九章 神武 四話 山の黒い獣討伐
西暦二百三十八年。那岐が狭野たちと暮らし始めてから、すでに二年が過ぎていた。
竹と浦は十歳、椎根津彦は九歳。狭野、日臣、大久米は八歳となり、それぞれ少しずつではあるが成長を見せ始めている。
ある日のことだった。
子供たちが那岐から座学を受けている最中、村長が家を訪ねてきた。
「すまないが、少し相談したいことがある」
いつになく深刻そうな表情を見て、那岐は子供たちへ向き直った。
「しばらく自習していてください。すぐに戻りますから」
「はーい」
返事を確認した那岐は村長を別室へ通し、向かい合って腰を下ろした。
相談というのは、最近になって山から里へ下りてくるようになった熊についてだった。
最初のうちは田畑へ入り込み、農作物を荒らすだけだったという。ところが次第に人を恐れなくなり、ついには里人を襲うようになった。すでに数人が犠牲となっており、村長の話では、人の味を覚えた熊が今後も繰り返し里へ現れる可能性が高いという。
「このまま放っておくわけにもいかん。だが、下手に山へ入れば、こちらが返り討ちに遭う。どうしたものかと思ってな」
那岐は少し考えてから答えた。
「まずは熊が通りそうな場所へ罠を仕掛けましょう。それと、山へ入るのは普段から狩りに慣れている若い者だけにしてください。人数を揃えて、決して一人では動かないように」
「やはり、それが一番か」
「ええ。ただ、熊も馬鹿ではありません。周囲の異変に気づけば罠を避けますし、大勢で捜索すれば人の気配を察して逃げるでしょう。すぐに仕留められるとは考えない方がいいですね」
「時間がかかるか……」
「焦って被害を増やすよりは、その方がいいでしょう」
村長は渋い顔をしながらも頷いた。
それが最も安全な方法であることは理解できる。だが、その間にも再び熊が里へ現れるかもしれない。村長の表情からは、そんな不安が消えていなかった。
そして、その話を聞いていた者がいた。
本来なら別室で自習しているはずの子供たちである。
扉の向こうで耳を澄ませていた狭野たちは、熊によってすでに何人もの犠牲者が出ていると知り、互いに顔を見合わせた。
熊という獣が危険であることくらいは、幼い彼らにも分かっている。それでも、このまま何もしなければ、また誰かが襲われるかもしれない。
最初に口を開いたのは狭野だった。
「人を襲っている悪い熊なら、私たちで退治しようよ」
「駄目です」
日臣が間髪を入れず否定した。
「危険すぎます。熊は、そんな簡単に退治できるような獣ではありません」
「でも、もう村の人たちに犠牲者が出てるんだよ?」
「そうよねえ。熊退治しようよ」
浦があっさり同意すると、竹がぎょっとして妹を振り返った。
「浦、あなたまで何を言っているのよ!」
「だって、このままだとまた誰か襲われるんでしょ?」
「だからって、私たちが行く理由にはならないでしょう!」
そこへ椎根津彦も慎重な口調で加わった。
「私も反対です。熊と私たちでは体格が違いすぎます。まともに戦えば、とても危険ですよ」
狭野は少し考え込み、それでも納得できない様子で言った。
「でも、那岐様はすぐに熊を退治するつもりじゃないみたいだよ。それまでに、また犠牲者が増えるんじゃないかなぁ」
その言葉に、皆が黙り込んだ。
那岐が何も考えていないとは思わない。むしろ安全を考えて慎重に動こうとしていることくらい、子供たちにも分かっている。
しかし、罠を仕掛け、若者たちが捜索し、熊が現れるのを待つとなれば時間がかかる。その間に新たな犠牲者が出る可能性は確かにあった。
「大人たちは慎重すぎて、動くのが遅いんだよ」
浦が言うと、竹は眉をひそめた。
「那岐様には那岐様のお考えがあってのことでしょう」
「でも、その間にまた誰か死んじゃうかもしれないよ?」
狭野にそう言われると、竹もすぐには言い返せなかった。
日臣はなおも迷いながら口を開く。
「しかし若様、いくらなんでも危険すぎます。熊を相手にするなんて――」
「なに? 怖いの?」
浦がにやりと笑った。
「別にいいのよ。怖いなら陰に隠れてても。熊退治は私に任せてもらってもー」
「はぁ!? 怖くねーし!」
日臣は即座に反応した。
「熊くらい、俺一人でも退治してやらぁ!」
「浦、煽らないの!」
竹が声を荒らげる。
「私たちだって熊を退治したことなんてないのよ!」
すると狭野が竹をじっと見た。
「竹も大したことないね」
「……何ですって?」
「いつもあれだけ威張ってるのに、一番臆病なんだね」
「なっ――何言ってるのよ! 怖いなんて一言も言ってないでしょう!」
竹の顔色が変わった。
狭野はここぞとばかりに身を乗り出す。
「じゃあ協力してよ。日臣も竹も、怖くないんでしょ?」
「…………」
「…………」
二人とも黙った。
その様子を見て、浦が満足そうに手を叩いた。
「はい、決まり。任せてよ、熊なんて簡単だから!」
「簡単なわけないだろ……」
日臣はそう言いながらも、すでに参加する流れになっていることを察したらしい。諦めたように息を吐いた。
「それで、どうやって熊を見つけるんだ?」
皆の視線が椎根津彦へ集まる。
椎根津彦は少し困った顔をしたものの、すぐに考えを切り替えた。
「見つける方法については、これから考えます。ただ、その前に役割は決めておいた方がいいでしょう」
さらに声を落とし、別室にいる那岐の方へ目を向ける。
「それと、熊を退治しに行くなんて那岐様に知られたら、絶対に止められます。まず考えるべきなのは、どうやって那岐様の目を誤魔化して外へ出るかです」
「なるほど……!」
狭野は感心して椎根津彦を見た。
こういう時の椎根津彦は、やはり頼りになる。
熊をどう倒すかよりも先に、最大の難関である那岐をどうやって出し抜くか。
子供たちはいつの間にか、そこから相談を始めていた。
翌日、子供たちは揃って那岐のもとを訪れ、今日は皆で武芸の鍛錬をしたいと申し出た。
普段、那岐は武芸の稽古にほとんど顔を出さない。子供たちはそこを利用し、稽古へ向かうふりをして熊が出没する山へ入るつもりだった。
もっとも、那岐は素直に送り出しながらも、どこか引っかかるものを感じていた。全員が妙に落ち着かず、普段なら聞かれもしないことまで先回りして説明してくる。
何か企んでいる。
そう感じはしたものの、その場では問い詰めなかった。
あとで一度、様子を見に行っておこう。
そう心に留め、那岐は子供たちを送り出した。
それからしばらくして、狭野たちは熊が目撃された山の一帯へ足を踏み入れていた。村から離れるにつれて人の手が入った痕跡は薄れ、周囲には背の高い木々と深い藪ばかりが広がっていく。
狭野は辺りを見回したあと、隣を歩く椎根津彦へ声をかけた。
「着いたね。椎根津彦、策をみんなにもう一度伝えてくれ」
「はい。では、手筈通りにお願いします」
椎根津彦は全員の顔を順番に見ながら、昨夜決めた役割を確認していった。
「日臣と大久米は槍を持って熊に対応してください。ただし、絶対に槍の間合いを崩さないこと。それから、正面から戦うのは禁止です」
「わかった」
日臣が力強く答え、大久米も無言で頷いた。
「竹は弓と槍の両方を使ってください。最初は距離を取って弓で攻撃して、必要になったら槍に切り替えます。浦は近づくと危険なので、木の上から弓で援護してください」
「承知したわ」
「わかったぁ」
竹は真剣な表情で頷いたが、浦はいつもと変わらない軽い調子で返事をする。
「若様と私は、熊を見つけたらすぐ木に登ります。そこから弓で支援しましょう」
「わかったぞ!」
狭野が元気よく答えたところで、日臣が眉を寄せた。
「それで、肝心の熊はどうやって見つけるんだ?」
「まずは足跡や糞を探します。熊が通った場所を見つければ、そこから追えるはずです。それに、こちらから近づけば熊の方から逃げない可能性も高いと思います」
浦が不思議そうに首を傾げた。
「なんで? 村の人たちが探しに行くと逃げるって聞いたよ?」
「それは捜索しているのが大人の男だからだよ。熊から見ても、自分を傷つけるかもしれない相手だから警戒しているんだと思う」
そこで椎根津彦は一度言葉を切り、自分たちの姿を見回した。
「でも、私たちは違う。熊から見れば小さな子供です。危険な相手どころか、餌の方から近づいてきたように見えるかもしれません。人の味を覚えている熊なら、たぶん迷わず襲ってきます」
その言葉を聞いた途端、それまで張り切っていた狭野の顔から少しだけ笑みが消えた。
日臣も何も言わず、手にしていた槍を強く握り直す。
熊が姿を現した場合、最も近い位置で受け持つのは自分と大久米だ。つまり、真っ先に狙われる可能性が高い。
隣を見ると、大久米はいつもと変わらない無表情のまま、ただ一度頷いた。
「……行こう」
狭野の声を合図に、一行は慎重に山の奥へ進んでいった。
地面を見ながら歩き、泥の柔らかい場所や草の倒れ方を確かめていく。しばらく何も見つからなかったが、先を歩いていた浦が突然しゃがみ込んだ。
「ねえ、これじゃない?」
皆が集まると、湿った土の上に大きな足跡が残されていた。
狭野は思わず自分の手をその横へ置いてみた。
「……大きい」
子供の手など、すっぽり収まってしまいそうなほどだった。自分たちの足跡と比べれば何倍もの大きさがあり、それまでどこか遊びの延長のように感じていた空気が一気に変わる。
「これを追いましょう」
椎根津彦の言葉に従い、一行は足跡を辿った。
やがて木の根元に黒い塊を見つける。近づいて確かめると、どうやら熊の糞らしかった。
「まだ新しいですね」
椎根津彦が表面を観察しながら呟いた。
「近くにいるってこと?」
狭野が声を落として尋ねる。
「おそらく」
それからは誰も余計な話をしなくなった。
枝を踏む音さえ大きく感じる静かな山の中を、全員が武器を握ったまま進んでいく。
そして、さらに奥へ入ったところで、前方の茂みが大きく揺れた。
子供たちは一斉に足を止めた。
木々の間から、黒い巨体がゆっくりと姿を現す。
熊だった。
狭野は息を呑み、日臣と大久米は反射的に槍を構えた。
その時、椎根津彦の顔色が変わった。
風が頬を撫でている。
自分たちの背後から、熊のいる方向へ向かって吹いていた。
「まずい……」
熊はこちらを探して出てきたのではない。
とっくに自分たちの臭いに気づいていたのだ。
しかも熊は逃げる様子を見せず、茂みの向こうでこちらを待ち構えていた。
「熊が風下にいる! 臭いで先に気づかれて、待ち構えられていたんだ!」
椎根津彦はすぐさま声を張り上げた。
「みんな、配置について! 来るよ! 急いで!」
一斉に狭野たちは散り、決めていた配置へとついた。真っ先に木へ登った浦が枝の上から矢を放ち、続いて竹も弓を引き絞る。
二本の矢は熊の身体を捉えたものの、まだ距離が遠い。厚い毛皮に阻まれ、傷を負わせることはできても動きを止めるほどではなかった。
熊は低く唸ると、木の下で槍を構えていた日臣と大久米へ向かって猛然と駆け出した。
「来るぞ!」
日臣の声と同時に、二人は左右へ分かれ、太い木の幹を盾にして突進をかわした。
熊はすぐさま日臣へ狙いを定めると、逃がすまいと木の周囲を回り込む。日臣も槍を構えながら距離を取ろうとしたが、木陰から巨大な頭が現れ、真正面から熊と目が合った。
「……っ!」
日臣が息を呑んだ、その瞬間だった。
背後から駆け寄った大久米が、両手で握った槍を熊の背中へ深々と突き立てた。
「うっ……!」
低い咆哮が山中に響き渡る。痛みに怒り狂った熊は日臣から大久米へ向き直り、今度は槍を突き刺した大久米へ襲いかかろうとした。
その動きを見ていた椎根津彦が声を張り上げる。
「今です! 頭を狙ってください!」
木の上から一斉に矢が放たれた。
狭野、浦、そして竹の矢が次々と熊の頭部へ飛ぶ。しかし多くは硬い頭骨に当たって弾かれ、浅く刺さったものも熊の勢いを削ぐには至らない。
その中で一本だけ、鋭く熊の顔へ飛び込んだ。
竹の放った矢だった。
矢尻が熊の右目を貫く。
「グオオオオオッ!」
熊が頭を振り回しながら激しく暴れた。
その隙を逃さず、日臣が背後へ回り込み、力の限り槍を突き込む。さらに大久米も槍を握り直すと、普段ほとんど声を荒らげることのない彼が、腹の底から雄叫びを上げた。
「うおおおおおっ!」
熊の正面へ踏み込み、胸を目掛けて槍を突き出す。
深く刺さった。
それでも熊は倒れなかった。
傷口から血を流し、片目を潰され、身体に幾本もの矢と槍を受けながら、なおも大久米へ向かって前足を振り上げる。
「大久米!」
狭野と椎根津彦も木の上から夢中で矢を射続けたが、熊の動きを完全に止めることはできない。
鋭い爪が大久米へ振り下ろされようとした、その時だった。
「させない!」
竹が木の枝を蹴った。
弓を捨て、槍を手にしたまま熊の背中へ飛び降りると、落下の勢いをそのまま乗せて首元へ槍を突き立てる。
熊の巨体が大きく揺れた。
それを見た浦も枝から飛び降りると、腰の剣を抜き、熊の首へ向けて思い切り振り抜いた。
「えいっ!」
刃が首筋へ食い込み、熊の身体がぐらりと傾く。
まだ立ってはいたものの、先ほどまでの猛々しい動きは失われ、足元も大きくふらついていた。
「今だ、仕留めるぞ!」
日臣は熊の背中へ突き刺した槍を引き抜こうとしたが、深く入りすぎてびくともしない。それならばとすぐに槍から手を離し、腰の剣を抜いて熊の胸へ飛び込んだ。
「これで……終わりだ!」
両手で握った剣を胸へ深々と突き込む。
熊の身体が一度大きく震えたあと、やがて力を失い、その巨体が地面へと崩れ落ちた。
しばらく誰も動かなかった。
本当に死んだのか確かめるように、全員が倒れた熊を見つめている。
やがて狭野が両手を上げた。
「やったーーー! やったぞーーー!」
その声を聞いた途端、日臣と大久米はその場へへたり込んだ。
戦っている間は必死で気づかなかったものの、緊張の糸が切れたのだろう。二人とも立ち上がろうとはせず、大きく息を吐きながら地面に座り込んでいる。
竹は槍についた血を振り落とすと、得意そうに胸を張って狭野を見た。
「どう、狭野。私にかかれば、こんなものよ。先日の無礼は訂正しなさいよね!」
「うんうん! 竹はすごいよ! 強いよ!」
狭野は満面の笑顔で、何のためらいもなく言い切った。
竹は思わず言葉を失った。
からかわれているわけではない。狭野は心の底から自分をすごいと思い、全力で褒めてくれている。
そのことが分かると、竹の頬がほんのり赤くなった。
褒めてもらうというのは、こんなにも嬉しいものなのか。
しかし、その変化を浦が見逃すはずがない。
「なに、竹? ほっぺた赤いわよ。狭野に惚れちゃったのかしら?」
「なっ……馬鹿なこと言わないで! そんなわけないでしょ!」
竹が慌てて言い返す横で、椎根津彦は倒れた熊を見下ろしていた。
「それはそうと、この熊をどうしますか? 持って帰ります?」
浦も熊の巨体を見て首を横に振る。
「さすがに無理よ。こんなの、みんなで引っ張っても運べないわ」
座り込んだままの日臣が少し考え、それならと口を開いた。
「では、首だけ持ち帰ればよいのではないか? 熊を討ち取った証にもなる」
「それがいいね! これで村の人たちも安心するはずだよ!」
狭野が嬉しそうに頷く。
すると日臣は、ごく当然のことのように狭野を見た。
「では若様、首をお切りください」
「え? 私が?」
「そうです。若様が大将なのですから、最後はきちんと締めてもらわなければいけません」
「そ、そうなのか……」
狭野は少しだけ熊の首を見つめたあと、覚悟を決めて剣を握った。
「わかった。首を斬ればいいんだな。えいっ!」
勢いよく剣を振り下ろす。
しかし八歳の狭野の力で、大きな熊の首を簡単に斬れるはずもない。刃は肉へ食い込んだものの、首を落とすにはほど遠かった。
「ううっ……!」
もう一度振り上げ、懸命に剣を叩き込む。
それでもなかなか進まない。
日臣と大久米も手伝おうとはしたが、先ほどまで熊と正面から渡り合っていた二人は、すっかり腰が抜けていた。
「若様、しっかりしてください!」
「わ、わか……がんばれ……」
大久米まで珍しく声を出して応援している。
「わかってるよぉ!」
狭野は汗を流しながら何度も剣を振るったが、一人ではどうにもならない。
とうとう見かねた竹と浦が立ち上がった。
「もう、仕方ないわね」
「三人でやろうよ、狭野」
二人は狭野の左右へ並ぶと、その手に自分たちの手を重ねた。
「せーの!」
三人で力を合わせて剣を振り下ろす。
一度では足りない。
二度、三度と息を合わせ、何度も刃を叩き込んでいく。
そして最後にもう一度、三人が力いっぱい剣を振り下ろしたところで、ようやく熊の首が胴体から離れた。
「はぁ……はぁ……よし!」
息を切らしながら、狭野は地面へ落ちた熊の首を見つめる。
「これでちゃんと討伐したね!」
一行から歓声が上がったのも束の間、誰からともなく異様な気配に気づき、声が止まった。
熊が最初に姿を現した方角、その木々の奥から、さらに三つの黒い影がゆっくりと現れたのである。
先頭にいるのは、先ほど倒した熊よりも明らかに大きな母熊だった。その後ろには、ひと回り小さい二頭の若い熊が付き従っている。
その姿を目にした瞬間、狭野たちはようやく理解した。
自分たちが全員で必死になり、どうにか倒した熊は成獣ではなかったのだ。子供たちの目には十分すぎるほど巨大に映っていたものの、あれでもまだ成長しきっていない若い熊に過ぎなかった。
そして何より、里を荒らし、人を襲っていた熊は一頭ではなかったのである。
「そんな……」
誰かが呟いたが、もはや戦いを続けられる者はいなかった。
日臣と大久米は先ほどの戦いで力を使い果たし、未だその場から立ち上がることすらできない。狭野も荒い息を繰り返し、弓を握る腕にはほとんど力が残っていなかった。
椎根津彦は三頭の熊を見つめながら、自分の考えの浅さを痛感していた。
なぜ、一頭だけだと思い込んだのか。
足跡を見つけ、糞を見つけ、一頭の熊を発見した。それだけで、目的の熊を見つけたのだと決めつけてしまった。周囲に別の熊がいる可能性など、考えもしなかったのである。
策を立てたのは自分だった。
皆をここまで連れてきたのも、その策に自信があったからだ。
だが今は、もう何も思いつかない。
目の前の三頭を相手にできるだけの力も、逃げ切るための策も残されてはいなかった。
血の匂いと先ほどまでの騒ぎに刺激されたのか、巨大な母熊が低く唸った。それに呼応するように二頭の熊も身体を揺らし、次の瞬間には狭野たちへ向かって一斉に駆け出した。
「来る!」
椎根津彦が叫んだ。
しかし、その声が響き終わるよりも早かった。
二頭の熊の首が、ほとんど同時に宙を舞った。
何が起きたのか、狭野たちには理解できなかった。
ただ次の瞬間、首を失った二頭の巨体が地面へ崩れ落ち、その間へ上空から一人の少年がふわりと降り立った。
「那岐様……?」
狭野が呆然と名を呼ぶ。
そこに立っていたのは、伊邪那岐だった。
残された一頭は仲間が一瞬で倒されたことに驚いたのか、踵を返して山の奥へ逃げようとする。
那岐は追いかけることすらしなかった。
ただ逃げる熊へ片手を向け、軽く横へ振る。
青白い閃光が一筋、空気を切り裂いた。
次の瞬間、走っていた熊の首が胴から離れ、その巨体が勢いのまま地面を転がっていった。
ほんのわずかな間の出来事だった。
狭野たちが総出で死に物狂いになってようやく一頭を倒したというのに、那岐は三頭の熊をほとんど一瞬で仕留めてしまったのである。
誰も言葉を発することができなかった。
狭野たちも、伊邪那岐について語られる昔話や伝承を聞いたことはあった。空を飛び、人には真似できない力を操り、かつて大倭壱国の礎を築いた人物であることも知っている。
けれど、普段の那岐はあまりにも穏やかだった。
朝になれば食事を作り、畑や水路で泥まみれになり、文字や算術を教え、時には子供たちの悪戯に呆れてため息をついている。そんな姿ばかりを見ていたため、昔から語られている話のいくつかは、長い年月の間に大げさになったものなのだろうと、どこかで思っていた。
だが違った。
目の前にいる少年は、本当に人ならざる力を持っている。
大倭壱国を築き、今なお神のように語られている伊邪那岐その人なのだと、狭野たちは初めて実感していた。
その那岐が、ゆっくりと振り返った。
いつもの柔らかな表情はなかった。
珍しく硬い顔をしたまま、那岐は子供たちを一人ずつ見回す。
「言うことはあるかい?」
まずい。
誰もが同じことを思った。
先ほど三頭の熊を前にした時とは別の意味で、一同の身体が固まった。
特に竹と浦にとって、那岐はただの保護者ではなく、自分たちが仕えるべき主でもある。二人とも背筋を伸ばしたまま、顔を上げることすらできなかった。
しばらく重苦しい沈黙が続いた後、狭野が一歩前へ出た。
「ごめんなさい、那岐様」
声は震えていたが、それでも逃げずに那岐を見上げる。
「私が言い出したんです。村の人たちを助けたくて、もう犠牲になる人を出したくなくて……だから、熊を退治しようって無理を言いました。みんなは、私を一人で行かせられないから協力してくれただけです」
狭野は仲間たちを振り返ることなく言い切った。
那岐は何も答えない。
ただ狭野を見つめ、それから日臣、大久米、椎根津彦、竹、浦へと順番に視線を移していった。
誰も言い訳をしなかった。
やがて那岐は目を閉じ、大きくため息をついた。
「後で全員に罰を与えます。いいですね」
「……はい」
六人の声が、見事なほど小さく揃った。
那岐はもう一度ため息をつき、それから周囲に転がる熊の亡骸へ視線を向ける。
「それはそれとして、熊を討伐したことは里へ報告しないといけません。みんな、熊の首を槍に刺して持ち帰りますよ」
「はい!」
今度は先ほどとは比べものにならないほど、元気な返事が返ってきた。
那岐はそんな子供たちを見つめながら、また小さく息を吐いた。
本当に、手の焼ける子供たちである。
狭野たちは四頭の熊の首を槍に刺し、どうにか里まで持ち帰った。血に濡れた巨大な首を目にした村人たちは最初こそ息を呑んだものの、人を襲っていた熊が討たれたと知ると、たちまち大きな歓声を上げた。
子供たちは口々に礼を言われ、すっかり英雄扱いされた。しかし、それで那岐からの叱責が消えるはずもない。
後日、約束通り全員に罰が与えられた。
もっとも、那岐が選んだのは痛みを与えるような罰ではない。それぞれが普段もっとも嫌がっていること、あるいは不足していることを徹底的に学ばせるという、子供たちにとっては別の意味で逃げ場のないものだった。
狭野と大久米に課されたのは、数日間にわたる座学だった。
「ええ……今日も文字なの?」
目の前いっぱいに並べられた木簡を見て、狭野は早くも机へ突っ伏した。
隣では大久米も無言のまま木簡を見つめている。表情こそいつもと変わらないものの、手に握った筆がなかなか動かないところを見る限り、こちらも相当つらいらしい。
二人を監督する役目を命じられたのは日臣だった。
「若様、まだ終わっておりません。そこ、もう一度です」
「日臣ぃ……少しくらい休もうよ」
「駄目です。伊邪那岐様から、きちんと教えるよう申しつけられております」
「厳しすぎるよ……」
「俺だって好きでやっているわけではありません!」
日臣自身もただ横で見張っていればよいわけではなかった。狭野と大久米へ文字を教え、間違いを直し、その日の進み具合まで那岐へ報告しなければならない。
自分だけ罰を受けていないように見えて、実際には誰より気の抜けない役目である。
しかも狭野はすぐに気が散り、大久米は分からないところがあっても黙ったまま考え込むため、二人を同時に教えるのは思っていた以上に骨が折れた。
一方、竹と浦に命じられたのは裁縫だった。
「一着だけではありませんよ。こちらにある分も全部仕上げてください」
那岐が静かに布を積み上げると、竹と浦は揃って顔を引きつらせた。
「……全部ですか?」
「全部です」
「那岐様ぁ、熊より強敵なんだけど、これ……」
「熊へ勝手に挑みに行けるくらい元気があるのですから、大丈夫でしょう」
穏やかな笑顔でそう返されてしまえば、二人とも何も言えなかった。
慣れない針仕事を続けた結果、竹と浦の指先には次々と小さな傷が増えていった。何度も針を刺した指には布が巻かれ、数日後には二人とも両手のあちらこちらが包帯だらけになっていた。
「いたっ!」
「また刺したの?」
「浦だって人のこと言えないでしょう!」
「私は三回しか刺してないわよ」
「今日だけででしょう!」
そんな声が家の中に響くたび、那岐は聞こえないふりをしていた。
ただ一人、椎根津彦だけは別だった。
彼には皆と離れた場所で、那岐が直接弓を教えることになった。
弦を引き、狙いを定め、矢を放つ。椎根津彦の腕前は決して高くなく、放たれた矢が的から大きく外れることも珍しくなかった。
それでも那岐は急かさなかった。
「もう一度。今度は矢だけではなく、周りも見てごらん」
「周り、ですか?」
「そう。風向き、足場、距離、それから自分以外の人がどこにいるのか。狙う相手だけ見ていてはいけません」
椎根津彦は言われた通り周囲へ視線を巡らせ、それからもう一度弓を構えた。
しばらく無言で稽古を続けた後、那岐が静かに口を開いた。
「今回、皆の役割を決めたのは君ですね」
椎根津彦の手が止まった。
「……はい」
「よく考えられていました。今の君たちにできることを分け、なるべく熊と正面から戦わないようにもしていた。あの場で考えた策としては悪くありません」
褒められたにもかかわらず、椎根津彦の顔は晴れなかった。
「ですが、私は間違えました」
「そうですね」
那岐は否定しなかった。
「熊が一頭だけだと、勝手に決めつけました。もし伊邪那岐様が来てくださらなかったら……」
その先を言葉にできず、椎根津彦は唇を噛んだ。
那岐は少しだけ間を置いてから、落ち着いた声で続けた。
「策を考える者は、自分が剣を振るわなくても人の命を預かります。『こうすれば大丈夫だろう』という考え一つで、仲間を危険な場所へ向かわせることもある。だから自分の考えが間違っている可能性を、最後まで忘れてはいけません」
椎根津彦は黙って聞いていた。
「敵は本当に一頭なのか。逃げ道はあるのか。予想していないことが起きたらどうするのか。勝つ方法だけではなく、失敗した時にどう生きて帰るかまで考える。それが策を出す者の役目です」
「……はい」
「皆が君の言葉を信じるようになればなるほど、その責任は重くなりますよ」
椎根津彦は強く弓を握った。
熊が三頭現れた時の光景が、まだ頭から離れていない。自分の考えが浅かったせいで、仲間全員を死なせていたかもしれない。
「もう二度と、あんな失敗はしたくありません」
「なら覚えておきなさい。失敗したことより、失敗から何も学ばないことの方が怖いのです」
那岐は新しい矢を一本取り、椎根津彦へ差し出した。
「では、もう一度です」
「はい!」
椎根津彦は矢を受け取り、再び弓を構えた。
皆と同じように叱られると思っていた。もっと厳しい言葉を浴びせられても当然だとも思っていた。
けれど那岐は、ただ責めるのではなく、自分が何を間違え、これから何を学ばなければならないのかを教えてくれている。
それが椎根津彦にはありがたかった。
二度と同じ不覚を取りたくない。その思いがあるからこそ、那岐の言葉は少しも苦ではなかった。
むしろ今の椎根津彦にとって、その教えは救いですらあった。




