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【新説古事記】邪馬台国叙事詩―神代建国譚―  作者: 月見
八章 国譲り

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八章 国譲り 九話 暗殺

 出雲が大倭壱国連合に国を譲り、平定されてから数日が過ぎた。


 その出雲の地へ、新たな一行が到着した。先頭に立つのは天之菩卑(あめのほひ)。


 その傍らには、息子の建比良鳥(たけひらとり)の姿もあった。


 天之菩卑にとって、出雲は決して馴染みの薄い土地ではない。


 これまでにも幾度となく足を運び、大倭壱国と出雲の間で和平の道を探り続けてきた。戦を避け、話し合いによって国を譲ってもらう。


 そのために何度も出雲の者たちと顔を合わせ、言葉を重ねてきたのである。


 しかし両国の溝は深く、交渉が実を結ぶことはなかった。


 それだけに、長い抵抗の末とはいえ、出雲がついに国譲りを受け入れたとの知らせは、天之菩卑にとって感慨深いものであった。


「ようやく……ここまで来たか」


 出雲の山々を眺めながら、天之菩卑は静かに呟いた。望んでいた形とは多少違った。


 最後には軍が出雲本国まで迫り、その武威を背景としての国譲りとなった。


 それでも、最後に出雲の宮や邑を焼き払うような大戦には至らなかった。


 これ以上、多くの民が命を落とさずに済んだことだけでも、天之菩卑には救いであった。


 ただ、天之菩卑自身もすでに若くはない。長い年月の間に髪には白いものが増え、身体にも年齢相応の衰えが現れていた。


 これから出雲を安定して治め、大倭壱国連合の一国として根付かせるには、自分一人の力ではいずれ限界が訪れる。


 そのため今回、息子の建比良鳥を伴ってきたのである。


 天之菩卑は隣を歩く息子へ視線を向けた。


「よく見ておくのだぞ、建比良鳥」


「はい、父上」


「国は戦で取れば終わりではない。むしろ、その後の方が難しい」


 建比良鳥は黙って父の言葉に耳を傾けた。


「昨日まで敵だった者たちと、今日から同じ国の者として暮らしていかねばならぬ。命令だけでは人の心までは従わぬからな」


 そう語りながら、天之菩卑は出雲の宮へと歩みを進めていった。


 長年続いた戦の後に必要なのは、さらに剣を振るう者ではない。


 傷ついた土地と人々の間を繋ぎ直す者である。


 その役目を果たすため、そしていずれ自分の後を息子へ託すために、天之菩卑は建比良鳥を伴って出雲へ入ったのであった。




 建御雷は天之菩卑に出雲の統治を引き継いだ。占領地の管理、兵の配置、武装解除した出雲兵の扱い、各地の豪族への対応。


 出雲方面軍の責任者として抱えていた務めを一つずつ渡し終えると、ようやく建御雷の肩から重いものが下りた。


 長かった。出雲侵攻が始まってから、建御雷は常に一軍の将として、やがて方面軍を預かる者として振る舞ってきた。


 私情で兵を動かすことは許されない。怒りに任せて敵を追うことも、憎しみだけで人を斬ることも許されない。


 どれほど出雲を憎んでいても、軍を預かる以上は勝敗を考え、兵糧を考え、占領した土地の統治まで考えなければならなかった。


 そうして長い年月、自分の感情を胸の奥へ押し込め、出雲方面軍の責任者として振る舞い続けてきた。


 だが、その役目は終わった。


 建御雷は一人になった途端、胸の奥に押し込めていたものが、堰を切ったように溢れ出してくるのを感じた。


 それは出雲への憎しみだった。目を閉じれば、今でもあの日の光景が鮮明に浮かぶ。


 炎に包まれた家。奪われていく食糧。泣き叫ぶ人々の声。そして血に濡れた父と母。


 幼かった建御雷には何もできなかった。ただ逃げることしかできなかった。


 焼け落ちる家を背に、何も持たず、行くあてもなく歩き続けた。


 腹が減っても食べるものはなく、夜になれば冷たい地面に身体を丸めて眠った。


 戦災孤児となって彷徨ったあの日々を、建御雷は一日たりとも忘れたことがなかった。


 その時から、胸の中には一つの思いだけが残った。


 ――いつか、出雲に復讐する。


 ただ、その思いだけで生きてきた。その思いがあったから剣を握った。


 兵となった。戦場で死にかけても立ち上がった。やがて一軍を任され、さらに出雲方面軍を率いる立場となり、長い戦いの末についには出雲そのものを屈服させた。


 幼い頃から望み続けていたはずの光景が、今、目の前にある。


 出雲は敗れた。砦の門は開かれ、兵は武器を捨て、大倭壱国へ国を譲った。これ以上ないほど明確な勝利だった。


 それなのに、建御雷の胸には少しも満足感がなかった。


「……これで終わりか?」


 誰もいない部屋で、建御雷は低く呟いた。


 国を奪った。軍を破った。出雲はもう敵ではない。だが、それで父と母が帰ってくるわけではなかった。


 焼かれた家が元に戻るわけでもない。幼い日に味わった飢えも、恐怖も、何一つ消えてはいない。


 建御雷は拳を強く握った。


「違う……」


 爪が掌へ食い込むほど力を込める。


「こんなものではない」


 胸の奥から、長年押さえ込んできた声が聞こえてくる。


 これで復讐は終わったのか。出雲が国を譲った。それだけでよいのか。自分からすべてを奪った出雲という国は、ただ敗れただけで終わるのか。


 支配する者たちは国を譲り、そのまま何事もなかったように生き続けるのか。


「いや……違う」


 建御雷の表情が、ゆっくりと歪んでいった。


 今までは軍を率いる責任者だった。大倭壱国の将として勝つことを考えなければならなかった。私怨だけで動くことなど許されなかった。


 だが今は違う。統治の責任は天之菩卑へ渡した。出雲方面軍を率いる者として自らを縛っていたものは、もうない。


 そして今、自分は勝者として出雲の地に立っている。


 だからこそ、ようやく自分の手で終わらせることができる。幼い頃から胸に抱き続けたものを。人生のすべてを費やしてきた目的を。


 ――復讐を。


 このままでいいのか。復讐はこれで終わっていいのか。


 いや、違う。


 その思いが建御雷の心を支配し始めると、もう止めることはできなかった。




 建御雷は、出雲への復讐心を強く抱いている兵だけを密かに集めた。


 集まった者たちは、かつての倭国大乱やその後の戦で家族を殺された者、故郷を焼かれた者、食糧を奪われ飢えた者など、形こそ違えど出雲によって大切なものを失った者ばかりだった。


 建御雷は彼らを前にして長々と語ることはしなかった。


 ただ、これから自分が何をするつもりなのかだけを伝えた。


 それを聞いて異を唱える者は一人としていなかった。


 むしろ長年胸の奥に押し込めてきたものを吐き出す機会が、ようやく訪れたとでもいうように、誰もが無言のまま建御雷の命を待っていた。


 その後、建御雷は大国主と事代主のもとを訪ねた。


「事代主殿。先日は見事な鯛を見せてもらったが、儂は戦ばかりの人生でな。魚を釣るということをほとんど知らぬ。せっかく出雲まで来たのだ、一度くらい海へ出て、釣りというものを教えてもらえぬか。よかったら大国主殿もご一緒にどうだ?」


 突然の申し出に、事代主は少し意外そうな顔をした。


「釣りを、ですか? それは構いませんが、建御雷殿ほどのお方が釣りに興味を持たれるとは思いませんでした。戦とは違い、魚はこちらの都合では動いてくれませんぞ。何も釣れずに一日が終わることだってあります」


「それでよい。これまで儂は、待つよりも追うことばかりしてきたからな。たまには何もせず海を眺めながら待つというのも悪くあるまい。それに先日の鯛を見れば、少しくらい興味も湧くというものだ」


 建御雷の口調は穏やかだった。国譲りを終えたとはいえ、大国主と事代主は敗者である。出雲を占領した軍の将から誘われれば、簡単に断れる立場ではなかった。


 事代主は父へ目を向け、大国主はわずかに考えた後、静かに頷いた。


「よかろう。儂も付き合おう。事代主は昔から暇さえあれば海へ出ておる。釣りの腕だけなら、出雲でもそうそう負けることはあるまい」


「父上、それではまるで私が政務を放り出して釣りばかりしているようではありませんか」


「違うのか?」


「……否定はしませんが」


「ははは、それなら決まりだな。建御雷殿、明日の朝でよければ船を出しましょう。潮も悪くないはずです」


「それはありがたい。では頼ませてもらおう」


 翌日、建御雷はあらかじめ選んでいた数人の兵を伴い、大国主、事代主とともに小舟へ乗り込んだ。海は穏やかで、風も弱く、空には薄い雲が流れている。


 船が岸を離れてしばらくすると、事代主は釣り糸を海へ垂らしながら、建御雷に釣りの仕方を説明し始めた。


「魚というものは、ただ餌を付けて海へ落とせば釣れるというものでもありません。潮がどちらへ流れているか、どのくらいの速さなのか、魚がどの深さにいるのか、それに時刻も見なければならない。昨日よく釣れた場所へ今日来ても、一匹も釣れぬことがあります」


「戦に似ているところもあるのだな。敵が昨日そこにいたからといって、今日も同じ場所にいるとは限らぬ。地形を見て、風を見て、人の動きを読まねばならん」


「なるほど。私には戦のことはよく分かりませんが、そう言われれば似ているのかもしれませんな。ただ魚はこちらが負けても国を奪ったりはしませんから、ずいぶん気楽なものです」


「それは違いない。では、この辺りでは何が釣れる?」


「時期にもよりますが、狙うなら鯛でしょう。もう少し岸へ寄れば小さな魚も多くおりますが、せっかく建御雷殿に教えるのです。どうせなら大物を狙った方が面白いでしょう」


「鯛か。先日のものは見事だったな。あれほど大きなものが簡単に釣れるのか?」


「簡単なら毎日持って帰っております。あの日は運が良かっただけですよ。釣れぬ日は本当に何も釣れません。そういう時は魚より海を見に来たのだと思うことにしております」


 事代主はそう言って笑った。建御雷も僅かに笑い、熱心に話を聞いていた。


 その隣では、大国主が二人の会話には加わらず、静かに遠くの海を眺めている。船はさらに沖へ進み、岸は次第に遠ざかっていった。


 人の姿も家々も小さくなり、やがて陸地そのものが遠く霞み、周囲には広い海ばかりが広がるようになった。


「この辺りでよかろう」


 建御雷が不意に言った。


 事代主が振り返った。


「そうですな。潮もそれほど悪くありません。では、この辺りで船を止めて糸を――」


「いや。もうよい」


 建御雷の声が変わった。それまでの穏やかさが消え、低く冷たいものへ変わっていた。


 事代主は手を止め、大国主もゆっくりと建御雷へ顔を向ける。建御雷は腰を上げて立ち上がると、周囲に控えていた兵たちへ視線を送った。


「やれ」


 その一言で兵たちは一斉に動いた。


「なっ……何を!」


 事代主が立ち上がろうとした瞬間、背後から二人の兵に両腕を取られた。


 大国主にも別の兵が取りつき、抵抗する間もなく腕を背中へ回し、太い縄を巻き付ける。


 事代主は身体を捩って振りほどこうとしたが、数人の兵に押さえ込まれて身動きが取れない。


「何をされる! 建御雷殿、これは一体どういうつもりです! 出雲はすでに国を譲ったではありませんか。我らは武器も捨て、あなた方に従った。それでもなお、何をなされるおつもりか!」


 しかし兵たちは答えなかった。船底に隠すように積んであった大きな石を取り出し、それをさらに縄で二人の身体へ縛り付けていく。その様子を見て、事代主の顔から血の気が引いた。


「まさか……最初から、釣りなどするつもりでは……」


「そうだ」


 建御雷は二人を睨んだ。その顔には、これまで戦場でも見せなかったほど強い憎悪が浮かんでいた。


「儂は戦災孤児だった。まだ幼かった頃、出雲兵がお前たちの国のために筑紫へ攻め込んできた。あの日のことを、儂は今でも昨日のことのように覚えている」


 建御雷の拳が震えていた。


「父も母も、儂の目の前で殺された。家にあった食糧は根こそぎ奪われた。持っていけぬ物には火を放たれ、住んでいた家まで燃やされた。父と母が倒れているのに、幼い儂には何もできなかった。泣くことすら許されず、ただ逃げた。振り返れば家が燃えていた。あの日から儂には帰る家も、待ってくれる父も母もいなくなった」


 海風の中に、建御雷の声だけが響いていた。


「それからずっとだ。儂は出雲への恨みを忘れたことなど一日たりともない。腹が減って眠れぬ夜も、寒さに震えた夜も、兵になって泥の中を這った時も、戦場で死にかけた時も考えていた。いつか出雲へ行く。いつか必ず、この恨みを返す。その日のために強くなるのだとな!」


 大国主は何も言わず、建御雷を見つめていた。


「儂が剣を選んだのも、兵になったのも、戦場で何度倒れようと立ち上がったのも、そのためだ。田を耕して静かに暮らす道もあった。それでも儂は選ばなかった。出雲を討つために生きると決めたからだ。それだけを思って、ここまで来た!」


 その顔を見つめていた大国主の目が、わずかに見開かれた。記憶の奥から、一人の若者の姿が浮かび上がる。


 かつて月読との交渉の折、突然自分へ襲いかかってきた若者。出雲を憎み、怒りを剥き出しにしていた青年。


 あの時は周囲に取り押さえられ、目的を果たせなかった男だった。


「……そうか。ようやく思い出したぞ。あの時、月読殿との話し合いの場で儂へ襲いかかってきた若者……あれがお主であったか」


 建御雷の表情が歪んだ。


「ああ……そうだ。あの時の若造だ。あの頃の儂には何もなかった。力も、兵も、地位もなかった。目の前に憎い出雲の大名持がいるというのに、近づくことすらできずに取り押さえられた」


 建御雷は一歩、大国主へ近づいた。


「だが今は違う。見ろ、大国主。今ここにいる儂は、あの時の何も持たぬ戦災孤児ではない。出雲方面軍を率い、お前たちを追い詰め、出雲を降伏させた。そして今は勝者として、お前の前に立っている!」


 その声が海の上へ響いた。


「この日のために生きてきた! 父と母を失ったあの日から、ずっとこの日だけを待っていた! 出雲を倒し、出雲の主へ儂の恨みを返す。そのためだけにここまで生き延びてきたのだ!」


「父上……」


 事代主が不安そうに父を見た。だが大国主は何も言わなかった。建御雷の両親を殺したのは自分ではない。


 家を焼いたのも、食糧を奪ったのも、自分ではない。当時の大国主はむしろ別の場所で戦っており、不弥国で虐殺を指揮した者でもなかった。


 そう弁明しようと思えばいくらでもできた。


 だが、大国主は言わなかった。


 建御雷にとって、それが出雲の誰であったかなど意味はないのだ。出雲の兵がした。出雲という国がした。


 その出雲の旗の下で父母は殺された。そして自分は後にその出雲の支配者となり、大国主と呼ばれた人間である。


 何より目の前の建御雷は、紛れもなく戦争によって全てを奪われた被害者だった。


 大国主は長い間、建御雷を見つめた後、静かに息を吐いた。


「……そうであったか。お主が儂を憎む理由は、よく分かった」


「では命乞いでもするか? 自分は関係ない、命じたのは別の者だとでも言うか?」


「言わぬよ。実際にお主の父母を殺したのが誰であったか、今となっては分からぬ。儂が命じたことではないと言うこともできよう。だが、それを聞いてお主の父母が戻ってくるわけでもなければ、焼かれた家が元に戻るわけでもない。お主が出雲を憎んで生きてきた年月まで消えるわけでもあるまい」


 事代主が父を見つめる。


「父上、しかし……」


「よい、事代主」


 大国主は息子を制し、再び建御雷へ目を向けた。


「儂は長く出雲の上に立ってきた。国が成したことから、自分だけが無関係であったと言って逃げるつもりはない。お主がそれで少しでも終わりにできるというのであれば……これも運命であろう」


 その表情には恐怖も怒りもなく、不思議なほど静かなものだけが残っていた。


「好きにせい」


 建御雷はすぐには動かなかった。


「……それだけか?」


「それだけだ」


「儂はお前を殺そうとしているのだぞ」


「分かっておる」


「怖くないのか?」


「怖くないと言えば嘘になろう。死にたくないという気持ちもある。だが命乞いをして、お主の中に積もったものが消えるとも思えぬ。それなら今さら見苦しく言い訳を並べても仕方あるまい」


 建御雷は唇を噛んだ。何か言い返されると思っていた。責任は自分にはないと弁明されるとも思っていた。


 命だけは助けてくれと縋られることさえ想像していた。だが大国主は何もしなかった。ただ自分の運命として受け入れ、静かに建御雷を見ているだけだった。


「……ならば望み通りにしてやる」


 建御雷は兵たちへ目を向け、無言で合図した。


 兵たちはまず大国主を船縁へ引きずっていった。身体には重い石が縛り付けられ、両腕も自由にならない。


「父上! 待ってください! 建御雷殿、父上はもう隠居の身です! 出雲を譲ると決めたのは私だ! どうしても誰かの命が必要だというのなら――」


「事代主!」


 大国主が強い声で息子を止めた。


「余計なことを言うな。お主は出雲の王として国を譲った。それで戦を終わらせた。それでよい」


「しかし父上!」


「これ以上、何も背負う必要はない」


 大国主は息子へ穏やかな顔を向けた。


「先に行くぞ」


「父上――!」


 次の瞬間、兵の足が大国主の背を蹴った。


 大きな水音が上がり、大国主の身体が海へ落ちる。石の重みに引かれた身体は一度大きく水面を揺らしただけで、瞬く間に海中へ沈んでいった。


「父上! 父上――!」


 事代主が絶叫した。しかし大国主が再び水面へ姿を見せることはなかった。


「建御雷殿……!」


 事代主は建御雷を睨みつけた。その顔から、普段の飄々とした雰囲気は完全に消えていた。


「我らは国を譲った! 武器を捨て、兵を解き、あなた方を出雲へ迎え入れた! それでも足りなかったのですか! 父上の命まで奪わなければ、あなたの戦は終わらぬというのですか!」


「終わらせるために来た」


「ならば、これで満足ですか!」


 その言葉に、建御雷は一瞬だけ黙った。


「……まだだ」


 事代主の顔が強張った。


「お前も出雲の王だ。大国主の子であり、その後を継いだ者だ。儂にとっては同じだ」


「そうですか……」


 事代主は目を閉じた。


「ならば仕方ありませんな」


 意外なほど静かな声だった。


「ただ一つだけ言わせてもらいたい。私は国を譲ったことを後悔しておりません。あのまま戦えば、もっと多くの者が死んだでしょう。出雲の民が生き残るために国を譲った。それだけは、間違っていなかったと思っています」


「……そうか」


「父上もきっと同じです。ですから、我らを殺したことで出雲の者たちまで再び殺そうとはなさらぬよう。それだけは約束していただきたい」


 建御雷は答えなかった。


 兵たちが事代主を船縁へ連れていく。


「では……父上のところへ参りますか」


 事代主は最後に海を見た。


「今日もよく釣れそうな海だったのですがな」


 兵が背中を蹴った。


 事代主の身体も海へ落ち、大きく水面が揺れる。身体へ縛り付けられた石が容赦なく海底へ引きずり込み、縄で両腕を封じられた事代主には抵抗する術もなかった。


 海中へ沈んでいく二人の身体から小さな泡が昇り、光は次第に遠ざかっていった。


 やがて泡さえ消えた。


 海面は再び静けさを取り戻し、何事もなかったかのように小さな波が船腹を叩いていた。


 船上に残った者たちは誰も口を開かなかった。建御雷も長い間、二人が沈んだ海面を見つめ続けていた。


 やがて、その頬を一筋の涙が伝った。


「……やっとだ」


 掠れた声が漏れる。


「やっと……ここまで来た」


 建御雷は両手を強く握り締めた。幼い頃から胸の奥に抱き続けてきたものだった。何度夢に見たかわからない。


 何度、出雲という名を憎んだかわからない。飢えた夜も、凍える夜も、訓練で倒れた日も、戦場で傷を負った時も、この日を思い描いてきた。


「父上……母上……見ていてくれたか」


 声が震えた。


「儂は……ここまで来たぞ。あの日、何もできずに逃げるしかなかった子供ではない。出雲を倒した。父上と母上を奪った国を、この手で降伏させた。そして今、その国の主にも報いを受けさせた」


 涙が次々と頬を流れていく。


「長かった……本当に長かった。何度、この日が来る前に死ぬと思ったことか。それでも死ななかった。この日のために生きた。この日のために剣を握った。この日のために戦ってきたのだ」


 建御雷は海へ向かって、泣きながら笑った。


「終わったぞ……。父上、母上……ようやく終わった。儂はやったのだ。ずっと誓っていたことを、ようやく果たしたのだ……」


 兵たちの中にも涙を流す者がいた。彼らもまた、出雲との戦によって家族や故郷を奪われた者たちである。


 それぞれが失った者の顔を思い浮かべながら、静かな海を見つめていた。


挿絵(By みてみん)


 建御雷は何度も涙を拭った。それでも涙は止まらなかった。


 幼い日に全てを奪われてから、人生を懸けて追い続けてきた復讐を、ついに果たしたのだと信じながら。

本作で一番成長の振れ幅が広かったのが大国主でした。

若い頃から苦労を重ね、少彦名を失う大失態を起こし。

苦しい戦の中から、いずれ自分の汗を流しながら国造りを率先して行った。

出雲の復興と繁栄をもたらし大国主と呼ばれるようになった。

出雲大社は祀る社でなく封印する社とも言われることがあります。

今なお謎が多い出雲大社に魅力を感じます。

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