八章 国譲り 七話 出雲占領
建御名方は、ただ一人で出雲へ戻ってきた。
出陣した時に率いていた兵たちの姿はどこにもなく、鎧にはいくつもの傷が刻まれ、右腕に巻かれた布にも血が滲んでいた。
宮へ戻った建御名方は、そのまま大国主と事代主の前へ進み出た。
大倭壱国連合軍を撃退すると豪語して出陣したにもかかわらず、率いていた兵たちを残して自分だけが逃げ帰ってきたのである。
二人を前にすると何も言えなくなり、やがて膝をついて深く頭を下げた。
「父上……兄上……申し訳ございません」
声は震えていた。
「負けました」
大国主は何も言わず、息子を見つめていた。建御名方は拳を強く握りしめる。
「建御雷という男に敗れました。奴の持つ剣は普通の剣ではありません。私の槍も、剣も……何も通じませんでした。妖気を纏っても斬られました」
右腕の傷を見つめ、建御名方は唇を噛んだ。
「怖くなって……私は……」
その先を口にすることができなかった。兵を置いて逃げた。その事実だけは、どのような言葉を並べても変わらない。
「父上……私は将でありながら、兵を置いて逃げました。どのような罰でも受けます」
建御名方は額が床につくほど頭を下げた。だが、大国主から叱責の声が飛ぶことはなかった。
大国主はゆっくりと立ち上がると建御名方の前まで歩き、その大きな肩へ静かに手を置いた。
「よく戦ってくれた」
建御名方が顔を上げた。
「父上……?」
そこに怒りはなかった。
「あとは任せよ」
大国主は穏やかにそう告げた。
出雲の敗北は、もはや決定的だった。建御名方は俯いたまま、大国主と事代主の前に立っていた。
敵将・建御雷との一騎打ちに敗れ、率いていた兵を残したまま、ただ一人で出雲へ逃げ帰ってきたのである。
大国主はそんな息子を責めることなく、ゆっくりと歩み寄ると、その肩へ手を置いた。
「よく戦ってくれた。あとは任せよ」
「父上……」
建御名方が顔を上げると、大国主はしばらく息子の顔を見つめてから、静かな声で告げた。
「建御名方よ、そなたはこのまま出雲の地にいるわけにはいかぬ。すぐに東の地へ向かえ」
「東に向かえと?」
「うむ。遥か東へ行くのだ。三輪山すら越えたその先には、まだいずれの勢力も届いておらぬ地があるという。
そこまで行けば、大倭壱国の手も容易には届くまい。その地にて過ごすがいい」
建御名方は戸惑った。自分だけ逃げよと言われていることは理解できたが、それを素直に受け入れることなどできない。
自分が東へ逃れれば、父と兄は出雲に残されることになる。
「しかし父上と兄上は?」
その問いに答えたのは事代主だった。
「心配するな建御名方、我らはただ下るだけだ。歯向かわなければ、問題なかろう」
「ですが……」
「お前は十分に戦った」
大国主が言葉を重ねる。
「もうよい」
建御名方は唇を噛んだ。しばらく父と兄の顔を交互に見つめていたが、やがて覚悟を決めたように深く頭を下げた。
「……わかりました。東に向かいます」
「うむ」
大国主は静かに頷いた。
「達者でな」
それ以上、大国主は何も言わなかった。建御名方もまた何も言えず、もう一度深く頭を下げると父と兄に背を向け、そのまま振り返ることなく宮を出ていった。
建御名方の足音が少しずつ遠ざかっていく。大国主と事代主はその場から動かず、息子であり弟である男が去っていく音を黙って聞いていた。
やがて、その足音さえ聞こえなくなった。
宮に残されたのは大国主と事代主の二人だけだった。二人はすぐには言葉を交わさず、建御名方が消えていった先を見つめたまま沈黙していた。
長い沈黙が、静まり返った宮の中を満たしていた。
建御名方が去った後、大国主と事代主は二人きりとなり、しばらくの間、どちらからともなく言葉を発することはなかった。
建御名方を東へ逃がしたことで息子の命だけは守ることができたが、それは同時に、出雲がこれ以上戦い続けることができない現実を認めることでもあった。
やがて大国主は静かに息を吐き、先ほど建御名方が座っていた場所へ目を向けながら口を開いた。
「建御名方は率いる兵を見捨てて逃げ出してきた。最早、だれも建御名方の命には従わぬだろう。となるともう戦えぬ」
その声音に息子を責める響きはなかった。建御名方は若く、出雲でも並ぶ者のない武勇を持ち、妖力に目覚めてからは多くの者から期待を集めていた。
今回の出兵も、その力ならば大倭壱国連合軍を押し返せると信じた者たちによって決められたものである。
実際、建御名方は前線の砦を一つ奪い返してみせた。
大倭壱国連合によって押され続けていた出雲にとって、それは久しくなかった勝利であり、強硬派にとっては希望そのものだった。
だが、その希望は建御雷によって打ち砕かれた。
建御名方は建御雷との一騎打ちに敗れ、率いていた兵たちへ撤退の命令を出すことすらできず、戦場から一人で逃げ出した。
どのような事情があったとしても、兵から見れば、自分たちを率いる将が自分たちを置き去りにして逃げたという事実だけが残る。
一度失われた将への信頼を取り戻すことは容易ではなかった。
何より、その建御名方こそが徹底抗戦を求める者たちにとって最後の希望だったのである。
大国主自身はすでに隠居している。事代主も初めから大倭壱国への降伏を受け入れるつもりでいた。八島士奴美も老い、身体を悪くして戦場へ立つことすらできなくなっている。
建御名方まで敗れた今、出雲には大軍を率いて大倭壱国連合軍を押し返せる者が残されていなかった。
事代主は父の言葉を黙って聞いていたが、やがて静かに顔を上げた。
「これで戦は終わらせます」
大国主はすぐには答えなかった。
これまでの長い年月が脳裏をよぎっていた。
須佐之男が筑紫への侵攻を始めてから、あまりにも多くの者が戦によって命を落としてきた。
須佐之男が死んでも戦は終わらず、八島士奴美たちはその意思を継いで戦い続けた。
やがて出雲は守る側へ回り、大倭壱国連合の侵攻を受けながら、一つ、また一つと支配地を失っていった。
その間にも田畑を耕す者が減り、家族を失う者が増え、若者たちは武器を持って戦場へ送られ続けた。
国を守るためという理由で、いったいどれほどの民の血が流れたのか。
大国主は長く出雲を立て直すことに力を注いできた。寒冷化と戦によって荒れた田畑を整え、川を治め、新しい農地を拓き、自ら泥にまみれて働いてきた。
それは出雲という名を残すためだけではない。そこに暮らす者たちが飢えることなく、生きていける土地を作るためだった。
その民を守るために、さらに民を戦場へ送り出すのであれば、何のために国を立て直してきたのか分からない。
王が残って民が滅びるのならば、そんな国に意味はない。
大国主はようやく顔を上げると、事代主を見つめた。
「うむ、これ以上、一滴も出雲の民の血は流させぬ」
その言葉に迷いはなかった。
出雲という国が大倭壱国連合へ下ることになろうとも、王の座を失うことになろうとも、それで民が生き残れるのであれば受け入れる。
大国主と事代主の間で、それ以上の言葉は必要なかった。
出雲の長い戦いを終わらせる決断は、この時、静かに下されたのである。
事代主は重臣や有力豪族たちを宮の広間へ集めると、大倭壱国連合に下ることを正式に告げた。この場に大国主の姿はない。事代主はあえて父を同席させなかったのである。
「これ以上の戦は行わぬ。兵には武器を置かせ、各地の砦にも抵抗せぬよう命を出す。我ら出雲は、大倭壱国に下る」
広間に集まった者たちは、誰も言葉を発しなかった。事代主はその沈黙を見渡しながら、しばらく待った。
大国主を同席させなかったのには理由がある。大国主がこの場にいれば、その存在だけで重臣や豪族たちの判断に影響を与えてしまう。
すでに王位を譲ったとはいえ、出雲を立て直し、大国主と呼ばれるまでになった父の影響力はいまだ大きい。
降伏に反対する者がいるのなら、自分に遠慮することなく大国主のもとへ行けばよい。
そのうえで徹底抗戦を望む者たちの受け皿になってもらうよう、事代主は事前に父へ念を押していた。
だが、立ち上がる者はいなかった。大国主のもとへ向かおうとする者も、徹底抗戦を訴える者もいない。
誰もが、あまりにも長く続いた戦に疲れ果てていた。
大倭壱国との戦は何年にもわたり続き、国境の砦は一つ、また一つと失われていった。
多くの兵が死に、支配していた土地も次々と奪われ、ついには大倭壱国連合軍が出雲本国の目前まで迫っている。
最後の希望として出陣した建御名方も敗れ、率いていた軍を残して単身出雲へ戻ってきた。
もう十分だった。
出雲から戦える者がすべていなくなったわけではない。兵を集めることはできる。武器もまだ残っている。
食糧をかき集め、宮や各地の砦を固め、有力豪族たちに最後の動員を命じれば、さらに抵抗を続けることもできるだろう。
だが、それを続けた先に何が残るのか。
大倭壱国連合軍を追い返せる見込みがあるわけでもない。
ただ戦を長引かせ、さらに多くの兵を死なせ、その家族を悲しませ、田畑を荒らし、出雲の民を巻き込むだけになる。
ここに集まった者たちは皆、それを理解していた。
広間の片隅には、八島士奴美も座っていた。
かつて須佐之男の長男として幾度となく兵を率い、父が亡くなった後もその意志を継ぐ者を自称して、大倭壱国との戦を続けてきた男である。
須佐之男亡き後、出雲国内で大国主と対立しながらも徹底抗戦を唱え、何度も筑紫への遠征を繰り返した。
大倭壱国への降伏など、かつての八島士奴美であれば真っ先に立ち上がって反対していたはずだった。
だが、今ではその身体もすっかり衰えている。長い年月は八島士奴美から戦場へ立つ力を奪い、もはや自ら武器を持って兵を率いることもできなかった。
事代主は、そんな八島士奴美へ視線を向けた。
八島士奴美なら何か言うかもしれない。
父、須佐之男の名を出し、その意志を忘れたのかと責めるかもしれない。まだ戦える、最後まで抵抗すべきだと訴えるかもしれない。
しかし、八島士奴美は何も言わなかった。
ただ俯き、膝の上に置いた両手を見つめている。
その姿を確認した事代主は、再び広間に集まった者たちへ視線を戻した。
「……異論はないか」
返事はなかった。
誰一人として声を上げない。
それは反抗の沈黙ではなかった。長く続いた戦を、ようやく終わらせることを受け入れた者たちの沈黙だった。
事代主はなおもしばらく待った。だが、最後まで立ち上がる者はいなかった。
やがて事代主は静かに目を閉じた。
「では、決まりだ」
その一言をもって、出雲は武器を置くことになった。
出雲は国境に設けられていた砦の門を開き、すべての兵に武装を解くよう命じた。長く大倭壱国連合軍の進軍を阻んできた砦から兵たちが退き、槍や剣、弓が次々と地へ置かれていく。
やがて大倭壱国連合軍が姿を現した。
しかし、迎え撃つ出雲兵はいなかった。
開け放たれた門を前にしても戦いは起こらず、大倭壱国連合軍は隊列を整えたまま砦を通過していく。
その先の村々でも抵抗する者はなく、軍勢は戦うことなく出雲本国の地へ足を踏み入れた。
長く続いた出雲と大倭壱国連合との戦いは、ついに終わろうとしていた。
一方、その頃には建御名方の姿はすでに出雲から遠く離れていた。
父の言葉に従った建御名方はひたすら東を目指した。近畿を越え、さらにその先の中部の山々へと入っていく。
大倭壱国の勢力からも、出雲の勢力からも遠く離れた地を求め、なおも東へ進み続けた。
やがて建御名方は、深い山々に囲まれた諏訪の地へたどり着いた。
建御名方はそこで足を止めた。もう出雲へ戻ることはなかった。
かつて出雲を守るため兵を率いて戦った若武者は、その後、この諏訪の地に住むことを決めた。
そして生涯、諏訪を出ることはなかったという。




