九章 神武 三話 晴耕雨読
西暦二百三十八年。那岐が狭野たちと暮らし始めてから、二年の月日が流れていた。
竹と浦は十歳、椎根津彦は九歳となり、狭野、日臣、大久米も八歳を迎えている。
もっとも、八歳になったからといって、狭野に目を見張るほどの成長があったわけではない。強いて挙げるなら、ようやく寝小便をしなくなったことと、何かあるたびに泣きながら那岐の背後へ隠れる回数が、以前より少し減ったくらいだった。
そんな子供たちとの一日は、朝早くから始まる。
まだ狭野たちが眠っている頃には、那岐と竹がすでに起き出し、二人で朝食の準備を始めていた。日臣は外から薪を運んでは竈の火加減を見て、大久米は家の外で黙々と薪を割っている。椎根津彦も眠気など感じていないように、朝から木簡を広げ、一人で文字を追っていた。
その中で、いつまで経っても起きてこない者が二人だけいる。
狭野と浦だった。
浦には自分の寝床がきちんと用意されているにもかかわらず、夜中になるといつの間にか狭野のところへ忍び込み、当たり前のようにその隣で眠ってしまう。狭野も追い出そうとはしないので、朝になると二人並んで布にくるまり、気持ちよさそうに眠っているのがいつもの光景になっていた。
朝食の支度を終えた竹は、そんな二人のもとへ歩み寄ると、腰に手を当てた。
「あなた達、いつまで寝ているの。起きなさい!」
「んん……まだ眠い……」
「あとちょっとだけぇ……」
布の中から似たような声が返ってきたものの、竹がそれで許すはずもない。
「駄目よ。朝ご飯が冷めるでしょう」
竹は容赦なく布を引き剥がし、ぐずる二人を半ば強引に起こしていく。これもまた、この家ではすっかり毎朝の光景となっていた。
ようやく全員が揃い、朝食を囲んでいると、椎根津彦がふと思い出したように那岐へ顔を向けた。
「伊邪那岐様。木簡を読んでいて気になったのですが、大陸では『箸』というもので食すとあります。箸とは、どのようなものなのでしょうか?」
「ああ、あれね」
那岐は納得したように頷くと、少し考えてから立ち上がった。
「便利な道具だよ。せっかくだから使ってみるかい?」
そう言って台所の奥へ向かい、しまってあった細長い棒を何組か持って戻ってくる。それを一本ずつ組にして、子供たちの前へ配っていった。
「これが箸。二本をこうやって持って、片方をあまり動かさずに、もう片方を指で動かすんだ」
那岐は実際に箸を持ち、食べ物をつまんで見せた。
「持ち方はこうだよ。私の手をよく見て、真似してごらん」
子供たちは揃って箸を手に取ったものの、初めて扱う道具だけに思うようには動かない。竹は眉間に皺を寄せながら慎重に指を動かし、日臣も何度か落としながら真面目に那岐の持ち方を真似ていた。大久米は太い指で小さな箸を持て余し、椎根津彦は食べることよりも、どうすれば効率よく動かせるのかを確かめるように指先を眺めている。
その横で、狭野と浦だけは早々に正しい持ち方を諦めていた。
二人とも箸をまとめて拳で握り、そのまま食べ物へ突き刺して口へ運んでいる。
「ちょっと、違う違う」
那岐は思わず苦笑しながら二人の手元を指さした。
「そんな持ち方じゃないってば。ほら、ちゃんと私の手を見て」
「これでも食べられるよ?」
「食べられるけど、箸を使う意味がないでしょう」
「えー……」
狭野が露骨に面倒そうな顔をすると、隣の浦まで同じような表情を浮かべた。
「ちゃんと覚えなさい。二人とも」
那岐に言われ、狭野と浦は渋々箸を持ち直す。
けれど指先は思うように動かず、食べ物は何度も器へ落ちてしまう。そのたびに二人は顔を見合わせて不満そうに口を尖らせ、それでも那岐に見張られながら、どうにか正しい持ち方を真似し続けるのだった。
食事を終えると、一行は午前中の学びのため田へ向かった。今は耕作地をさらに広げるため、既存の水路を延ばす作業を進めているところだった。
那岐が地面に描いた簡単な図を示しながら、水をどこから引き、どの程度の傾斜をつければ田へ流れ込むのかを説明すると、椎根津彦はすぐそばまで寄って熱心に耳を傾けた。
「ここから水を引くなら、こっちを少し低くした方がいいんじゃないですか?」
「うん。どうしてそう思ったんだい?」
「こっちの方が土地が低いからです。そのまま掘ると、途中に水が溜まりそうな気がします」
那岐は椎根津彦が指した先へ目を向け、小さく頷いた。
「よく見ているね。それなら、実際に水を流した時にどうなるかも考えてみようか」
「はい!」
椎根津彦は嬉しそうに返事をすると、今度は水路の予定地を行ったり来たりしながら地面を確かめ始めた。まだ九歳とは思えないほど熱心で、気になる場所を見つけるたびに那岐のところへ戻ってきては、自分なりの考えを伝えてくる。
一方、日臣と大久米は余計な口を挟むことなく、那岐から言われた通りに土を掘っていた。日臣は何事にも真面目で、一度教えられたことを忘れないよう何度も手順を確認し、大久米は黙々と鍬を振るい続ける。その体格と力は八歳にしてすでに同年代より頭一つ抜けており、掘り進む速さでは日臣を上回っていた。
その様子を少し離れた木陰から、竹と浦が並んで眺めている。
二人は最初から今日は見学すると宣言しており、土にまみれて働くつもりなどないらしい。
「いいなぁ……」
そんな二人を見つめていた狭野が、ぽつりと呟いた。
「僕も今日は見てるだけじゃ駄目?」
鍬を持ったまま、期待を込めて那岐を見る。
しかし答えるより早く、木陰にいた竹がぴしゃりと言った。
「駄目よ。狭野、これはあなたのための学びでしょう? 伊邪那岐様に甘えすぎよ。ちゃんと受けてきなさい」
「でも竹たちは見てるだけじゃないか」
「私たちはいいの」
「ずるいよ!」
「ずるくありません」
まるで取り付く島もない。狭野は今度こそ那岐なら助けてくれるのではないかと顔を向けたが、その期待もあっさり裏切られた。
「竹の言う通りだね。狭野はこっち」
「えぇ……」
「ほら、手が止まってるよ」
逃げ道を塞がれた狭野は肩を落とし、渋々鍬を握り直した。
しばらくして作業の手順が固まり、子供たちだけでも進められるようになると、那岐は竹と浦を連れて家へ戻った。
もっとも、二人を休ませるためではない。
「じゃあ、続きをやろうか」
那岐が取り出したのは針と糸、それに練習用の布だった。
それを見た途端、竹と浦の顔が揃って曇る。
「また裁縫ですか……」
「私、外で見学していた方がよかったかも」
「そう言わないの。これも必要なことなんだから」
武芸であれば競うように取り組む二人も、裁縫となると途端に腰が重くなる。特に浦は、針を持たせれば縫い目が右へ左へと好き勝手に走るため、本人もすっかり苦手意識を持っていた。
「でも私たち、護衛になるんですよね? 服を縫うことまで必要なんですか?」
浦が不満そうに尋ねると、那岐は少し考えてから答えた。
「では、護衛する相手の身の回りの世話ができなかったとしましょう。当然、別の女性が侍女としてそばにつくことになります」
「はい」
「その侍女が暗殺者だったら、どうしますか?」
二人の手が止まった。
竹と浦は顔を見合わせたものの、すぐには言葉が出てこない。
「……それは」
「困るでしょう?」
那岐は何でもないことのように笑いながら、竹の持つ布を指先で直した。
「普段から身の回りの世話くらいできるようになっていなければ、守れるものも守りきれませんよ。針仕事も料理も、護衛に必要な技術だと思って覚えてください」
かなり強引な理屈ではあったが、二人には意外と効いたらしい。竹は納得したように背筋を伸ばし、浦も渋々ながら針を持ち直した。
そんな二人を見ながら、那岐は改めて子供たち一人一人のことを考えていた。
狭野には、今のところ目を見張るような才能は見つかっていない。学問が特別得意というわけでもなく、武芸に秀でているわけでもないうえ、少々飽きっぽく、夢中になって取り組めるものもまだ見つけられていない。良くも悪くも、年齢相応の普通の子供だった。
ただ、それを欠点だとは那岐は考えていなかった。
日臣から「若様」と呼ばれ、周囲から特別な存在として扱われても、それを当然のこととは思っていない。身分の違いや生まれを理由に誰かを見下すこともなく、大久米や椎根津彦に対しても最初から同じように接している。
人を受け入れる器という意味では、六人の中でも狭野がもっとも大きいのかもしれない。
日臣は正反対と言ってよかった。何事にも真面目で、学ぶための努力を惜しまない。教えれば教えただけ吸収しようとし、狭野の近習として立派な武人になるのだという目標も幼いながら明確に持っている。
ただ、その真面目さと武人の家系に対する誇りが強すぎるところは、少し気に掛かった。正しいと信じたものへ一直線に進めるのは長所だが、時には周囲が見えなくなる危うさもある。今のうちから、物事には一つではなく幾つもの見方があることを教える必要があるだろう。
大久米は同年代でもっとも体が大きく、力も強い。それでいて口数は少なく、自分の考えを言葉にするのはあまり得意ではなかった。
しかし、一度引き受けたことは途中で投げ出さない。命じられたことを素直に受け止め、黙って最後までやり遂げる粘り強さがある。狭野に対しては以前から何か特別な恩義を感じているようで、それが行動の端々に表れていた。
椎根津彦については、何より今が楽しそうだった。
学ぶという機会そのものが嬉しくて仕方がないのだろう。文字を与えれば読み、計算を教えれば自分から先へ進み、治水や農作業でも理由を知りたがる。まさに水を得た魚という言葉が似合っている。
身体能力には恵まれておらず、武芸では他の子供たちに遅れを取っているものの、狭野に救われ、この家へ来てからの日々を心から楽しんでいることだけは間違いなかった。
そして、目の前で黙々と針を動かしている竹。
六人の中では年長であることもあり、誰よりもしっかりしている。責任感が強く、皆をまとめようとする姿勢も頼もしい。
ただし、少々自分にも他人にも厳しすぎる。
狭野への態度など、その典型だった。甘やかしてはいけないという考えそのものは間違っていないのだが、八歳の子供へ十歳の少女がそこまで厳しくする必要があるのかと、那岐でさえ思うことがある。
その隣では、浦が早くも集中力を失いかけていた。
器用で、人懐こく、何をさせても覚えるのは早い。それなのに楽しいことを見つけるとすぐそちらへ流れてしまうため、放っておけば一番脱線するのも浦だった。
とりわけ狭野のことを弟のように可愛がっており、暇さえあれば隣にいる。夜中に狭野の寝床へ潜り込むのも、もはや珍しいことではない。
「浦、手が止まっていますよ」
「あっ」
「今、狭野のことを考えていたでしょう?」
「えへへ……分かります?」
「分かります」
那岐は呆れながらも、思わず笑ってしまった。
こうして考えてみれば、本当に癖の強い子供ばかりである。
同じように教えればいい子など一人もいない。狭野には興味を持てるものを探し、日臣には力を抜くことを覚えさせ、大久米には少しずつ自分の考えを言葉にする機会を与える。椎根津彦には思う存分学ばせつつ身体も鍛え、竹には肩の力を抜かせ、浦にはまず一つのことを最後まで続けさせなければならない。
毎日、誰に何を教え、どこまで任せ、どこで叱り、どこで褒めるべきかを考えるだけでも苦労は尽きない。
それでも那岐にとって、その苦労は決して嫌なものではなかった。
長い年月を生きてきた中でも、これほど誰かの成長だけを考えて一日を過ごすことは、そう多くなかったからだ。
「那岐様、できました」
竹が差し出した布には、多少不揃いながらもしっかりとした縫い目が並んでいる。
「うん。竹はずいぶん上手になったね」
「本当ですか?」
「本当ですよ」
褒められた竹がわずかに頬を緩める。その隣で浦が慌てて自分の布を隠したのを見て、那岐はまた小さく笑った。
手の掛かる子供たちに毎日振り回されながらも、こんな暮らしも悪くない。
むしろ那岐は、いつの間にかこの騒がしい日々を心から楽しむようになっていた。
晴れた日は外へ出て実地で学び、雨の日には家の中で文字の読み書きや算術をはじめ、さまざまな知識を学ぶ。それが、いつしか彼らの日常になっていた。
座学でもっとも優秀なのは椎根津彦だった。文字も算術も覚えが早く、教えたことをただ記憶するだけではなく、分からないことがあれば自分から尋ねてくる。どの分野にも強い興味を示し、新しいことを教わるたびに目を輝かせる姿は、まるで水を得た魚のようだった。
その次に成績が良いのは日臣である。椎根津彦ほど物覚えが早いわけではないものの、分からなければ何度でも繰り返し、教えられたことはその日のうちに身につけようと努力する。その真面目さもあって、座学では安定して良い成果を残していた。
一方、晴れた日の学びは田畑での作業が中心となる。田を耕すだけではなく、ため池の造り方や水路の引き方、雨が降った際にどのように水を逃がすのかといった治水についても、実際に手を動かしながら学ばせていた。
そんな日々が続く中、竹と日臣から武芸も学びたいという申し出があった。
意外なことに、普段は自分から何かを願い出ることの少ない大久米まで二人に加わったため、那岐も最後には折れ、外での学びの一つとして武芸を取り入れることになった。
もっとも、那岐自身が彼らに武芸を教えることはほとんどなかった。鍛錬が始まっても、ときおり様子を見に来て助言をする程度で、姿を見せない日の方が多い。
それでも竹と浦が何度も頼み込んだため、ごくたまにだけ二人を同時に相手にすることがあった。
「伊邪那岐様、今日は本気でお願いします」
「二人一緒なら、少しくらい本気を出してくれてもいいでしょう?」
「そう言われてもねえ……」
那岐にしてみれば、二人ともまだ十歳の子供でしかない。
竹が鋭く槍を突き出せば半歩だけ身をずらし、続けて浦が横から斬り込んでも、その手首を軽く払うだけで軌道を逸らす。二人が左右から同時に仕掛けても、那岐の身体に触れることすらできなかった。
「ほら、二人とも相手ばかり見すぎですよ」
「くっ……!」
「もう一回!」
何度挑んでも結果は同じだった。
二人とも自分たちの武芸にはそれなりの自信を持っていただけに、ほとんど子供扱いされたことがよほど悔しかったらしい。しかし同時に、これが倭国で神とまで崇められている者の実力なのだと、以前にも増して那岐へ尊敬の念を抱くことにもなった。
もっとも、那岐が武芸の稽古にあまり顔を出さないのは、単に戦う術を積極的に教えたくないからというだけではない。
子供たちが外で鍛錬している間は、次に何を教えるのかを考えたり、文字や算術に使う木簡を用意したりと、那岐にとって貴重な準備の時間でもあった。一人一人得意なものも苦手なものも違う以上、同じものを同じように教えていればよいわけではない。
武芸の実力だけを見れば、竹と浦が頭一つ抜けていた。
二人の力はほぼ互角だったが、得意とする武器と戦い方は大きく異なる。竹は槍を得意とし、必要以上に動かず、相手の隙を見つけて正確に突きを放つ。一方の浦は剣や短剣を好み、素早く間合いを詰めて相手を翻弄する戦い方を得意としていた。
さらに二人とも弓の扱いにも慣れている。
その下で競い合っているのが日臣と大久米だった。
大久米は同年代の中でもっとも身体が大きく、その力も強い。技そのものはまだ粗いものの、一度まともに打ち合えば日臣でも押し負けかねなかった。
それでも日臣は退かなかった。
「やあっ!」
木刀と木刀がぶつかり、乾いた音が響く。
大久米の一撃を受け止めた日臣は歯を食いしばりながら踏ん張り、そのまま押し返そうとする。力では大久米に分がある。それが分かっているからこそ、足運びや打ち込む位置を工夫しながら、どうにか互角に渡り合おうとしていた。
そして大久米との稽古だけでは飽き足らず、機会を見つけては竹や浦にも勝負を挑んでいる。
しかし、こちらはまだ一度も勝てたことがなかった。
「もう一度だ!」
地面に尻餅をついた日臣が立ち上がると、竹は小さく息を吐きながら槍を構え直した。
「動きに無駄が多いのよ。自分のことばかり考えないで、相手の動きもちゃんと見なさい」
「見てるって!」
「見ているつもりになっているだけよ」
竹の言葉に日臣が悔しそうに口を結ぶ。
その横では、浦が楽しそうに笑っていた。
「あはは、大丈夫よ。私たちはお姉さんだからね。みんなまとめて守ってあげるわよ~」
「それじゃ駄目なんだ!」
「えー、いいじゃない。守ってもらえば」
「僕は若様を守る側になるんだ!」
むきになって言い返す日臣を見て、浦はますます楽しそうに笑う。
狭野と椎根津彦の武芸はというと、残念ながら二人ともそれほど上達していなかった。
木刀や槍を持たせても、日臣たちほど熱心になれない狭野と、頭では理解していても身体が思うようについてこない椎根津彦では、どうしても差が開いてしまう。そのため途中からは剣や槍ばかりにこだわらず、弓の鍛錬も取り入れることになった。
弓については竹と浦が二人とも得意だったため、那岐に代わって二人が年下の子供たちへ教えることも多い。
日臣も弓を学んではいたものの、やはり一番熱を入れているのは木刀や槍を使った打ち合いだった。大久米に負けまいと食らいつき、その合間には懲りもせず竹や浦へ勝負を挑む。
挑んでは負け、注意されてはまた挑む。
どれほど悔しくても、負けたという事実から目を逸らすことだけはしなかった。
今はまだ届かない。
竹にも浦にも、一度として勝てていない。
それでも日臣は木刀を握り直しながら、いつか必ず二人に追いつき、そして追い越してみせるのだと心の中で固く誓っていた。
外での学びを終えた日の夕食は、いつも以上に腹が減る。子供たちは待っていましたとばかりに料理へ手を伸ばし、一斉に口へ運んだ。
だが、しばらくすると、一人、また一人と表情が曇っていった。
「浦……お前、またやったな……」
日臣が恨めしそうな目を向けると、浦は箸を止め、自分でも料理を口にして首を傾げた。
「え、あー……おっかしいなぁ」
「これは……どうやったら、ここまで不味くなるのですか……」
椎根津彦まで困惑した顔で椀の中を見つめている。
那岐は何も言わなかった。静かに目を閉じ、心を殺して、ただ黙々と食べ続けている。
「せっかく楽しみにしてたのに……」
狭野が今にも泣きそうな顔で呟くと、竹は申し訳なさそうに眉を寄せた。
「少し目を離した時には、もう手遅れだったのよ」
その隣では、大久米だけが普段と変わらぬ無表情のまま、何も言わず料理を口へ運び続けていた。
「どうして言われた通りに作らないんだよ!」
「ちゃんと言われた通りにやったよー!」
「これのどこがだよ!」
日臣と浦が言い合う中、狭野は助けを求めるように竹を見上げた。
「たけぇー……他に何かない?」
竹は一度だけ台所の方へ視線を向けた。しかし、残っている食べ物などないことを確認すると、すぐに狭野へ向き直り、容赦なく首を横に振った。
「ないわ。今日はこれだけよ。諦めなさい」
「そんなぁ……」
狭野はしょんぼりと肩を落とし、目にうっすら涙を浮かべながら、覚悟を決めて再び箸を動かした。




