八章 国譲り 十一話 泣き虫皇子と花咲じい
西暦二百三十五年。出雲が大倭壱国へ国を譲ってから、すでに十六年の歳月が流れていた。
宇佐の地へ、一人の男が招かれていた。
月読である。
彼が伊予へ拠点を移してから四十一年。とうに家督は子供たちへ譲っており、かつて自ら先頭に立って進めていた瀬戸内への進出も、今では次の世代が担うようになっていた。
その間にも大倭壱国連合の勢力は着実に東へ伸び続け、瀬戸内沿岸の国々の多くが連合へ加わっている。
残る大勢力は、三輪山を中心として近畿を治める勢力と、そこからさらに東へ広がる諸国であった。
倭国統一という日巫女の悲願は、長い年月を経て、ようやく終わりが見えるところまで来ていたのである。
そのような時期に月読が宇佐へ呼ばれたのには理由があった。
先月、忍穂耳が病によって亡くなったのである。
長らく宇佐で日巫女を支え、その言葉を外へ伝えていた忍穂耳の死によって、その役目を引き継ぐ者が必要となった。そこで日巫女が選んだのが、弟である月読だった。
宇佐へ到着した月読は、宮の中心にそびえる主祭殿へ案内された。
三階まで造られた祭殿の最上階は、女王日巫女のためだけに設けられた特別な場所である。
かつてであれば限られた重臣たちも日巫女へ直接拝謁することができたが、十数年前からその決まりは改められ、忍穂耳を介して命を受け取る形が取られていた。
そのため月読も、姉と直接顔を合わせるのは久しぶりだった。
案内された部屋へ足を踏み入れ、奥にいる人物へ目を向けた瞬間、月読は言葉を失った。
「……姉上?」
そこにいたのは、記憶に残る日巫女とはまるで違う姿だった。
月読が最後に直接会った頃の姉は、実際の年齢など想像もできないほど若々しく、十八ほどの娘と見紛う姿を保っていた。
ところが今、目の前にいる日巫女は頬が痩せ、肌には皺が刻まれ、髪にも白いものが混じっている。見た目だけなら、還暦を迎えようとしている女に見えた。
それでも実際の日巫女は、すでに九十を越えている。
本来ならば今の姿ですら年齢より若い。しかし何十年もの間、ほとんど変わらぬ少女の姿を見続けてきた月読にとって、その変化はあまりにも大きかった。
月読の表情を見た日巫女は、どこか寂しそうに微笑んだ。
「変わり果てたでしょう」
「姉上……これは、一体……」
「倭国を一つにするためです。そのためなら、私は何を失っても構わないと思っていました」
日巫女は自らの手へ視線を落とした。かつて白く滑らかだった手にも、今では年齢を感じさせる皺が刻まれている。
「ですが、この姿を民の前へ晒すわけにはいきません。人々が見ている日巫女は、歳を取らず、神々の言葉を受け取る存在でなくてはならないのです」
月読はようやく理解した。
なぜ姉が十数年もの間、直接人前へ姿を現さなくなったのか。なぜ忍穂耳が日巫女の言葉を代わりに伝えるようになったのか。その理由が、今になってすべて繋がった。
「姉上、もう妖術を使われてはいけません」
月読の声には、隠しきれない焦りが滲んでいた。
「これ以上は、本当に命に関わります。倭国を一つにすることより、姉上が生きておられることの方が大切でしょう」
「わかっています」
日巫女は穏やかに答えたものの、その瞳から意思の強さが失われることはなかった。
「けれど、私はまだ逝くわけにはいきません。三輪山が残っています」
「……まだ、続けられるおつもりなのですね」
「はい。ここまで来たのです。あと少しなのですよ、月読」
その言葉を聞き、月読はそれ以上強く止めることができなかった。
姉がどれほど長い年月を、この目的のために費やしてきたのかを誰よりも知っている。
筑紫の一国から始まった大倭壱国は、幾度もの争いと犠牲を乗り越え、今や瀬戸内にまで勢力を伸ばしていた。
日巫女は月読をまっすぐ見つめる。
「あなたを呼んだ理由は、もうわかっていますね」
「忍穂耳が務めていた役目を、私に引き継げと?」
「はい。これからは、あなたが私の言葉を外へ伝えてください。私に代わって人々の前に立ち、必要な命を伝えるのです」
月読はしばらく返事をしなかった。
忍穂耳もまた、自分より先に老い、病に倒れ、そして逝った。
かつて共に歩いていた者たちは、一人、また一人と姿を消してゆく。それでも自分だけは若い姿のまま、残された者を見送らなければならない。
それは不老の身に生まれた月読が、長い年月の中で何度も味わってきた苦しみだった。
「皆、先に老いてゆく……私は、見送ってばかりですね」
思わず漏れた言葉に、日巫女は何も答えなかった。
月読は時折、老いることのない自らの身体を呪いたくなることがあった。
それでも今、目の前にはまだ果たすべき役目を捨てようとしない姉がいる。
やがて月読は静かに頭を下げた。
「……承知いたしました。これからは私が、姉上のお言葉を伝えます」
「ありがとう、月読」
日巫女が微笑む。
その笑顔には確かに、かつての姉の面影が残っていた。
月読は胸の内に消えない不安を抱きながらも、姉の強い意思を尊重し、その命に従うことを決めた。
筑紫の日向の地、その山あいで、一人の御子が人目を避けるように泣いていた。
山中を歩いていた五十猛は、その気配に気づいて足を止める。
まだ幼い子供でありながら、身なりを見れば相応に高い身分の者だと分かった。
五十猛はすでに七十を越えていた。
倭国大乱も今となっては遠い昔のことであり、出雲を離れてからの彼は、倭の各地を巡って山々に木を植え続けていた。
木々を増やし、山を豊かにし、その恵みが人々の暮らしへと返っていくことを願いながら、長い年月を植林に捧げてきたのである。
そんな五十猛は、泣いている御子を驚かせないよう、ゆっくりと近づいて声をかけた。
「何を泣いているのだ?」
御子はびくりと肩を揺らして振り返った。
そこに立っていたのは七尺に届こうかという大男であり、初めは驚いて目を見開いたものの、その老人が穏やかな表情を浮かべているのを見て、すぐに警戒を解いた。
「兄上たちに馬鹿にされたんだ。役に立たないとか、弱いとか……」
そこまで言うと、御子の目には再び涙が浮かび始めた。
その姿を見た五十猛は、ふと少年だった頃の自分を思い出す。
誰よりも強かった父、須佐之男王に認めてもらいたくて、少しでも役に立ちたいと必死になっていた頃の自分と、目の前の御子がどこか重なって見えた。
「そうかぁ。それは辛くて、悲しかったのぉ」
五十猛は責めるでも励ますでもなく、ただその気持ちを受け止めるように頷いた。それから少し考えると、御子の前でにこりと笑う。
「どうれ、一つ見せてやろうかのう」
そう言って懐から一粒の木の実を取り出すと、近くの柔らかな土を掘って埋めた。御子は涙を拭うことも忘れ、その様子を不思議そうに見つめている。
やがて五十猛が土の上へ手をかざすと、その掌から淡い妖気が漂い始めた。
妖気はゆっくりと地中へ染み込んでいき、ほどなくして土の表面が小さく盛り上がる。
芽が出た。
御子が目を見開く間にも、その芽は見る見るうちに伸び、細かった幹は太くなり、枝が次々と広がっていく。
そして最後には、伸びた枝いっぱいに淡い桜の花が開いた。
つい先ほどまで何もなかった山の一角に、一本の桜が満開の花を咲かせていた。
目の前で起きた出来事に、御子は目を大きく見開いた。土から芽吹いた若木がみるみるうちに伸び、枝を広げ、その先に淡い桜の花まで咲かせたのである。
「凄い、すごーーーい! じい様は花咲じい様なのだ!」
先ほどまで泣いていたことも忘れ、御子は満面の笑みを浮かべて桜を見上げた。
その素直な喜びように、五十猛も嬉しそうに目を細める。
「ほっほっ。爺はの、こうやって山に木の実を撒いておるのじゃよ」
「どうして木の実を植えているの?」
「緑じゃ。倭の国を、緑と水の豊かな国にしたくての」
「緑と水?」
御子は不思議そうに首を傾げた。木の実を植えることと川の水が豊かになることが、どうにも結びつかないらしい。
五十猛はそんな御子の様子を微笑ましそうに眺めながら、別の木の実を拾い上げて土へ埋めた。
「山に木を植えるとな、山そのものが豊かになる。木の実や草が増えれば、それを食べる動物も集まってくる。それだけではないぞ。木の多い山は、降った雨をすぐには流してしまわぬ。土が水を抱えて、少しずつ川へ返してくれるのじゃ。そうして木が豊かな山は、川も豊かになってゆく」
「へぇ……」
すべてを理解できたわけではないのだろう。それでも御子は感心した様子で、五十猛が木の実を植える手元をじっと見つめていた。
「爺はの、こうやって倭の国を少しずつ豊かにしたいのじゃ。爺がいなくなった後も、ここに残った木々が山を守り、川を守り、人の暮らしを助けてくれる。それで十分じゃよ」
「じい様はすごいなぁ……」
御子は咲き誇る桜を見上げ、それから少し羨ましそうに五十猛を見た。
「私も、いつかやりたいことが見つかるかな?」
「見つかるとも」
五十猛は迷うことなく答え、大きな手で御子の頭を優しく撫でた。
「無理に今すぐ見つけようとせんでもよい。その時が来れば、おのずと見えてくるものじゃ。まだお前さんは若い。いろいろなものを見て、いろいろな人と出会えばよい」
「うん!」
「さてと……山には気性の荒い獣もおる。いつまでも一人でいては危ないからの。爺が里まで送って差し上げよう」
そう言うと、五十猛は御子の身体を軽々と抱き上げ、そのまま右肩へ乗せた。
七尺近い大男の肩の上はずいぶん高く、御子は驚きながらも、すぐに楽しそうな笑い声を上げる。
「高い! すごく遠くまで見える!」
「ほっほっ。落ちぬよう、しっかり掴まっておれよ」
「うん! ありがとう、花咲じい様!」
御子は五十猛の頭にしっかりと掴まりながら、ふと思い出したように自分の胸を張った。
「そうだ。私は狭野っていうんだ。この日向の国を治めている主の子供なんだよ」
「狭野か……」
その名を聞き、五十猛はほんのわずかに目を細めた。
日向を治める一族の御子であるならば、大倭壱国へ連なる血筋なのだろう。しかし五十猛は自らの素性について何も語らず、ただ穏やかな笑みを浮かべた。
「良き名じゃ。将来が楽しみじゃのう」
「花咲じい様の名前は?」
「爺の名か?」
「うん!」
五十猛は少しだけ考えたものの、結局その問いには答えなかった。
「ほっほっ。そんなもの、知らなくても困らんじゃろう。花咲じい様で十分じゃ」
「えーっ、教えてよ!」
「いつかな。ほれ、まずは里へ帰るぞ」
不満そうに頬を膨らませる狭野を肩に乗せたまま、五十猛は山道をゆっくりと下っていった。
この時、狭野はまだ知らない。
自分を肩に乗せて歩く老人が、かつて倭国大乱を駆け抜けた猛将であったことも、その老人が自分の一族と深い因縁を持つ人物であることも。
そして五十猛もまた、自らが山で偶然出会った泣き虫の御子が、やがて磐余彦と名乗り、後世に神武天皇と伝えられる人物になることを知る由もなかった。




