八章 国譲り 十二話 泣き虫皇子と神々
五十猛は山門へ向かっていた。
その地には、生き神とまで呼ばれる伊邪那岐が暮らしている。
かつて五十猛自身も妖気の扱いを教わり、兄弟たちもまた、それぞれの迷いの中で那岐から道を示されてきた。
自分ではどうすることもできないことでも、あの人なら何か答えを見つけてくれるかもしれない。そう考えた末の訪問だった。
山門へ入ると、那岐の居場所を探すのに苦労することはなかった。長くこの地に暮らしているだけあって、その名を知らぬ者などほとんどいなかったからである。
教えられた家へ向かい、ようやく懐かしい姿を見つけた瞬間、五十猛は抑えていた気持ちを一気に爆発させた。
「おじい様、お願いがあってきました!」
そう叫ぶなり駆け寄り、那岐の身体を両手でひょいと抱き上げる。
七尺近い巨体の老人が、家へ入ってくるなり目を血走らせ、少年にしか見えない那岐を高々と持ち上げているのだから、傍から見れば何事かと思う光景だった。
突然足が床から離れた那岐は、驚いたように目を瞬かせながら五十猛を見下ろした。
「い、五十猛かい? 久しぶりだね。その……降ろしてくれないかな。ちょっと怖いから……」
ひとまず挨拶を済ませると、那岐は五十猛に茶を勧めた。
勢いのまま山門までやってきた五十猛も、温かい茶を何口か飲むうちにようやく落ち着きを取り戻し、ここへ来た理由を話し始めた。
五十猛は今、日向の国を巡りながら山々に木の実を植えて暮らしているという。
その日向で狭野という御子と知り合い、時折山へやって来る彼の話を聞くようになったらしい。
狭野は兄たちとのことや、自分には何ができるのか分からないことなど、胸の内に抱えた悩みを五十猛に打ち明けていた。
五十猛も力になってやりたいとは思ったものの、木を植えることならともかく、一人の子供がこれから進む道を示してやるとなると、自分にはどうにも荷が重い。
そこで散々悩んだ末に思い浮かんだのが、祖父の那岐だった。
「おじい様なら、あの子に道を示してやれると思ったんです」
そこまで話を聞いた那岐は、すぐには答えず、少しばかり複雑そうな表情を浮かべた。
五十猛の頼みなら応えてあげたいし、狭野もまた那岐にとって大切な子孫の一人である。日向へ向かうこと自体に異存はなかった。
ただ、一つだけ気に掛かることがあった。
「でもね、狭野は君が討ち取った瓊瓊杵の子孫なんだよ。五十猛が誰なのか知られたら……何が起きるか分からないよ?」
五十猛は少しも迷わなかった。
「問題ない。もし仇として討たれることになっても、俺は気にしないぞ」
あまりにもあっさりと言い切るものだから、那岐は思わず小さく笑ってしまった。
こうと決めたら真っ直ぐに進み、自分のことなど後回しにしてしまう。
その一途さは幼い頃から少しも変わっていない。
大きな身体で豪快に笑いながら、肝心なところでは驚くほど迷いがないところなど、父親の須佐之男によく似ていた。
そんな五十猛を見ていると、那岐にはどこか懐かしく、そして微笑ましく思えた。
「わかった。とりあえず、私も日向へ行ってみるよ。あとは狭野と話してから、流れで決めてもいいかな?」
「もちろんです!」
五十猛は待ってましたとばかりに顔を輝かせ、大きく頷いた。
その夜、那岐と五十猛は久しぶりに昔話へ花を咲かせた。
五十猛が出雲を離れてから、倭の各地を巡りながら木の実を植え続けてきた日々の話を聞き、那岐も穏やかな気持ちで耳を傾けていた。
本来、五十猛は強い妖力と不老長寿の力を受け継いでいた。
しかし長い年月にわたり、自らの限界を越えて妖力を植林に使い続けたことで、その身体には急速な老いが現れていた。
那岐も以前から何度か無理をしないよう忠告していたものの、五十猛が気に留める様子はない。
「私はもう十分に長く生きました。これからは普通の人間として生きて、普通の人間として死にたいのです」
静かにそう語る五十猛を前に、那岐はそれ以上何も言えなかった。本人が望んで選んだ生き方である以上、無理に止めることもできない。
那岐にできることは、ただその選択を見守ることだけだった。
日向の地で、狭野はひとり浮かない顔をしていた。
ここ数日、いつも山で会っていた花咲じい様の姿が見えない。
何も告げずにいなくなってしまったことが寂しくて、山道の脇に座り込んでいるうちに、とうとう堪えきれず涙がこぼれてきた。
ちょうどその頃、日向へ到着した那岐は狭野を探して山へ入っていた。
しばらく歩いていると、身なりのよい服を着た子供が道端でうずくまり、肩を震わせているのが見える。
五十猛から聞いていた話を思い出し、那岐はその子の前まで歩み寄った。
「君が泣き虫皇子の狭野かい?」
狭野は涙を拭いながら顔を上げた。
「泣き虫皇子じゃないもん……。お兄さんは?」
「私は伊邪那岐。君の先生をすることになったんだ」
「先生?」
思いもよらない言葉だったのか、狭野は泣くことも忘れて目を丸くした。那岐はそんな様子がおかしくて、柔らかく笑う。
「君の父上とも少しお話をしてね。しばらく君の傍にいていいことになったんだ」
「お勉強ばかりはやです……」
「ふふっ。まだ何をするかも言ってないよ」
那岐は困ったように笑いながら、狭野の頭を優しく撫でた。
少し離れた桜の木の下では、五十猛が二人の様子を静かに見守っていた。
泣いていた狭野が那岐と言葉を交わしている姿を見届けると、五十猛の顔には自然と笑みが浮かぶ。もう自分が間に入る必要はないのだろう。
五十猛は声を掛けることもなく、ただ満足そうに二人を見つめていた。




