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【新説古事記】邪馬台国叙事詩―神代建国譚―  作者: 月見
九章 神武

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九章 神武 五話 春の田植え

挿絵(By みてみん)


 西暦二百三十八年。那岐が狭野(さの)たちと暮らし始めてから、二年の月日が流れていた。


 竹と浦は十歳、椎根津彦(しいねつひこ)は九歳。そして狭野、日臣(ひのおみ)、大久米(おおくめ)は八歳になっている。


 この時代、田植えを迎える前に豊穣を願い、神々へ祈りを捧げることは大切な営みだった。


 稲作は天候に大きく左右される。雨が少なすぎても、多すぎてもいけない。台風や長雨、日照りひとつで、その年の収穫が大きく変わってしまう。


 どれほど人の理を越えた力を持つ那岐であっても、自然そのものを意のままに操ることはできなかった。風や炎を生み出すことはできても、季節を変え、天候を支配するようなことまではできない。


 だからこそ、人々は田植えを始める前に神々へ祈り、一年の実りを願ったのである。


 しかし日向は、倭国の中でもまだ辺境と呼んで差し支えない土地だった。社の数も少なく、祭祀を専門に担う巫女が常にいるわけでもない。


 ある朝、いつものように皆で朝食を囲んでいると、那岐が箸を動かしながら残念そうに肩を落とした。


「今年は田植え前の豊穣祈願をしてくれる巫女が、この地には来ないんだって……」


 普段なら穏やかに食事を楽しんでいる那岐が、見るからにしょんぼりしている。向かいに座っていた狭野は、不思議そうに首を傾げた。


「那岐様、豊穣祈願ってそんなに大切なのですか?」


「あんた、この前の座学で習ったでしょ。ちゃんと聞いていたの?」


 すぐさま竹が呆れた声を向けると、狭野は気まずそうに視線を逸らした。代わって椎根津彦が、学んだことを思い返すように口を開く。


「天候ばかりは人にはどうにもできません。だからこそ、田植えの前には皆で豊穣を願うのです」


「けど、巫女が来ないんじゃ仕方ないだろ」


 日臣はそう言って汁物を口へ運んだ。


 その間も大久米だけは会話にほとんど加わらず、黙々と食べ続けている。かつて飢えの末に行き倒れた経験を持つ大久米にとって、食事は他の子供たち以上に大切なものだった。食卓に料理が並んでいる間は、多少の騒ぎが起ころうとも滅多なことでは手を止めない。


「まあ、巫女がいない時は村長やその土地の長が代わりに儀式をすることもあるんだけどね。でも、やっぱり巫女に祈ってもらった方がありがたみがあるじゃないか」


 那岐がそう話すと、浦がにやりと笑った。


「巫女が綺麗だからとか?」


「違うよ」


 那岐は少し困ったように笑ってから、すぐに真面目な顔へ戻る。


「ちゃんと神様にお祈りしておかないと、不作になった時に困るじゃない。実際に神様がどう思っているかはともかく、皆が一年を安心して始めるためにも大事な儀式なんだ。だから手抜きはしたくないなぁ」


「どこかに巫女いないかなぁ」


 狭野も考えるように呟いたが、竹は現実的だった。


「来てくれないものは仕方ないじゃない」


「この時期は、どこも豊穣祈願で忙しいですからね。巫女の方々も手が回らないのでしょう」


 椎根津彦の説明に、皆が納得しかけたところで、浦がぱっと顔を上げた。


「じゃあ、私たちが巫女になって儀式やろうよ」


「何を言っているのよ。儀式の作法も知らないじゃない」


 竹が即座に否定すると、日臣も鼻で笑う。


「お前らが儀式なんかやったら、神様に怒られるだけだしな」


 ごつん、と鈍い音が響いた。


 竹が無言で日臣の頭を上から殴ったのである。


「いってぇーなぁ! 本当のことだろうがよぉ!」


「余計なことを言うからでしょ」


 日臣が頭を押さえて抗議する横で、那岐は何かを思い出したように「あっ」と声を上げた。


「あー、そっか。私が儀式をすればいいじゃないかぁ」


 その一言で、食卓の動きが止まった。


 竹も浦も、狭野も日臣も椎根津彦も、揃って那岐を見る。そして食事中は何があっても滅多に手を止めない大久米まで、口へ運びかけていた飯を持ったまま固まっていた。


「え? 那岐様が巫女に?」


 椎根津彦が思わず聞き返す。


「うん。いやぁ、すっかり忘れていたよ」


 那岐は照れくさそうに笑った。


「近年は山門に長くいたからね。あそこには巫女が常駐していたし、私が祭祀をすることなんてなかったんだ。でも昔は山門にも巫女がほとんどいなくてね。そういう時のために、私も巫女舞を覚えて奉納していたものだよ」


「すごい……」


 竹が素直に感嘆すると、浦は那岐の姿を上から下まで眺め、楽しそうに笑った。


「那岐様の巫女姿……似合いそうですわ」


「それなら豊穣祈願の儀式もできそうだね」


 狭野も嬉しそうに頷き、那岐もすっかりその気になっていた。




 朝食を終えると、那岐は狭野たちに武芸の稽古をしておくよう言いつけ、そのままどこかへ姿を消した。


 何をしに行ったのか子供たちには知らされず、再び姿を見せたのは日が傾き始めた夕方のことである。


 戻ってきた那岐の腕には、見慣れない衣が何着も抱えられていた。そのほかにも、祭祀に使う木鈴などが揃っている。


 実のところ那岐は、子供たちに内緒で妖術を使い、一気に奴国まで飛んでいた。そこで交易品を扱う場所を回り、どうにか巫女服を三着と祭祀に必要な道具を手に入れてきたのである。


 ただし、用意できた巫女服はどれも成人女性を想定した大きさだった。那岐ならともかく、十歳の竹と浦にはそのまま着せることはできない。


 その日の夕食では、食卓の横へ畳んで置かれた巫女服や木鈴に、皆の視線が何度も向けられていた。日向ではそうそう目にするものではなく、子供たちにとっては珍しかったのだ。


「竹、浦。明日から急いで手伝ってほしいことがあるんだ」


 那岐が食事の途中で声をかけると、竹はすぐに顔を上げた。


「なんでしょうか?」


「巫女服の大きさが合わないから、手直しをしないといけないんだ。二人にも手伝ってもらうからね」


「えええええ……」


 浦が露骨に嫌そうな顔をして、自分の指先を見つめた。


「やっと針の傷が治ったばかりなのに……」


 以前、那岐から罰として散々裁縫をさせられ、その時に何度も針を指へ刺してしまったのである。


 そんな浦の嘆きを聞いても、那岐は涼しい顔だった。


「だって、竹も浦も巫女服を着るんだし、仕方ないじゃないか」


「え?」


 今度は竹が目を丸くする。


「私たちも着るのですか? でも、私たちは儀式の作法なんて知りませんよ」


「着ていいの?」


 それまで嫌そうにしていた浦は、一転して身を乗り出した。


「大丈夫だよ。二人は私の傍で控えていてくれればいいから。儀式そのものは私がするよ」


「やったーー! こんな綺麗な服、一度は着てみたかったのよね!」


 浦が一気に機嫌を直して喜ぶ横で、竹が眉をひそめた。


「遊びじゃないのよ、浦」


 そう注意する竹だったが、その視線はちらちらと巫女服へ向いている。どうやら本人も、まんざらではないらしい。


「分かってるってー」


 浦は姉の様子に気づいているのかいないのか、楽しそうに笑いながら巫女服を眺め続けていた。




 数日後、田植えを前にした豊穣祈願の儀式が行われた。


 祭壇の中央に立った那岐は、静かに木鈴を掲げると、ゆっくりと腕を動かした。


 しゃらーん。


挿絵(By みてみん)


 澄んだ音が辺りに響き渡り、それを合図にするように那岐の舞が始まる。左右には巫女装束に身を包んだ竹と浦が控えており、二人が姿勢を正して並ぶだけでも、儀式には普段とは違う厳かな空気が漂っていた。


 那岐の巫女舞は華やかでありながら、一つ一つの動きが驚くほど丁寧だった。木鈴を鳴らす間合いも、袖を翻す手の動きも、足を運ぶ速さも淀みがなく、長い年月をかけて身につけたものだと分かるほど洗練されている。


 しゃらーん。


 木鈴が鳴るたび、それまで小声で話していた村人たちの声が一つ、また一つと消えていった。


 那岐が大きく袖を翻し、静かに一歩を踏み出す。土を踏む足取りには一切の迷いがなく、昨日今日で覚えた舞ではないことくらい、儀式の作法を知らない子供たちにも分かった。


 左右に控えている竹と浦も、普段一緒に暮らしている時の那岐とはまるで別人のように見えていた。


 いつもなら料理を作り、畑仕事をし、自分たちの世話を焼いてくれる人である。それが今は、祭壇の中央で木鈴を鳴らしながら舞う姿から目を離すことすらできない。


 ――なんて美しいんだろう。


 竹も浦も、口には出さなかったものの同じことを思っていた。


 村人たちも次第に頭を垂れ、今年の豊作を願いながら、那岐の舞をありがたそうに見守っている。


 しゃらーん。


 再び木鈴の音が響く。


 少し離れたところでは、狭野たち四人も三人の姿にすっかり見入っていた。


「那岐様って、こんなにも美しい方だったのですね……」


 椎根津彦が感嘆したように呟くと、隣の日臣も祭壇から目を離さないまま答えた。


「あれで男なんだよなぁ……何か間違ってないか?」


 その横では大久米が何も言わず、ただじっと三人を見つめている。普段なら周囲が何を話していようと気にしない大久米まで見入っているのだから、それだけでも普段とは違う光景だった。


「みんな綺麗だねぇ」


 狭野も嬉しそうに声を漏らした。


 もっとも、そう言いながら狭野の目が追っているのは、祭壇の左右に控える竹と浦の姿ばかりだった。見慣れているはずの二人が、今日は見たこともないほど綺麗に見える。


 そんな狭野の視線に先に気づいたのは浦だった。


 浦は儀式の邪魔にならない程度にほんの少しだけ狭野へ顔を向けると、嬉しそうに柔らかな笑みを見せる。


 狭野もつられるように笑い返した。


 一方、竹もほどなく狭野がこちらを見ていることに気づいてしまった。


 姿勢を崩してはいけないと分かっているのに、なぜか急に落ち着かなくなり、狭野と目が合いそうになるたびに視線を逸らしてしまう。


 やがて耐えきれなくなったように、竹はほんの少しだけ俯いた。


 その間にも祭壇の中央では那岐の舞が続き、春の空の下に、澄んだ木鈴の音がいつまでも響いていた。




 豊穣祈願の儀式を終えて数日後、いよいよ田植えが始まった。


 水を張った田に一列に並び、苗を一本ずつ植えていく。腰を曲げたまま泥の中を進む作業は、見た目以上に身体へ負担がかかる。始めたばかりの頃こそ元気だった子供たちも、時間が経つにつれて次第に口数が減っていった。


「もう腰が痛いよぉ……」


 狭野は泥だらけの手を腰へ当て、情けない声を漏らした。


「もうちょっとだから、頑張ろうね」


 少し先で苗を植えていた那岐が、身体を起こして優しく声をかける。


「若様、みんなが食べる物です。頑張りましょう」


 日臣も額の汗を腕で拭いながら狭野を励ました。本人も疲れているはずだが、狭野の近習として弱音を吐くつもりはないらしい。


 その隣では、大久米が何も言わず、黙々と苗を植え続けていた。誰よりも大きな身体を曲げ、一定の速さで手を動かしている。食べ物を粗末にしない大久米にとって、米を育てるための作業は手を抜いてよいものではなかった。


「とはいえ、本当に腰が痛いですよ……。これは大変です」


 椎根津彦もさすがに堪えたらしく、腰を押さえながら大きく息を吐いた。


「情けないわね。弱音を吐かないの」


 竹はそう言いながら手を休めない。自分も疲れているはずなのに、年長者として意地でも弱ったところを見せる気はないようだった。


 そんな中、浦だけが少しずつ皆から距離を取っていた。


 一歩、また一歩と田の端へ近づき、誰にも気づかれていないつもりで逃げ出そうとする。


「こら、浦! てめー逃げんじゃねー!」


 すぐに日臣の声が飛んだ。


「あはは、逃げないって。ちゃんとやるよー」


 見つかってしまった浦は悪びれもせず笑い、しぶしぶ元いた場所へ戻ってくる。


「まったく……」


 那岐は苦笑しながら子供たちを見回した。


 疲れて不満を漏らす者もいれば、黙々と働く者もいる。真面目に頑張る者の横では、少しでも楽をしようとする者までいる。それでも誰一人として田から帰らず、泥だらけになりながら同じ作業を続けていた。


「せっかくだし、みんなで田植えの歌でも歌おうか。黙ってやっているより楽しいでしょう?」


「歌ですか?」


 狭野が顔を上げると、那岐は笑って頷いた。


「そう。声を合わせていたら、少しくらい疲れも忘れられるよ」


 那岐が歌い始めると、最初は戸惑っていた子供たちも、一人、また一人と声を重ねていった。


挿絵(By みてみん)


 田の上に響く歌声に合わせて、苗が一本ずつ泥の中へ植えられていく。


 もちろん歌ったところで腰の痛みがなくなるわけではなく、狭野も椎根津彦も途中で何度となく弱音を吐いた。浦も隙を見つけては休もうとし、そのたびに竹や日臣から叱られた。


 それでも皆で泥にまみれ、数日をかけて作業を続けた末、田植えは無事に終わった。

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