今日は、こっち
六週間後。
晴人の漫画が、新人賞の佳作に選ばれた。
受賞の連絡が来たとき、俺は晴人の部屋で動画の書き出しを待っていた。
電話に出た晴人は、最初の一分、ほとんど「はい」しか言わなかった。
電話を切ってからも、スマートフォンを耳に当てたまま動かない。
「どうだった」
「佳作」
「うん」
「ウェブに掲載するって」
「うん」
「それから、連載用の企画を考えてみないかって」
晴人が、ようやく俺を見た。
「律」
「何」
「連載だって」
俺は立ち上がった。
拳を差し出す。
晴人も笑いながら拳を出した。
二つの拳がぶつかる。
次の瞬間、晴人が俺を抱きしめようとした。
途中で止まった。
「これは?」
「確認すんな。勢いが死ぬ」
「じゃあ」
「今日だけな」
晴人の腕が、恐る恐る背中へ回った。
俺も、行き場を失った手を、あいつの服へ置いた。
身体は、まだ慣れないことばかりだった。
けれど、晴人に触れることへの戸惑いは、少しずつ、嫌ではない戸惑いへ変わっていた。
*
掲載された漫画で、読者から一番人気だったのはヒロインだった。
『言い方は可愛くないのに、行動がずっと可愛い』
『この二人の続きを読みたい』
『黄色いマグの動物は何?』
感想を読み上げると、晴人は得意そうな顔をした。
「ちゃんと伝わってる」
「最後のは伝わってないぞ」
「猫だよ」
「読者はアルパカって言ってる」
「猫なのに」
連載企画を作るにあたり、晴人は俺へネームを見せるようになった。
俺の言葉を使うときは、必ず聞く。
俺も、使われたくないことは使うなと言う。
ヒロインは俺ではない。
晴人が見た俺を材料に、晴人が作った、別の人物だ。
だから、俺なら絶対に言わない台詞もある。
それでいい。
俺の人生より先に、漫画のヒロインが恋愛を進めそうになると、少し腹は立つが。
*
受賞祝いを兼ねて、初めての正式なデートをすることになった。
身体は、まだ元に戻っていない。
病院へも通っている。
原因も、今後どうなるのかもわからない。
昨日も、髪を結び直すだけで結構な時間がかかった。
それでも、その朝、鏡の前で悩んだ理由は、以前とは少し違った。
変ではないか。
似合っているか。
そして、あいつは、どんな顔をするだろう。
そう思いながら服を選んだ。
待ち合わせ場所には、晴人が先に来ていた。
いつも部屋で着ているものとは違うシャツを着ている。
こちらに気づくと、スマートフォンをしまおうとして、一度ポケットを外した。
俺は笑った。
「緊張してんの?」
「してるけど」
あまりに素直に認めるので、こっちが困った。
「……俺も」
晴人が笑った。
それから、いつもの拳を差し出した。
俺はその前で、握っていた手を開いた。
「今日は、こっち」
晴人が一瞬、止まった。
その顔が見たかったのかもしれない。
拳がほどけ、俺の手を取った。
少し汗ばんでいる。
俺も同じだった。
「手、汗かいてる」
「お前もだろ」
「漫画だと、こういうところ描かないな」
「描けよ。大事なところだろ」
晴人は、真面目に頷いた。
その顔を見て、俺はまた笑ってしまった。
*
歩き出してから、晴人が言った。
「律」
「何」
「もし、身体が戻ったら」
つないだ手に、少しだけ力が入った。
あの日、俺が一度だけ聞き、二人で答えを先送りにしたことだった。
「俺が好きだって言ったせいで、戻りたいって言えなくなるのは嫌だ」
「うん」
「戻りたいのか、このままがいいのか。まだ決めたくないのか。それは、お前が決めていい」
「うん」
「そのとき、俺たちがどうするかは、また二人で話したい」
晴人は、俺の手を強く握りすぎない。
いつでも離せるようにしている。
「男だったお前を好きだったのは、本当だから。戻ったら全部終わりだって、勝手に決めるなよ」
「そっちこそ」
「うん」
俺は自分から、指を絡め直した。
「いまは、これでいい」
晴人が笑った。
「可愛い」
「今日一回目」
「まだ二回言える」
「使い切ろうとするな」
*
デートの帰り、晴人の部屋へ寄った。
冷蔵庫を開ける。
卵。
野菜。
肉。
炊いた米。
そして、一番上の棚にプリンが二つ。
「成長したな」
「何が」
「プリンが夕飯からデザートに昇格してる」
「律に叱られたから」
「初対面の女に叱られたんじゃなかったのか」
晴人が、少し考えるふりをした。
「初対面だと思ってた女の子に」
「女の子って言うな。恥ずかしい」
「可愛い女の子に」
「今日二回目」
晴人は笑いながら、夕飯の準備を始めた。
俺はいつもの黄色いマグを取る。
晴人が振り返った。
「そのマグ、そろそろ新しいのにする?」
「何で」
「底、欠けてるから」
「まだ使える」
「そうだけど」
「それに、ここで俺が使うやつ、これだろ」
晴人が、少しだけ目を細めた。
「うん」
その返事が気恥ずかしくて、俺はマグの猫を指さした。
「ただし、次の漫画では、もっとキリンらしく描け」
「猫だから」
「まだ言うか」
俺たちは夕飯を食べた。
プリンは、ちゃんと夕飯のあとに二人で食べた。
身体も、声も、これからのことも、まだわからない。
けれど、隣にいるのは知っている人だった。
俺はその人と、知らない恋を始めた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
本作では、第一話に置いた小さな違和感を、正体当てだけで終わらせず、二人の関係そのものへつなげました。
差し出された拳は、友達だった二人の挨拶。
最後に開かれた手は、律が自分で選んだ新しい関係です。
黄色いマグは、晴人の部屋に以前から存在していた律の居場所。
プリンは、晴人の生活を律がどれだけ知っているかを示すと同時に、最後には二人で食べるデザートになります。
そして、漫画に残された空欄の吹き出しは、律自身の返事でもありました。
律は、晴人の告白へすぐ「好き」とは答えません。
身体が変わったから感じているものなのか。
以前からあった気持ちに、ようやく気づいただけなのか。
過去を都合よく恋愛の伏線へ変えず、わからないものはわからないままにしています。
それでも、
会いたい。
手を離したくなかった。
勝手に終わらせてほしくない。
いまわかっている気持ちだけは、自分の言葉で伝えました。
誰かにヒロインとして描かれるのではなく、自分の返事を自分で決める。
そんな律の物語として楽しんでいただけていれば幸いです。
なお、作中の《性転変異症》は架空の現象です。




