子供たちを海へ連れて行ってもよい頃だろうと考えていた。
もちろん浜辺で遊ばせるだけでもよかったが、せっかく海の近くで暮らしているのだから、泳ぎだけでなく小舟を使った操船も教えておきたい。いずれ自分たちで漁ができるようになれば生活の助けにもなるし、航海の技術が必要になる日が来ないとも限らない。
そう考えた那岐は、いつものように朝食の席で話を切り出した。
「実は村長と相談してね。浜辺にある小屋と、小舟を一艘借りられることになったんだ」
食事をしていた子供たちが、一斉に顔を上げる。
「小屋と小舟ですか?」
真っ先に反応したのは椎根津彦だった。その隣で日臣も箸を止め、不思議そうな顔をする。
「それで何をするのですか?」
「みんなに泳ぎと、船の操船を覚えてもらおうと思っているんだ」
那岐がそう答えると、狭野は目を丸くした。
「海の中を泳ぐのですか?」
「そういえば、私たちもちゃんと泳いだことありませんね」
竹も思い返すように呟く一方で、椎根津彦だけはすでに興味を引かれたらしく、表情を引き締めていた。
「操船には興味があります。いつか、きちんと学びたいと考えていました」
その言葉には、他の子供たちとは少し違う重みがあった。
椎根津彦はかつて海で遭難し、その事故で家族を失っている。海に対して恐れがないはずはなかったが、だからこそ海を知り、船を扱う術を身につけたいという思いも強いのだろう。
そんな中、浦は別のことが気になったらしく、自分の衣をつまみながら尋ねた。
「海に入る時って、どんな服を着ればいいのかしら?」
「そうだね。それなら海で着る服も先に作っておこうか。竹と浦の分だけじゃなくて、みんなの分もね」
那岐が何気なく答えた瞬間、双子の表情が揃って固まった。
二人とも、何やら嫌な予感を覚えたらしい。
那岐はそんな二人へ、にこやかな笑顔を向けた。
「頼んだよ、竹、浦」
「またぁ……なんだか私たち、裁縫ばっかりやらされている気がします……」
浦が露骨に肩を落とす隣で、竹はしばらく黙っていたものの、やがて観念したように小さく息を吐いた。
「……わかりました」
その様子がおかしかったのか、日臣が向かい側でにやにやと笑っている。
竹はそれに気づくと眉を吊り上げ、ちょうど空になっていた木製の皿を掴んだ。
「何笑ってるのよ!」
「いてっ!」
飛んできた皿が額に当たり、日臣は悲鳴を上げた。
海に到着して最初に始めたのは、泳ぐことではなく、まず海の水に身体を慣らすことだった。
いきなり深い場所へ入るのではなく、足の届く浅瀬で波や水の冷たさに慣れさせ、それから基本的な身体の動かし方を教え、少しずつ泳ぎへ移っていくつもりである。
那岐は子供たちを集め、手や足の動かし方から一つずつ丁寧に説明していったのだが、当の子供たちは久しぶりに来た海の方が気になるらしい。
説明を聞いていたかと思えば、いつの間にか互いに水を掛け合い、浅瀬を走り回って歓声を上げていた。
「まったく……遊びに来たわけではないんだけどね」
那岐は小さくため息をついたものの、本気で叱る気にはなれなかった。
笑いながら水を掛け合う子供たちの姿を眺めているうちに、今は少しくらい好きに遊ばせてもいいかと思い直し、しばらくの間は口を出さずに見守ることにした。
それから数日にわたって泳ぎの稽古を続けると、少しずつ得手不得手が見えるようになってきた。
中でも上達が早かったのは浦だった。水を怖がる様子がほとんどなく、教えられた動きをすぐに身につけると、ほどなくして誰よりも滑らかに泳げるようになった。
潜ることにも抵抗がなく、今では息を止めたまま海中へ潜り、海底を眺めて回る余裕まで見せている。
他の子供たちも浦ほどではないにせよ順調に上達しており、最初は水に浮くことすらおぼつかなかった者も、数日もすれば自分の力で少しずつ前へ進めるようになっていた。
ただ一人、大久米だけは少し様子が違っていた。
「うおおおっ!」
気合いだけは誰にも負けていないのだが、両腕で力任せに水面を叩くばかりで、身体はほとんど前へ進まない。それどころか水しぶきばかりが派手に上がり、本人だけが必死に疲れていく始末だった。
「大久米、そんなに力任せに水を叩くんじゃなくてね。もっと水をすくって、後ろへ送る感じにしなきゃ」
「はい!」
大久米は那岐の言葉に真剣な顔で頷き、教えられた通りに動こうとする。しかし、どうにも身体の使い方が不器用らしく、力を抜こうとすれば動きが止まり、動こうとすれば再び力任せになってしまう。
そんな大久米の様子が気になったのか、狭野はいつの間にか傍へ寄り、一緒に泳ぎの稽古をするようになっていた。自分も決して上手いわけではないのに、大久米が腕を動かすたびに横から声を掛け、何度失敗しても付き合い続ける。
やがて、その甲斐があったのか、大久米の身体がそれまでよりも明らかに前へ進んだ。
「あ、前に進んだよ! 今の感じだよ!」
狭野が嬉しそうに声を上げる。
「そうそう! その調子!」
大久米も水の中で必死に手足を動かしながら、それでも先ほどまでとは違って確かに前へ進んでいた。
泳ぎの稽古は、それから数日間にわたって続けられた。
まだ十分に泳げると呼べるほどではないものの、誰もがどうにか水の中で身体を動かせるようになり、ひとまず最低限の形にはなっている。これ以上は焦らず、今後も機会を見つけて少しずつ続けていけばいいだろうと那岐は判断した。
そうして最低限の泳ぎを身につけた子供たちは、ようやく待ち望んでいた小舟へ乗せてもらえることになった。
浜辺から少し離れ、小舟が波の上を進み始める。那岐は帆や櫂の扱いについて順を追って説明していたのだが、初めて船に乗る子供たちの注意は、なかなかこちらへ向いてくれなかった。
「おおー、動いてる! すごーい!」
狭野は舟べりから身を乗り出し、流れていく海面を目を輝かせながら眺めている。
「狭野、そんなに身を乗り出したら危ないってば」
竹は慌てて後ろから狭野の身体を抱え、そのまま舟の内側へ引き戻した。
一方、浦は頬に当たる潮風を気持ちよさそうに受けながら、海面を覗き込んでいる。
「きっもちがいい。ここから飛び込んでみたいかも」
「こんな沖まで出たら流されちゃいますよ。危ないです」
すぐに椎根津彦が止めると、浦は大したことではないという顔で振り返った。
「大丈夫よ。みんなの中で私が一番泳ぎが上手かったじゃない」
「だめだよ、浦」
那岐は穏やかな声ながら、そこだけはきっぱりと言った。
「その慢心が命に関わるのだからね。少しくらい泳げるようになったからといって、海を侮ってはいけません」
「はーい」
浦は素直に返事をしたものの、どこまで理解しているのかは少々怪しい。
そんな中、一人だけ先ほどから妙に静かな者がいた。
「…………」
日臣である。
いつもなら狭野や浦に負けないくらい騒がしいはずなのに、今日は舟の中央に座り込んだまま、ほとんど口を開こうとしない。
「さっきからあんた、何だまっているの?」
竹が不思議そうに声をかけると、日臣は俯いたまま低い声を返した。
「話しかけんな……」
「何よ、その言い方……って、あんた顔、青くない?」
「見るな……」
よく見れば、日臣の顔からは完全に血の気が失せている。
浦もようやく異変に気づいたらしく、面白そうに顔を覗き込んだ。
「あれ? もしかして日臣、船に弱いの?」
「違う……」
「……船酔いですね」
椎根津彦が冷静に結論を出した瞬間、日臣の眉がぴくりと動いた。
「椎根津彦、てめぇ……うっ……」
言い返そうとした日臣が、突然口元を押さえる。
そして次の瞬間。
「うぇぇぇええええええ!」
盛大に吐き戻した。
しかも、その先にいたのは運悪く竹だった。
「ぎゃぁぁああああ!」
竹の悲鳴が海上に響き渡る。
先ほどまで青ざめていた日臣とは対照的に、今度は竹の顔がみるみる引きつっていった。
「ひ……日臣ぃぃぃぃぃぃ!」
「わ、悪かった……わざとじゃ……うっ」
「こっち向くなぁぁぁ!」
再び込み上げてきたらしい日臣が顔を上げた瞬間、竹は全力で後ずさった。
浦だけは異変を察した時点で素早く距離を取っており、安全な場所から腹を抱えて笑っている。
「うわ~、すっごい地獄絵図だぁー! あはははは!」
「笑ってないで助けなさいよ!」
「やだよ、巻き込まれたくないもん!」
二人の声を聞きながら、那岐は困ったように息を吐いた。
「少し沖に出過ぎたかもしれないね。一度戻って、波の穏やかなところで続けましょう」
「那岐様……」
竹が泣きそうな顔で振り返る。
「一度、浜まで戻りたいです……」
「海に浸かって洗い流しなさいよ。手を持ってあげますから」
「やです。ちゃんと洗いたい……」
普段なら多少のことでは文句を言わない竹が、珍しくはっきりと拒んだ。
その様子が妙に年相応で、那岐にはかわいくて仕方がなかった。
「はいはい。分かりました」
仕方ないね、と笑いながら、那岐は小舟の向きを浜辺へ戻していった。
船の操船についても、那岐は数日をかけて一つずつ丁寧に教えていった。
なかでも強い関心を示したのは椎根津彦だった。那岐の説明を聞きながら何度も質問を重ね、そのたびに大久米へ指示を出して帆を張らせていく。
風がどちらから吹いているのか、その風を受けるには帆をどのように張ればよいのか。さらに船の向きや進む速さまで考えながら、椎根津彦は何度も試しては修正し、少しも飽きる様子を見せなかった。
一方の大久米は、風向きや帆の角度といった細かな理屈まではなかなか理解できなかったものの、椎根津彦の指示には素直に従っていた。帆を張り、縄を引き、必要に応じて位置を変えるうちに、頭で理解するより先に身体で操船を覚えていったらしい。
狭野も大久米のそばについて懸命に手伝っていたが、まだ八歳の身体では力で大久米に及ばない。本人は役に立っているつもりでも、実際には大久米の仕事を少し手伝えている程度だった。
竹と浦も那岐の話をしっかりと聞き、何度か舵や帆を任されるうちに、少しずつ風を読んで船を進ませられるようになっていった。
そんな中、ただ一人だけ、船の端に座ったままほとんど動こうとしない者がいた。
日臣である。
先日の一件以来、日臣は操船を覚えるどころではなく、ひたすら見学に徹していた。顔色は船に乗った直後から悪く、沖へ出るにつれてますます青ざめている。
「ところで……いつまでやるんですか、操船。もう……終わりませんか?」
必死に平静を装いながら尋ねる日臣だったが、その表情には一刻も早く陸へ戻りたいという願いがありありと浮かんでいた。
そんな日臣の姿を見て、狭野たちはとうとう堪えきれなくなり、船の上には楽しげな笑い声が広がるのだった。




