九章 神武 一話 狭野と双子
西暦二百三十六年。
出雲が大倭壱国へ国を譲ってから、すでに十七年の歳月が流れていた。
日向の地で穏やかな暮らしを送っていた伊邪那岐のもとへ、その日、久しく顔を見せていなかった月読が訪ねてきた。
しかも一人ではない。月読の後ろには、年の頃が同じに見える二人の少女が並んでいた。
「久しぶりだね、月読」
「はい。父上もお変わりないようで何よりです」
久々に息子の顔を見た那岐は素直に再会を喜び、旅の疲れもあるだろうと三人を住居へ招き入れた。
ちょうど一緒に暮らしていた狭野もその場にいたものの、突然現れた月読と二人の少女が何者なのか分からず、口を挟むこともできないまま黙って様子をうかがっていた。
那岐は月読たちのために食事を用意し、久しぶりに会った息子と言葉を交わしながら、まずは腹を満たさせた。
少女たちも旅の途中では十分に休めなかったのか、最初こそ緊張した面持ちだったが、温かい食事を口にするうちに少しずつ表情を和らげていく。
一息ついたところで、月読が二人の少女へ視線を向けた。
「父上、この子たちを紹介しておきます」
二人はそれを合図に姿勢を正した。
「こちらが姉の竹。そして妹の浦です。二人とも八歳になります」
「竹です」
「浦です」
姉の竹はきちんと背筋を伸ばし、幼いながらも隙のない態度で頭を下げる。一方の浦は姉ほど堅苦しくはなく、那岐や狭野の顔を興味深そうに眺めながら頭を下げた。
月読によれば、二人は自分のひ孫にあたるのだという。
月読の孫であり、現在壱岐を治めている当主と、その側室との間に生まれた双子だった。
しかし二人の母親と正室との折り合いは悪く、やがてその確執は、まだ幼い竹と浦の身にまで及ぶようになった。
命すら危うい状況となったため、母親は二人を壱岐から離し、宇佐にいた月読のもとへ預けたのである。
幼くして自分たちの命が狙われる経験をした竹と浦は、誰かに守ってもらうだけでは嫌だと考えるようになり、自ら身を守るために武芸を学ぶことを望んだ。
月読としては八歳にも満たない子供に武芸など教えたくはなかったが、二人の意思は固かった。
何も知らないまま怯えて暮らさせるよりはよいだろうと考え、結局は自ら指南することになった。
その後、二人の母親が亡くなると、竹と浦にとって月読のいる宇佐が実質的な居場所となった。
だが月読は、そのことを手放しで喜ぶことができなかった。
武芸を覚えた竹と浦は、ますます鍛錬に熱中するようになり、それ以外のことにはほとんど興味を示さなくなったのである。
そこで月読は、二人に新しい環境を与えようと考えた。
日向で暮らしている父、伊邪那岐のもとへ二人を預け、那岐の護衛という名目で役目を与える。
それならば竹と浦も納得するだろうし、武芸以外のことにも目を向ける機会になるかもしれない。
そう考え、わざわざ二人を連れて日向までやってきたのであった。
月読から一通り事情を聞いた那岐は、すぐには何も言わなかった。
ただ二人の少女を眺め、その後で月読の顔を見る。
護衛を任せたいというだけなら、わざわざ月読自身が日向まで連れてくる必要はない。
何か別の意図がある。
そう察したものの、竹と浦がいる前で問いただすことはせず、その日は旅の疲れを取らせることにした。
「今日はもう休むといいよ。話はまた明日にしよう」
那岐は双子のために寝所を用意し、狭野も一緒に休ませた。
三人の子供たちが眠りについたことを確かめてから、那岐は静かに寝所を離れ、月読の待つ場所へ戻ってくる。
そして向かいへ腰を下ろすと、少し困ったように笑った。
「あの子たちを預かるのはいいけど、どうしてほしいの?」
やはり気づかれていたかと、月読は小さく息を吐いた。
「あの子たちは、命を狙われた経験から武芸にしか興味がありません。しかも女です。このまま成長させてよいものか、将来が心配になってしまいまして。今のうちに何とかしたくて、父上にお願いしに伺いました」
「武芸の鍛錬は私は好まないし、そもそも私に預けても、月読とあまり変わらないと思うよ?」
「そこはどうでもよいのです」
月読は真顔で言い切った。
「どうにか、もう少し女子らしく育ててもらえないものかと」
「んー……」
那岐は困ったように首を傾げた。
長い年月を生きてきた自分ではあるが、女子らしく育ててほしいなどという頼みを受けた経験はない。
「とにかく、普通に育ててみるよ。女子らしくと言われても困るけど、私のやり方でいいのなら」
「助かります。時間と環境が、あの子たちの変化につながればよいのですが……」
月読の声音には、ひ孫たちを心から案じていることが表れていた。
幼い頃から命を狙われ、自分を守ることばかり考えて生きてきた二人に、もっと普通の子供として過ごす時間を与えてやりたいのだろう。
那岐はそんな息子を眺めながら、ふっと笑みを浮かべた。
「月読も苦労しているのだねー」
「私も父上と同じく引退したいものです」
「それは大変そうだね」
「他人事のように言わないでください」
二人は顔を見合わせ、そろって笑った。
それからしばらく、竹や浦のことだけではなく、昔の出来事や離れて暮らしていた間の話に花を咲かせた。
長い年月を生きる親子にとっても、こうして何の役目も背負わず、ただ昔を懐かしみながら語り合える時間は久しぶりのことであった。
翌日、竹と浦の双子は、那岐と狭野の前に並んで座っていた。
那岐は二人の顔を順に見ながら、いつもの穏やかな調子で口を開く。
「いいかい。ここにいる者は、学びを受けないといけません」
その言葉を聞くなり、竹は背筋を伸ばした。
「私に学びは必要ありません。那岐様への護衛という任務があります!」
八歳とは思えないほど迷いのない言葉だった。自分がここへ来た理由をきちんと理解し、その役目を果たそうとしているらしい。那岐は感心しながらも、あえて困ったように首を傾げる。
「それなら、宇佐へ戻ることになってしまうかな」
「……え?」
竹だけでなく、隣にいた浦の表情まで固まった。
二人にとって、それは単に任務を失うという話ではなかった。
宇佐を離れ、ここへ連れて来られた自分たちが必要とされていないのなら、また居場所を失ってしまうのではないか。そんな不安が一瞬にして二人の顔に浮かんだ。
那岐はその変化を見逃さなかったが、すぐに優しく続ける。
「私は基本的に護衛を必要としていません。でも、ここで狭野と一緒に学ぶというのなら、護衛をしてもらってもいいよ」
竹は困ったように眉を寄せた。
「でも、護衛に学びは必要ありません」
「竹、学べるならいいじゃない。こんなに知識のある人から教えてもらえることなんて、滅多にないんだし」
浦は気楽そうにそう言ったが、竹は納得できない様子で首を振る。
「必要ないでしょ、護衛の任務には」
「でも学ばないと、その護衛の仕事をやらせてくれないんだよ」
「…………」
浦の言葉に、竹は返す言葉を失った。
那岐はそんな二人のやり取りを眺めながら、小さく笑う。
「何事も経験だよ。今は必要ないと思っていても、将来きっと役に立つことがあるさ」
しばらく黙って考えていた竹は、やがて不満そうに唇を尖らせながらも頭を下げた。
「……わかりました」
どうやら完全に納得したわけではないらしい。それでも、ここに残るためには受け入れるしかないと判断したようだった。
そんな双子を、狭野は少し離れたところから黙って見ていた。
自分より体も大きく、はっきりとものを言う二人は、最初のうちはどこか怖く見えた。とくに竹は何かにつけて注意してきて、狭野がだらしないことをすればすぐに叱った。
一方の浦はまるで弟ができたかのように狭野を可愛がり、何かあればすぐに構いたがった。
二人ともずいぶんと個性的ではあったが、狭野に敵意を向けているわけではない。それが分かると、怖さは少しずつ薄れていった。
結局、三人が打ち解けるまでに、それほど長い時間はかからなかった。
ある朝、いつもなら真っ先に起きてくる狭野が、いつまで経っても寝床から出てこなかった。
竹が不審に思って様子を見に行くと、狭野は毛布にくるまったまま、妙に落ち着かない様子で身を縮めている。
「狭野、起きなさい。……これ、どうしたの?」
「な、なんでもない!」
慌てて毛布を押さえる狭野だったが、その仕草がかえって竹の疑念を深めた。
竹が毛布の端をつかんでめくると、狭野は必死に隠そうとしたものの間に合わず、濡れた寝床を見られてしまう。
しばらく呆然としていた狭野の顔が、みるみる真っ赤になった。
「ち、違うもん……」
言い訳しようとしても言葉が続かず、とうとう目に涙が浮かぶ。
面白そうに成り行きを眺めていた浦も、狭野が本気で泣き始めると、さすがに困ったように竹を見た。
「もう竹、そんなに言わなくてもいいじゃない」
「別に責めてないでしょ。仕方ないわね。狭野、着替えなさい。毛布は干して、服は洗いに行くわよ」
「自分で洗う!」
涙を拭いながら狭野が言い張ると、竹は一瞬だけ目を丸くした。
狭野は誰かに洗ってもらうことのほうが恥ずかしかったらしく、着替えを済ませると濡れた衣を抱え、そのまま水場へ向かってしまった。
水辺にしゃがみ込み、狭野は見よう見まねで衣を水に浸しては懸命にこすったが、力の入れ方も洗い方もよく分かっていない。
しばらく様子を見ていた竹は、とうとう見かねて手を伸ばした。
「貸しなさい。そんな洗い方じゃ落ちないでしょ」
「やだ! 自分でする!」
狭野は衣を抱え込んで竹の手から逃げる。竹も譲らず、今にも取り上げそうになったところで、隣にしゃがんだ浦が二人の間へ手を伸ばした。
「じゃあ三人でやればいいじゃない」
「三人で?」
「そう。狭野が洗って、竹が教えて、私も手伝う。それなら狭野が自分で洗ったことにもなるでしょ?」
狭野は少し考えてから、渋々ながら頷いた。
結局、三人は水辺に並んでしゃがみ込み、竹に洗い方を教わりながら衣を洗うことになった。
狭野はまだ鼻をすすっていたものの、先ほどまでの恥ずかしさは少しずつ薄れてきたらしい。
しばらくして、狭野は左右に座る二人の顔を何度も確かめると、小さな声で念を押した。
「……那岐様には内緒にしててね」
これ以上、誰にも知られたくない。それだけは狭野にとって絶対に譲れないことだった。
「いちいちおねしょまで報告しないわよ」
竹が呆れたように答えると、浦は楽しそうに笑った。
「明日もおねしょしたら、また三人で洗濯だねー」
「もうおねしょしないもん……」
狭野はむっと頬を膨らませながら、濡れた衣をこれまで以上に一生懸命こすり始めた。
那岐にとって、狭野、竹、浦の三人の教え子は、揃いも揃ってなかなかの問題児だった。
三人とも文字の読み書きにほとんど興味を示さず、木簡を前に座らせても、少し目を離せば別のことを始めてしまう。
狭野は外を眺め、浦は竹にちょっかいを出し、竹も竹で真面目に取り組んでいるように見えて、気づけば武具の手入れを始めている始末だった。
田へ連れ出して稲の育て方を教えたり、水路へ赴いて治水の仕組みを説明したりする実地の学びであれば、それなりに楽しそうについてくる。
しかし、それも長くは続かない。目新しいものへの興味が薄れれば、三人は示し合わせたように遊び始め、隙さえあれば学びの時間そのものから逃げ出そうとした。
那岐にとって、これは思いのほか難しい経験だった。
これまで那岐のもとで学んできた者たちは、皆、自ら教えを求めてやって来た者ばかりである。
そもそも那岐自身が進んで誰かを教育してきたわけではなく、知りたい、学びたいと願う子供たちに請われ、その求めに応じて知識を授けてきたに過ぎなかった。
そのため、かつての教え子には優秀な者が多かった。
なかでも日巫女、大年、少彦名の三人は際立っており、一つ教えればそこから二つ三つと疑問を見つけ、那岐が休もうとしても離してくれないほど質問を浴びせてきたことさえある。
それに比べれば、今目の前にいる三人はまるで正反対だった。
教えれば逃げ、呼び戻せば渋々座り、ようやく話を聞き始めたと思えば、しばらくすると誰かが欠伸をする。
知識を求めて追いかけてきた昔の教え子たちとは違い、今度はこちらから追いかけなければならない。
そんな三人を前に、那岐は困ったように笑いながら肩を落とした。
「これは大変だ~」
風を起こすことも、炎を操ることも、人の目を欺くことさえできるというのに、勉強嫌いな子供を自ら机へ向かわせる妖術だけは持ち合わせていない。
もしそんな術があるのなら、今すぐにでも覚えたいものだと、那岐は心の底から思うのだった。




