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そのヒロイン、俺なんだけど。  作者: 週休七日


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返事は、まだ空欄

昔の写真を見返した。


 そこには、男の身体だった俺がいた。


 晴人の肩に腕を回している。

 晴人の食べ物を勝手につまんでいる。

 晴人がカメラを向けると、だいたい、嫌そうな顔をしている。


 そんなに嫌なら、写らなければよかったのに。


 写真は何枚もあった。


 晴人自身が写っているものは、あまり多くなかった。


 あいつが撮っていたからだ。


 俺の記憶の中には、俺が見ていた晴人だけではなく、晴人が見ていた俺も残っていた。


 一枚の写真で、指を止めた。


 晴人が、バイト先の女の子に食事へ誘われたと言った夜。


 俺は「いいじゃん」と答えた。


 それから、妙に機嫌が悪くなった。


 彼女ができたら、うちに来る頻度は減るだろう。


 夜中にくだらない画像を送るのも、控えたほうがいいのだろう。


 自分のいた場所に、知らない人が座る。


 それが嫌だった。


 あれは恋だったのだろうか。


 少し考えて、やめた。


 友達を取られたくなかっただけかもしれない。


 あのころの俺は、本当にそう思っていたのかもしれない。


 いまの気持ちに都合よく、過去の全部を恋の伏線にしたくはなかった。


 わからないことは、わからないままだ。


 ただ、いま、わかっていることもある。


 買った服を着て、最初に見せたいと思った相手が晴人だった。


 似合っていると言われて嬉しかった。


 手を離したとき、もう少しだけと思った。


 告白されて困った。


 それでも、聞かなかったことにはしたくなかった。



     *



 土曜日の昼、姉が様子を見に来た。


「ずっとスマホ見てるね」


「見てない」


「持ったまま三分くらい画面消えてるけど」


 俺はスマートフォンを机に置いた。


「好きかどうかって、どうやったらわかる?」


「随分大きい質問するね」


「忘れろ」


「もう聞いた」


 姉は冷蔵庫から麦茶を出した。


「相手、晴人くん?」


「何でわかるんだよ」


「服を選んでるとき、鏡よりスマホ見てたから」


「それだけで?」


「晴人くんから何か来てないか確認してたんでしょ」


 何も言い返せなかった。


 姉は向かいに座った。


「一生分の答えを、いま決めなくてもいいんじゃない」


「でも、好きって言われた」


「じゃあ、いま何がしたいかだけ考えれば?」


 簡単に言うなと思った。


 けれど、それなら答えられた。


「会いたい」


「うん」


「手をつないだのも、嫌じゃなかった」


「うん」


「離したあと、ちょっと残念だった」


「それを言えばいいんじゃない」


「それを本人に言ったら死ぬ」


「病院には、恥ずかしさで死ぬ症例は載ってなかったよ」


「勝手に資料読むな」


 姉は笑った。


 俺も、少しだけ笑った。



     *



 晴人へメッセージを送った。


『今日、行っていいか』


 返事はすぐに来た。


『もちろん』


 インターホンを押す前に、三回、息を吐いた。


 扉が開く。


 晴人が俺を見る。


「……入る?」


「その前に」


 俺は拳を差し出した。


 晴人はその手を見た。


 それから、自分の拳を軽くぶつけた。


 こつ、と小さな音がした。


 たったそれだけだった。


 それだけのことが、どうしてこんなに嬉しいのか、あいつには説明してやらなかった。



     *



 いつもの黄色いマグに水をもらい、机に向かった。


 ネームが置かれている。


 俺は一枚目を手に取った。


 傘の場面がなくなっていた。


 カレーパンも、黄色いマグもない。


『大丈夫じゃないときくらい、私を使ってよ』


 あの台詞も、別の無難な言葉へ変わっていた。


『私でよければ、お話を聞きます』


 丁寧で、優しい。


 そして、少しも心に残らなかった。


 最後のページには、新しい台詞が入っている。


『ごめんなさい。これからも、友達でいてください』


 俺は晴人を見た。


 晴人は露骨に目を逸らした。


「何だよ、これ」


「勝手にお前を使うのは、よくないから」


「だからって、勝手に全部消すなよ」


「でも」


「俺の返事、まだしてないだろ」


「してない」


「空欄だからって、お前が勝手に『友達のまま』って書くな」


 晴人が黙った。


 俺はネームを机に戻した。


「俺の言葉を勝手に使うな」


「うん」


「でも、俺のことを勝手にいなかったことにもするな」


「……うん」


「使うか、消すか、俺に決めさせろ」


 口にして、ようやくわかった。


 俺が腹を立てていたのは、モデルにされたことだけではない。


 晴人の漫画から俺が消えたことが、嫌だった。


 そこに自分の居場所がなくなったように感じた。


「条件がある」


「何でも言って」


「俺が言ったことを使うときは、先に見せろ」


「わかった」


「恥ずかしかったことを、勝手に可愛い話にするな」


「わかった」


「カレーパンは変えろ」


「そこ?」


「実際に言ったときは、ヒロインのつもりじゃなかった」


「何パンならいい?」


「メロンパン」


「証拠隠滅にならない?」


「お前が言ったんだろ」


 晴人が笑った。


 その笑い方を見て、少しだけ肩の力が抜けた。



     *



 俺はネームを裏返した。


「これは、いったん閉じろ」


「うん」


「いまから言うのは、漫画のヒロインの台詞じゃないから」


 晴人が椅子ごと俺へ向き直った。


 手のひらが湿っていた。


 格好をつけるなら、もう少し上手くやりたかった。


 男の身体だったころの俺なら。


 そう考えかけて、やめた。


 男だったころの俺だって、こんな場面で上手く喋れる人間ではなかった。


「この前の話」


 晴人が、俺を見る。


「嬉しかった」


 言った瞬間、耳まで熱くなった。


「好きって言われて。……嬉しかったんだよ。それに、自分でびっくりした」


 晴人は何も言わなかった。


 俺の言葉が次に出てくるのを、待っている。


「正直、まだ、自分の声にも慣れてない。服も、歩く感じも。お前が近くにいると、それまでわからなくなる」


「うん」


「身体が変わったから、お前のことを近く感じてるのかもしれない。前からそうだったのに、気づかなかっただけかもしれない」


「うん」


「だから、好きかどうかは、まだわからない」


 晴人の顔が少しだけ強張った。


 それでも、目を逸らさなかった。


「でも、会いたかった」


 俺は続けた。


「手を離したあと、もう少しつないでいたいと思った」


 晴人の目が、大きくなった。


 漫画みたいだと思った。


 人は本当に驚くと、ああいう顔をするのだ。


「返事は、まだ空欄」


「うん」


「でも、空欄だからって、勝手に終わらせるな」


「うん」


「俺が決めるまで――」


 喉が詰まった。


 ここまで言ったのだから、最後まで言え。


「隣にいろ」


 晴人は、数秒黙った。


「ここ、俺の部屋だけど」


「お前、漫画家志望なのに文脈も読めないのか」


「ごめん。嬉しくて、ちょっと変になった」


「それなら仕方ない」


 俺は手を差し出した。


 今度は、拳ではなかった。


「これは、資料じゃないから」


 晴人はその手を見た。


「……いいの?」


「同じことを二回言わせると、恥ずかしくて死ぬ」


 晴人の手が重なった。


 写真は撮らなかった。


 見栄えのいい角度にも直さなかった。


 指が少しぶつかった。


 どこへ置けばいいのかわからず、二人で握り直した。


 それでよかった。


「律」


「何」


「好きだよ」


 真正面から言われた。


 逃げ場がなかった。


 俺は俯きかけて、顔を上げた。


「……うん」


「可愛い」


「それは今言うな」


「いつならいいの」


「俺が耐えられるとき」


「いつ?」


「知らねえよ」


 晴人が笑った。


 いつもの笑い方に、初めて見るものが混じっていた。


「一日三回までにしろ」


「三回は言っていいんだ」


「いまのは二回目だからな」


「数えてたんだ」


「うるさい」


 手は、離れなかった。



     *



 しばらくしてから、俺は裏返したネームを表に戻した。


「最後の台詞」


「うん」


「さっきのまま使うなよ」


「使わない」


「絶対だぞ」


「二人で考える?」


 俺たちは、手をつないだまま、空欄の吹き出しを見た。


 何度か候補を書いた。


『待って』


『まだ、わからない』


『帰らないで』


 どれも間違いではない。


 けれど、少しずつ足りなかった。


 最後に、俺が言った。


「返事はまだ。だから、もう少し隣にいて」


 晴人が顔を上げた。


「それ」


「漫画用だからな」


「わかってる」


「俺の返事は、もっと保留」


「わかってる」


 晴人は新しい文字を、白い吹き出しへ入れた。


『返事はまだ。だから、もう少し隣にいて』


 ヒロインはそう言って、主人公の袖をつかんでいる。


 最後のコマでは、袖から手へ、持ち直していた。



     *



 日曜日の二十三時四十七分。


 原稿が完成した。


 晴人は応募画面の前で、何度もファイル名を確認した。


「押すぞ」


「早く押せ。締切前にサーバーが落ちるぞ」


「そういう怖いこと言うなよ」


 晴人が送信ボタンを押した。


 画面に、応募完了の文字が出る。


 二人で息を吐いた。


「間に合った」


「俺が来なかったら、振られて終わる漫画を出すところだったな」


「そこまで言わなくても」


「主人公に感情移入してたんだろ」


「……してました」


 俺は机の上の黄色いマグを持ち上げた。


「これ、漫画だと少し猫っぽく描き直してただろ」


「猫だから」


「実物を見ろ。キリンだ」


 晴人が笑った。


 俺も笑った。


 漫画の返事は、締切に間に合った。


 俺自身の返事は、まだ完成していない。


 それでも、空欄のまま逃げるのではなく、自分の言葉で続きを書いていける。


 いまは、それで十分だった。

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