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【新説古事記】邪馬台国叙事詩―神代建国譚―  作者: 月見
八章 国譲り

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八章 国譲り 八話 国譲り

 建御雷率いる大倭壱国連合軍は、ついに出雲本国へと足を踏み入れた。


 しかし、そこに戦の音はなかった。


 国境を守っていた砦の門はことごとく開かれ、出雲兵たちは武器を地へ置いていた。


 槍も剣も集められ、弓からは弦が外されている。大倭壱国連合軍の進軍を阻む者は誰一人としていなかった。


 建御雷は兵を率い、開かれた街道を進んでいく。


 これまでの道のりとは、あまりにも違っていた。


 出雲との戦いが始まってから長い年月が過ぎている。


 砦を一つ奪うために幾人もの兵が倒れ、村一つを支配下に置くだけでも激しい抵抗を受けることがあった。


 だが今、目の前に広がる出雲本国では、誰も戦おうとはしていない。


 道の脇には武装を解いた出雲兵たちが並び、無言のまま大倭壱国連合軍が通り過ぎる姿を見つめていた。


 建御雷もまた、彼らへ剣を向けることはなかった。


 すでに武器を捨てた者たちである。


 こうして、大倭壱国連合軍は一度も刃を交えることなく、出雲本国を占領した。


 戦によってではない。


 開かれた門を通り、武装を解いた兵たちの間を進むことで、出雲の中心へと入ったのである。




 開け放たれた宮の門の前まで進んだところで、建御雷はゆっくりと足を止めた。


 出雲の兵たちはすでに武装を解いており、門を守っていた者たちも槍や剣を地へ置いている。


 大倭壱国連合軍の進路を塞ごうとする者は一人もおらず、宮へと続く道は静かに開けられていた。


 建御雷はその光景を一度見渡してから腰に差していた布都御魂を抜くと、門の前の地面へ力強く剣先を突き立てた。


 赤い光をわずかに帯びる剣を前にして立ち、抜いた後の鞘の上へ両手を添えると、宮の奥まで届かせるように声を張り上げる。


「大倭壱国の建御雷である! 大国主はおるか!」


 そのよく通る声は開かれた門を抜け、静まり返った宮の中へ大きく響いていった。


 返事はすぐにはなかったが、建御雷がその場で待っていると、やがて宮の奥から一人の男が姿を現した。


 大国主である。


 かつて出雲の実権を握り、この国を長く率いてきた男は、武器を手にすることも護衛を引き連れることもなく、一人で落ち着いた足取りのまま建御雷の前へ歩いてきた。


 すでに戦う意思がないことを示すかのように、その表情にも敵意や警戒は見られなかった。


 大国主は建御雷の前まで来ると足を止め、侵攻してきた敵国の将を迎えるとは思えないほど礼節を保ったまま、静かに頭を下げた。


「大倭壱国の将を、よくぞお越しいただいた」


 あまりにも穏やかな迎え方だったため、建御雷は思わずわずかに眉を動かしたものの、すぐに表情を戻して大国主を正面から見据えた。


「うむ。大国主よ、出雲の地を大倭壱国へ国譲りしていただきたい」


 長い戦いの末に出雲本国まで兵を進め、ついに突きつけた要求であったが、建御雷が正面から国譲りを求めても、大国主の穏やかな様子にはほとんど変化がなかった。


「そのことでございますか」


 大国主は動揺を見せることもなく、少しだけ頷いてから静かに答える。


「実は儂は、すでに隠居の身でしてな。出雲の王位は息子の事代主へ譲っております」


「事代主に?」


「ええ。今の出雲の王は、あの子です。国を譲るか否かを決めるのも、今となっては儂ではありません」


 建御雷はその答えを聞いてしばらく大国主の顔を見つめた。


 大国主が責任を逃れようとしているようには見えない。


 実際に王位を譲っているのであれば、国譲りという国の行く末を決める大事について、現王である事代主の意思を確認するのは当然のことであった。


 建御雷は少し考えた後、改めて問いかける。


「その事代主はどこにおる?」


「それが今は留守にしております。じきに戻ると思いますので、それまで宮の奥で寛いでいただけませぬか」


 国そのものの命運を決めるという時に、肝心の王が宮にいない。


 その事実に建御雷はさすがに怪訝な表情を浮かべ、大国主を見つめ返した。


 しかし、大国主に時間を稼ごうとする様子はまったく見られなかった。


 宮の門はすでに開かれ、出雲の兵たちは武装を解除し、大倭壱国連合軍は誰に妨げられることもなく宮の前まで入り込んでいる。


 今さら時間を稼いだところで、出雲が戦局を覆せるような状況ではなかった。


 それならば、現王である事代主が戻るまで待つほかない。


「……よかろう。では、待たせていただこう」


「こちらへ」


 大国主はそう言うと、まるで遠方から訪れた客人を迎えるかのように身を翻し、自ら建御雷を宮の中へ案内した。


 建御雷は地面へ突き立てていた布都御魂を引き抜き、剣身に付いた土を軽く払ってから鞘へ収めると、大国主の後に続いて開かれた門をくぐった。


 宮の奥へ通された建御雷は、大国主から広間の上座を勧められた。


「どうぞ、こちらへ」


「うむ」


 建御雷は勧められるまま上座まで進み、腰を下ろした。


 本来ならば、そこは出雲の王が座る場所に近い。


 敵国の兵を率いて出雲本国へ踏み入り、その国そのものを差し出すよう求めに来た将を、大国主は最後まで敵として扱うことなく、客人を迎える時と何ら変わらぬ礼節をもって遇していた。


 建御雷には、その態度が少しばかり理解し難かった。


 戦場では、出雲の兵と何度も刃を交えてきた。砦を落とし、村や国を奪い、長い年月をかけて少しずつ出雲へ迫ってきたのである。


 それにもかかわらず、ようやくたどり着いた出雲の宮では罵声を浴びせられることも、恨みを向けられることもなく、目の前の大国主は静かに客を迎えている。


 だが、建御雷はそれ以上問いただそうとはしなかった。


 国譲りについて決める権限を持つのは、すでに大国主ではなく事代主である。


 ならば今は、その男が帰ってくるのを待てばよい。


 建御雷は上座に腰を落ち着けたまま何も言わず、やがて戻ってくるという出雲の王を待つことにした。




 一刻ほどが過ぎた頃、宮の外がわずかに騒がしくなり、やがて廊下の向こうから一人の男が姿を現した。


 右手には長い釣り竿を持ち、左手にはまだ鱗が濡れて光っている大きな鯛をぶら下げている。


 そのあまりにも場違いな姿を目にした建御雷は、思わず眉をひそめながら、こちらへ歩いてくる男を無言で見つめた。


挿絵(By みてみん)


 男は周囲から向けられる視線を気にした様子もなく広間へ入り、建御雷の前まで進むと、持っていた釣り竿と大きな鯛を傍らへ静かに置き、深々と頭を下げた。


「遅くなりまして、申し訳ありません。私が現在、出雲の王位を預かっております事代主でございます。長らくお待たせしてしまったこと、まずはお詫び申し上げます」


「うむ……確かに待たされた。それで事代主殿、その釣り竿は見れば分かるとして、傍らに置いているその大きな鯛はなんだ? まさか、その姿のまま今まで海に出ていたというわけではあるまいな」


「この鯛でございますか。実は朝から海へ釣りに出ておりまして、ちょうど見事な鯛が一尾釣れましたので、そのまま持って戻ってまいりました。せっかく大倭壱国より遠路お越しいただいた皆さま方ですから、何もないというのも失礼かと思いまして。ささやかなものではございますが、献上品としてどうぞお収めください」


 建御雷は、返す言葉を失ったまま事代主の顔と傍らの鯛を交互に見た。


 出雲はすでに大倭壱国連合軍によって本国まで迫られ、各地の砦では兵が武装を解き、門も開かれている。出雲という国そのものの命運が決まろうとしてい。


 まさにその日に、この国の王は朝から海へ出て釣りをしていたというのである。


 自分たちがいつ宮へ入ってくるかも分からぬ状況で、この男は海へ舟を出し、釣り糸を垂らし、しかも釣り上げた鯛を手土産にして戻ってきた。


 ただの変人なのか、それとも国を失う目前でありながら何一つ取り乱さない、とてつもなく肝の据わった人物なのか。


 建御雷には、目の前の事代主という男がどちらなのか判断することができなかった。


 それでも事代主本人は、建御雷の困惑などまるで気にも留めていないらしく、穏やかな表情のまま静かに座っている。


 その姿をしばらく見つめた建御雷は、気を取り直すように姿勢を正し、本来ここへ来た目的へ話を戻した。


「事代主殿。我ら大倭壱国連合軍が、なぜこの出雲本国まで兵を進めてきたのか、その理由については当然ながら承知しているのであろうな」


「もちろん承知しております。大倭壱国連合が長年にわたって我ら出雲へ求めてきたことも、天之菩卑(あめのほひ)殿より何度も使者を通じて伝えられてきたことも、すべて存じております」


「ならば話は早い。改めて、この場ではっきり確認させてもらう。出雲はこれ以上、大倭壱国連合に抵抗することなく、その支配を受け入れ、この地の統治権を大倭壱国へ譲る。その意思があるということで間違いないのだな」


 事代主は、少しも考え込む様子を見せなかった。


 視線を伏せることも、周囲の家臣たちに判断を求めることもなく、建御雷の目をまっすぐ見ながら静かに答えた。


「当然でございます。我ら出雲は、これ以上この地で戦を続けるつもりはございません。兵にはすでに武器を置かせ、各地の砦にも門を開くよう命じております。これより出雲の国は、大倭壱国へ国をお譲りいたします」


 あまりにも迷いのない返答に、建御雷は再び言葉を失った。


「……それでよいのか。そなたは出雲の王なのであろう。先ほどから見ていれば、国を失うことになるというのに、随分とあっさりしているように見えるが」


「王であるからこそでございます。王が国を惜しんで戦を続ければ、そのために死ぬのは王ではなく兵であり、田を耕す者であり、この地で暮らしている民でございます。すでに勝敗が決しているのであれば、これ以上流す必要のない血を流させる理由はございません」


 建御雷は事代主を見つめたまま黙り込んだ。


 もっと揉めるものだと思っていた。国を譲る代わりに多くの条件を突きつけられるかもしれず、あるいは国を明け渡すくらいならば死ぬと叫ばれることすら覚悟していた。


 宮の奥に兵を潜ませ、最後の抵抗を仕掛けてくる可能性さえ考えながら、建御雷はこの地へ入ってきたのである。


 出雲への侵攻が始まって十年。数え切れぬほどの砦を攻め、村を押さえ、反撃を受け、奪った土地を守りながら、少しずつ出雲本国へ近づいてきた。


 その長い戦いを経験してきただけに、最後の出雲本国では、これまで以上の激しい抵抗が待ち受けているものだと考えていた。


 しかし現実は、その想像とはまるで違っていた。


 門は開かれ、兵は武器を置き、出雲の王は朝から釣りに出て、大きな鯛を一尾持って帰ってきた。


 そして、その鯛を献上品として差し出しながら、まるで長く続いた交渉を終わらせるように国を譲ると言ったのである。


 建御雷は、改めて低い声で尋ねた。


「事代主殿、最後にもう一度だけ聞いておこう。これは儂から脅されて口にした言葉ではないのだな。そなた自身の意思として、出雲を大倭壱国へ譲るということでよいのだな」


「はい。私自身の意思でございます。そして父、大国主とも話した上で決めたことでございます。ここで戦を終わらせることが、今の出雲にとって最も良い道であると考えております」


「……そうか」


 ここまで無抵抗の相手に、建御雷が勝手に刃を向けることなどできなかった。


 周囲には大国主の家臣も出雲の豪族たちもおり、さらに自らが率いてきた大倭壱国連合軍の兵たちまで、このやり取りを見届けている。


 そもそも建御雷に与えられているのは、出雲方面軍を率いて敵軍を破り、大倭壱国連合の勢力を広げるための軍事上の権限である。


 すでに降伏の意思を示した国の王を独断で処断したり、外交上の条件を勝手に変更したりする権限までは与えられていなかった。


 何より、出雲側はすでに武器を置き、王自ら国譲りを明言している。


 これ以上、この場で建御雷がするべきことはなかった。


 しばらく事代主を見つめていた建御雷は、やがて大きく息を吐き、ゆっくりとうなずいた。


「……承知した。出雲より国を譲るとの申し出、大倭壱国連合軍を預かる者として、確かに受け取った。今後の細かな統治や引き継ぎについては、改めて担当する者を通じて話し合うことになるであろう」


「ありがとうございます。出雲の民がこれまでと変わらず田を耕し、海へ出て、静かに暮らしていけるのであれば、私から申し上げることはそれほど多くございません。どうか、その点だけはよろしくお願いいたします」


「……分かった。そのことも伝えておこう」


「よろしくお願いいたします」


 事代主は、最後まで取り乱すことなく静かに頭を下げた。


 その傍らでは、献上品として持ち込まれた大きな鯛が、つい先ほどまで泳いでいた朝の海の名残を残すように、濡れた鱗を光らせていた。




 その頃、大国主は少彦名を祀る小さな社を訪れていた。社の前には、いつものように二つの茶が置かれている。


 一つは自分のためのもの、そしてもう一つは、今はもうこの世にいない友のためのものだった。


 大国主は湯気の立つ茶を手に取り、向かいに置かれたもう一方の茶へ目を向ける。そこには誰もいない。


 それでも大国主には、昔と変わらず少彦名が向かいに座り、いつもの調子で話を聞いているように見えた。


「我らの役目は終わったな」


 誰もいないはずの場所へ語りかけ、大国主は手にした茶を静かに口へ運んだ。


「満足だ。やるべきことは、やったしな」


 返事が返ってくることはない。それでも大国主は気にすることなく、まるでそこに少彦名が座っているかのように、しばらく二つの茶を挟んで静かに向かい合っていた。


 長い年月を経ても変わることのなかったその習慣の中で、大国主はもう一度、手をつけられることのない茶へ目を向ける。


 やがてその顔には、長い役目を終えた者だけが浮かべるような、穏やかな笑みが広がっていた。

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