↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
そのヒロイン、俺なんだけど。  作者: 週休七日


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
3/5

そのヒロイン、俺なんだけど。

三日たっても、身体は元に戻らなかった。


 仕事先には、声と外見が変わった事情を説明した。

 家族とは何度か通話した。

 病院から渡された資料も、ようやく最初から最後まで読んだ。


 変化は一晩だったのに、生活の変更は一つずつだった。


 髪を結ぶのには、毎回手間取った。


 借りたズボンの浅いポケットから、スマートフォンが落ちた。


 姉に文句を言うと、


「女の身体の問題じゃなくて、その服のポケットの問題でしょ」


 と返された。


 そのとおりだった。


 俺は、目の前で起きた不便を片っ端から「女になったせい」にする癖がつきかけていた。


 知らないことが多すぎて、全部に同じ名札を貼りたくなっていた。



     *



 木曜日、姉と服を買いに行った。


 いつまでも借り物ばかりでは困る。


 それに、自分で選んだ服が一つくらい欲しかった。


 着られるサイズのパンツを探していると、隣にあったスカートが目に入った。


 紺色の、裾が長いやつだ。


 姉がそれを手に取った。


「試してみる?」


「いや、別に」


「見てたから」


「見てただけだろ」


「うん。試すだけなら、ただだよ」


 言い返す理由を探した。


 見つからなかったので、試着室へ持って入った。


 鏡の前で、裾をつまんだ。


 歩くと、少し遅れて布が揺れた。


 似合わないとは思わなかった。


 それが、ちょっと困った。


 嫌なら脱げばいいだけだ。


 なのに、悪くないと思ったことを、誰かに知られるのが恥ずかしかった。


 カーテンを少し開けると、姉がこちらを見た。


「どう?」


「……変じゃない?」


「私は似合うと思う。律は?」


 鏡を、もう一度見た。


「嫌じゃない」


「じゃあ、それでいいんじゃない」


 姉はそれ以上、何も言わなかった。


 俺はそのスカートと、ポケットの深いパンツを一本ずつ買った。


 どちらも、俺が選んだ服だった。



     *



 その日の夕方、晴人の部屋へ行った。


 履いていたのは、スカートのほうだった。


 見せるためではない。


 せっかく買ったからだ。


 そういう説明を頭の中で用意していたら、扉が開いた。


 晴人が俺を見て、止まった。


 俺も止まった。


「何だよ」


「いや」


 視線が、服から顔へ戻ってきた。


「似合ってる」


 俺は靴を脱いだ。


 紐もない靴なのに、ずいぶん時間がかかった。


「……原稿は」


「進んでる」


「俺のほう見てる暇があるなら描けよ」


「いま玄関なんだけど」


 知っている。


 俺が理不尽なことも、知っていた。



     *



 漫画の最後の四ページは、まだ下描きに入っていなかった。


 主人公がヒロインへ告白する。


 その前に、主人公がヒロインの手を取る。


 その手が、上手く描けないらしい。


「手なんて、毎日描いてんだろ」


「剣を握ってるのと、好きな人の手を握ってるのは違う」


「剣を握ったこともないくせに」


「正論で仕事を潰すな」


 画面を覗き込んだ。


 確かに少し変だった。


 恋愛漫画というより、手首の痛みを診てもらっている人に見える。


「資料を撮れば」


「一人だと、両方の手をこの角度にするのが――」


 そこで晴人が止まった。


 俺も止まった。


 言い出したのは俺だった。


 引っ込めるには遅かった。


「……手くらい、貸すけど」


「いいの?」


「今さらだろ」


 今さらではなかった。


 全然、今さらではなかった。



     *



 スマートフォンを固定し、二人で向かい合った。


「写すのは手だけだから」


「わかってる」


「途中でも、嫌だったら言って」


「わかったって」


 確認を重ねられるほど、大変なことをするような気がしてくる。


 晴人が手を差し出した。


 いつもペンを持っている手だ。


 指の関節が少し目立って、爪は短い。


 そんなものを俺がじっくり観察する日が来るとは思わなかった。


 俺も手を出した。


 指先が触れた。


 それだけで、肩に力が入った。


「もっと自然に」


「自然な手のつなぎ方を知ってたら苦労しねえよ」


「そっちじゃなくて、俺に言った」


 見れば、晴人の手も固かった。


 俺はあいつの顔を見た。


 目が合った。


 晴人が先に逸らした。


 そこで、ようやく気づいた。


 こいつも平気なわけではない。


 自分ばかり恥ずかしいのだと思っていた。


 晴人はいつもどおりに見えて、いつもどおりの顔を作ろうとしているだけだった。


 そうわかると、少し息がしやすくなった。


「力、入ってんぞ」


「お前も」


「お互い様か」


「うん」


 指が、ゆっくり重なった。


 見慣れた手だった。


 けれど、触れたことのない場所に触れていた。


 俺の手は、晴人の手の中に収まった。


 それが悔しいのか、落ち着くのか、自分でもわからなかった。


 撮影音が鳴る。


 俺たちは同時に手を離した。


 離してから、同時に水を飲んだ。


 漫画だったら、間違いなく省かれる場面だと思った。



     *



 晴人が写真を取り込んでいるあいだ、俺は机の上のネームを見た。


 前に見た一枚だけではない。


 最初から順番に、紙が重ねられている。


「これ、もう読んでいい?」


 晴人の指が止まった。


 少し間があってから、頷いた。


「……最後は、まだ空欄だけど」


「知ってる。手首を診てたし」


「そこは直す」


 俺は一枚目を取った。


 主人公の少年は、漫画を描いていた。


 その隣で、いつも機嫌が悪そうな少女が、文句を言っている。


 口の悪いやつだと思った。


 ページをめくる。


 少女が傘を相手側へ傾けている。


 自分の肩が濡れていると指摘されると、怒った顔で言った。


『そっちの鞄、原稿入ってるんでしょ』


 もう一枚。


 少年が、無理に笑っている。


 少女が紙袋を押しつける。


『食べてるあいだなら、愚痴聞く』


 俺は手を止めた。


 少女が使っているマグには、奇妙な動物が描かれていた。


「これ、猫か?」


「猫だけど」


「どう見てもキリンだろ」


 晴人は答えなかった。


 俺は一つ前のページに戻った。


 心配した少年に、少女が言っている。


『嫌なら、とっくに帰ってるよ』


 最初に見た台詞だけではなかった。


 傘も。

 食べ物の押しつけ方も。

 心配するときほど、怒った顔になるところも。


 その少女は、俺が忘れていた俺の行動をしていた。


 あの日、俺はこんな顔をしていたのだろうか。


 そう考えてから、これは、晴人が見ていた顔なのだと気づいた。


 俺は紙を持ったまま、あいつを見た。


「なあ」


「うん?」


「そのヒロイン、俺なんだけど」


 ペンが止まった。


 晴人は、長く黙った。


 俺の手の中で、紙の端が少し曲がった。


「……最初は、一部だけのつもりだった」


 晴人は画面を見たまま言った。


「描いてたら、こうなった」


「一部どころじゃねえだろ」


「うん」


「カレーパンまで出てくるぞ」


「そこはメロンパンに変えようと思ってた」


「証拠隠滅が雑」


 笑うつもりで言った。


 上手く笑えなかった。


 晴人が、ようやくこちらを向いた。


 漫画の感想を待つときも、こんな顔はしない。


 褒めてほしいのに、褒められると困る。


 怒られる覚悟はしているのに、本当に怒られたら立っていられない。


 そんな顔だった。


「なんで、女に描いたんだよ」


 聞くと、晴人の喉が動いた。


「……男のお前を、そのまま描いたら」


「うん」


「俺が、お前を好きだって認めるしかなくなるから」


 部屋の音が、小さくなった。


「女の子にすれば、恋愛漫画だからって言い訳できると思った」


 俺は紙の上の少女を見た。


 これは、俺ではない。


 髪も、服も、性別も違う。


 けれど、晴人が俺を見て覚えていたものが、そこにあった。


「俺が女になったから、言う気になった?」


「違う」


 即答だった。


「この漫画、月曜より前から描いてただろ」


 俺は言った。


「うん」


「じゃあ、いつから」


「この漫画より、もっと前」


 困った。


 その答えのほうが、ずっと困った。


 俺はずっと、今回の変化を境目にして考えていた。


 男の身体だった日曜日まで。


 女の身体になった月曜日から。


 けれど、晴人の中では、そんなふうに分かれていなかった。


「正直に言う」


 晴人は膝の上で手を握った。


「月曜、お前だってわかったあと、一瞬、これなら伝えられるかもしれないって考えた」


 胸が、ちくりとした。


「お前があんなに困ってたのに、俺だけ助かったみたいなことを考えた。それが、すげえ嫌だった」


「晴人」


「だから、女になってから好きになったことにはしたくない」


 晴人は、まっすぐ俺を見た。


「男だったお前を好きだったのまで、嘘にしたくない」


 嬉しい。


 困る。


 怖い。


 そんなはずがない。


 いろんな感情が、同じ場所に押しかけてきた。


 俺は、男だぞ。


 そう言おうとして、やめた。


 目の前の男は、それを知っていて、ずっと黙っていたのだ。


 俺は、もう一度ネームを見た。


「俺の言葉、勝手に使ったんだな」


「……うん。ごめん」


「俺が嫌だったことまで、勝手に可愛いことにするなよ」


「ごめん」


 晴人は言い訳しなかった。


「嫌なら、全部直す。締切に間に合わなくても、これは出さない」


「そういうのも、いま決められない」


「うん」


「好きかどうかも、わかんない」


「わかった」


「返事がいつできるかも、わからない」


「それでいい」


 晴人の言葉は、用意された綺麗な台詞ではなかった。


 だから、信じられた。


「……今日は帰る」


 立ち上がると、晴人も玄関まで来た。


 靴を履いている俺に言った。


「律」


 振り返るのが、少し怖かった。


「お前の人生まで、俺の締切に合わせなくていいから」


 俺は変な声で笑った。


 恋愛漫画を描いているくせに。


 大事なところで、締切なんか持ち出すな。


 そんな言葉に救われる俺も、どうかしていた。



     *



 帰宅してから、メッセージを送った。


『着いた』


 返事は、すぐに来た。


『よかった』


 それだけだった。


 返事の催促も、漫画の話の続きもなかった。


 俺はスマートフォンを伏せた。


 晴人の漫画には、最後まで台詞の入っていない吹き出しがある。


 俺の返事も、まだ空欄だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。