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邪馬台国叙事詩―神代建国譚―  作者: 月見


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一章 徐福伝説 十一話 伊邪那岐

 紀元前二百八年 冬。


 那岐が目を覚ました時、最初に感じたのは全身を包む鈍い痛みと、鼻を突く強烈な腐臭だった。

 生暖かい空気には血と土の匂いが混じり合い、吐き気を催すほど濃密に漂っている。ぼんやりとした意識のまま身を起こした那岐は、自分が巨大な穴の底に横たわっていることに気付いた。

 周囲には無数の死体が積み重なっている。顔を失った者、痩せ細った者、苦悶の表情のまま硬直した者……いずれも不死草の実験で命を落とした奴隷たちだった。

 那岐はしばらく状況を理解できなかった。最後の記憶は漣と抱き合いながら涙を流し、夜明けまで寄り添っていたことだけで、その後のことは何も覚えていない。泣き疲れて眠り、そのまま死んだものと思われたのだろう。他の死体と共に穴へ捨てられていたという事実が、ようやく頭の中で形を成し始める。

 ゆっくりと顔を上げると、穴の上では衛士たちが次々と死体を運んでいた。

 そして、その中に漣の姿を見つけた。


「……漣」


 衛士が片腕を掴み、荷物でも投げ捨てるように穴へ放り込もうとしている。乱れた黒髪は土にまみれ、青白い頬からは既に生気が失われていた。

 昨日まで笑っていた少女だった。未来を語り合い、互いの温もりを確かめ合った相手だった。


 その身体が荷物のように扱われ、無造作に捨てられようとしている光景を目にした瞬間、那岐の中で何かが決定的に壊れた。

 怒りと悲しみ、絶望と喪失感が濁流のように押し寄せ、理性も恐怖も一瞬で飲み込んでいく。


「触るな」


 低く絞り出した声と同時に轟音が響いた。


 那岐を中心に目に見えない力が爆発し、空気そのものが押し潰されたかのような衝撃が周囲へ広がる。地面は激しく震え、穴の縁にいた衛士たちの身体は巨大な圧力によって一斉に歪んだ。骨が砕け、肉が潰れる音だけを残して、彼らは悲鳴を上げる暇すらなく絶命する。


 無残な肉塊となった衛士たちを見下ろした那岐は息を呑んだ。飛び散った血を目にした瞬間、自分がやったのだという事実が脳裏を貫き、激しい吐き気が込み上げる。しかし、その視線が漣へ向けられた途端、そんな感情は跡形もなく消え去った。


 ただ怒りに身を任せただけだった。それでも現実には人が死に、自分だけが生き残っている。胸を締め付ける罪悪感と喪失感を抱えたまま、那岐は震える手で穴を登り切ると、漣の身体をそっと抱き上げた。


 その身体は冷たく、呼吸も脈も失われていた。それでも那岐は漣を抱き締めたまま立ち尽くした。冷たくなった身体を抱くたびに、失われた現実だけが胸へ突き刺さる。


「こんな場所に埋めさせない。絶対に」


 力強い声を出した瞬間、身体がふわりと浮き上がった。足元から重力が消えたように、那岐の身体は漣を抱いたまま宙へ昇っていく。


「……え?」


 理由は分からなかった。しかし今の那岐には、自分の身に何が起きているのかを考える余裕などなかった。


 漣を抱いたまま墓穴へ視線を向けると、そこには無数の死体が積み重なっている。共に苦しみ、共に生きた者たちは誰一人救われることなく冷たい骸となって放り込まれ、このままでは何が起きたのか調べられ、やがて徐福に生き残りを知られてしまうだろう。

 死んだ後ですら安らぎまで踏みにじられようとしている。


『燃えてしまえ……全部』


 そう願った瞬間、死体の山から轟音とともに炎が噴き上がった。紅蓮の炎は瞬く間に燃え広がって夜の闇を赤く染め、死体も衣服も顔も骨も容赦なく呑み込んでいく。やがて墓穴は激しく荒れ狂う火炎に包まれ、そこに積み上げられていたものが何だったのかさえ判別できなくなった。


 これで証拠は消える。誰が生き残ったのかさえ分からなくなるはずだったが、その異変に気付いた炎の異変に気付いた衛士たちが四方から集まり始めていた。。


「誰だ!」

「止まれ!」

「侵入者だ!」


 怒号が飛び交う。

 那岐は漣を抱いたまま、燃え盛る炎の前に静かに浮かんでいた。


 夜の闇を裂くように立ち上る紅蓮の炎が森を赤く染める中、その身体の周囲には青白い光が揺らめいている。光は生き物のように那岐の周囲を巡り、長い黒髪を見えない力でゆっくりと宙へ浮かび上がらせていた。


 抱きかかえられた漣の顎はわずかに上を向き、力を失った両腕は重力に従うように静かに垂れ下がっている。白い首筋は月光を浴びたように透き通り、閉じられた瞼と穏やかな寝顔は、まるで深い眠りについているかのようだった。風に揺れる長い髪は炎の光を受けて淡く輝き、その姿には死の冷たさと共に、息を呑むほどの美しさが残されていた。


 炎の赤と青白い光が交わる中、那岐の姿は人の輪郭を失いつつあった。淡く輝く瞳は深い悲しみを宿し、地面に触れぬ身体は音もなく宙に浮かび続ける。そこにいるのは少年の姿をした何かだった。


「まだ俺たちから奪い足りないのか……」


 那岐は腕の中の漣を見下ろした。


「こんなに酷い目に遭わせて……」


 どれだけ呼びかけても返事はない。頬に触れても温もりは戻らず、閉じられた瞼が開くこともなかった。


 衛士たちは剣を抜きながらも容易には近寄れず、円を描くように包囲を狭めていた。しかし那岐の意識は彼らへ向けられてはいない。

 腕の中にいる漣だけが世界のすべてだった。


「もう誰にも奪わせない……」


 冷たくなった頬を額に寄せる。


「この人だけは絶対に渡さない!だから……!」


 胸の奥で燻り続けていた感情が、ついに形を持った。

 右手から白い光が滲み出し、瞬く間に眩い輝きとなって周囲を照らし出す。衛士たちは異変に気付き足を止めたが、何が起きているのか理解できないまま息を呑んだ。


「この世から、いなくなれぇぇぇっ!」


 絶叫とともに那岐は右腕を横薙ぎに振る。

 本当にそれだけだった。

 だが次の瞬間、空間そのものが裂けたかのように白い閃光が一直線に走り抜け、夜の闇を真っ二つに切り裂いた。

 衛士たちは何が起きたのか理解する暇もなかった。


 ほんの一瞬の静寂の後、先頭の衛士の身体がずるりと滑り落ちる。胸から上が地面へ転がり、遅れて噴き上がった鮮血が雪を赤く染めた。

 それを合図にしたかのように、並んでいた衛士たちの身体も次々と崩れ落ちる。

 上半身と下半身は綺麗に断ち切られ、断末魔を上げる暇すら与えられないまま全員が絶命していた。

 血飛沫が舞い、雪原は一瞬で赤黒く染まる。


 夜風が吹き抜けるたびに炎が揺れ、周囲には倒れた衛士たちの姿が散らばり、砕けた土と焼け焦げた木片が黒い雪のように舞っていたが、その惨状の中心で那岐はただ一人、漣を抱き締めたまま動かなかった。


「漣……俺は、漣が好きだった」


 枯れた声は夜風に溶ける。


 那岐は自嘲するように小さく首を振った。


「違うな。愛している」


 その言葉だけは、今伝えなければならなかった。


「ずっと前から愛していた。漣といる時間が何より大切だったし、お前とならどこへでも行けると思っていた」


 もっと早く伝えればよかった。もっと強引にでも連れ出せばよかった。そんな後悔が胸を締め付けるが、今さら何を悔やんでも漣は戻らない。

 那岐はそっと額を重ね、冷たくなった唇へ静かに口づけた。


「だから、一人にはしない。どこへ行くことになっても、一緒だ」


 それは願いではなく誓いだった。

 やがて那岐は漣を抱き直し、壊れ物を扱うように腕へ包み込むと、優しく微笑みながら囁いた。


「行こう」


 返事はない。

 それでも那岐は構わなかった。


「静かな場所へ。海が見える場所がいいな」


 潮風の中で笑う漣の姿が脳裏に浮かぶ。


「誰にも邪魔されない場所で、ずっと一緒にいよう」


 次の瞬間、那岐の足元で大地が砕け、轟音とともに北の空へ飛び去った。

 燃え盛る墓穴を見下ろしながらも、その腕には変わらず漣が抱かれている。

 月明かりに照らされた二人の姿は、まるで寄り添う夫婦のようだった。


 やがてその姿は黒い空へ溶け込むように北へ向かい、次第に小さくなっていく。

 地上には炎だけが残された。

 後に伊邪那岐と呼ばれることになる少年は、この夜、人としての在り方を失った。


 そして神代が始まる。


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