そのヒロイン、俺なんだけど。
三日たっても、身体は元に戻らなかった。
仕事先には、声と外見が変わった事情を説明した。
家族とは何度か通話した。
病院から渡された資料も、ようやく最初から最後まで読んだ。
変化は一晩だったのに、生活の変更は一つずつだった。
髪を結ぶのには、毎回手間取った。
借りたズボンの浅いポケットから、スマートフォンが落ちた。
姉に文句を言うと、
「女の身体の問題じゃなくて、その服のポケットの問題でしょ」
と返された。
そのとおりだった。
俺は、目の前で起きた不便を片っ端から「女になったせい」にする癖がつきかけていた。
知らないことが多すぎて、全部に同じ名札を貼りたくなっていた。
*
木曜日、姉と服を買いに行った。
いつまでも借り物ばかりでは困る。
それに、自分で選んだ服が一つくらい欲しかった。
着られるサイズのパンツを探していると、隣にあったスカートが目に入った。
紺色の、裾が長いやつだ。
姉がそれを手に取った。
「試してみる?」
「いや、別に」
「見てたから」
「見てただけだろ」
「うん。試すだけなら、ただだよ」
言い返す理由を探した。
見つからなかったので、試着室へ持って入った。
鏡の前で、裾をつまんだ。
歩くと、少し遅れて布が揺れた。
似合わないとは思わなかった。
それが、ちょっと困った。
嫌なら脱げばいいだけだ。
なのに、悪くないと思ったことを、誰かに知られるのが恥ずかしかった。
カーテンを少し開けると、姉がこちらを見た。
「どう?」
「……変じゃない?」
「私は似合うと思う。律は?」
鏡を、もう一度見た。
「嫌じゃない」
「じゃあ、それでいいんじゃない」
姉はそれ以上、何も言わなかった。
俺はそのスカートと、ポケットの深いパンツを一本ずつ買った。
どちらも、俺が選んだ服だった。
*
その日の夕方、晴人の部屋へ行った。
履いていたのは、スカートのほうだった。
見せるためではない。
せっかく買ったからだ。
そういう説明を頭の中で用意していたら、扉が開いた。
晴人が俺を見て、止まった。
俺も止まった。
「何だよ」
「いや」
視線が、服から顔へ戻ってきた。
「似合ってる」
俺は靴を脱いだ。
紐もない靴なのに、ずいぶん時間がかかった。
「……原稿は」
「進んでる」
「俺のほう見てる暇があるなら描けよ」
「いま玄関なんだけど」
知っている。
俺が理不尽なことも、知っていた。
*
漫画の最後の四ページは、まだ下描きに入っていなかった。
主人公がヒロインへ告白する。
その前に、主人公がヒロインの手を取る。
その手が、上手く描けないらしい。
「手なんて、毎日描いてんだろ」
「剣を握ってるのと、好きな人の手を握ってるのは違う」
「剣を握ったこともないくせに」
「正論で仕事を潰すな」
画面を覗き込んだ。
確かに少し変だった。
恋愛漫画というより、手首の痛みを診てもらっている人に見える。
「資料を撮れば」
「一人だと、両方の手をこの角度にするのが――」
そこで晴人が止まった。
俺も止まった。
言い出したのは俺だった。
引っ込めるには遅かった。
「……手くらい、貸すけど」
「いいの?」
「今さらだろ」
今さらではなかった。
全然、今さらではなかった。
*
スマートフォンを固定し、二人で向かい合った。
「写すのは手だけだから」
「わかってる」
「途中でも、嫌だったら言って」
「わかったって」
確認を重ねられるほど、大変なことをするような気がしてくる。
晴人が手を差し出した。
いつもペンを持っている手だ。
指の関節が少し目立って、爪は短い。
そんなものを俺がじっくり観察する日が来るとは思わなかった。
俺も手を出した。
指先が触れた。
それだけで、肩に力が入った。
「もっと自然に」
「自然な手のつなぎ方を知ってたら苦労しねえよ」
「そっちじゃなくて、俺に言った」
見れば、晴人の手も固かった。
俺はあいつの顔を見た。
目が合った。
晴人が先に逸らした。
そこで、ようやく気づいた。
こいつも平気なわけではない。
自分ばかり恥ずかしいのだと思っていた。
晴人はいつもどおりに見えて、いつもどおりの顔を作ろうとしているだけだった。
そうわかると、少し息がしやすくなった。
「力、入ってんぞ」
「お前も」
「お互い様か」
「うん」
指が、ゆっくり重なった。
見慣れた手だった。
けれど、触れたことのない場所に触れていた。
俺の手は、晴人の手の中に収まった。
それが悔しいのか、落ち着くのか、自分でもわからなかった。
撮影音が鳴る。
俺たちは同時に手を離した。
離してから、同時に水を飲んだ。
漫画だったら、間違いなく省かれる場面だと思った。
*
晴人が写真を取り込んでいるあいだ、俺は机の上のネームを見た。
前に見た一枚だけではない。
最初から順番に、紙が重ねられている。
「これ、もう読んでいい?」
晴人の指が止まった。
少し間があってから、頷いた。
「……最後は、まだ空欄だけど」
「知ってる。手首を診てたし」
「そこは直す」
俺は一枚目を取った。
主人公の少年は、漫画を描いていた。
その隣で、いつも機嫌が悪そうな少女が、文句を言っている。
口の悪いやつだと思った。
ページをめくる。
少女が傘を相手側へ傾けている。
自分の肩が濡れていると指摘されると、怒った顔で言った。
『そっちの鞄、原稿入ってるんでしょ』
もう一枚。
少年が、無理に笑っている。
少女が紙袋を押しつける。
『食べてるあいだなら、愚痴聞く』
俺は手を止めた。
少女が使っているマグには、奇妙な動物が描かれていた。
「これ、猫か?」
「猫だけど」
「どう見てもキリンだろ」
晴人は答えなかった。
俺は一つ前のページに戻った。
心配した少年に、少女が言っている。
『嫌なら、とっくに帰ってるよ』
最初に見た台詞だけではなかった。
傘も。
食べ物の押しつけ方も。
心配するときほど、怒った顔になるところも。
その少女は、俺が忘れていた俺の行動をしていた。
あの日、俺はこんな顔をしていたのだろうか。
そう考えてから、これは、晴人が見ていた顔なのだと気づいた。
俺は紙を持ったまま、あいつを見た。
「なあ」
「うん?」
「そのヒロイン、俺なんだけど」
ペンが止まった。
晴人は、長く黙った。
俺の手の中で、紙の端が少し曲がった。
「……最初は、一部だけのつもりだった」
晴人は画面を見たまま言った。
「描いてたら、こうなった」
「一部どころじゃねえだろ」
「うん」
「カレーパンまで出てくるぞ」
「そこはメロンパンに変えようと思ってた」
「証拠隠滅が雑」
笑うつもりで言った。
上手く笑えなかった。
晴人が、ようやくこちらを向いた。
漫画の感想を待つときも、こんな顔はしない。
褒めてほしいのに、褒められると困る。
怒られる覚悟はしているのに、本当に怒られたら立っていられない。
そんな顔だった。
「なんで、女に描いたんだよ」
聞くと、晴人の喉が動いた。
「……男のお前を、そのまま描いたら」
「うん」
「俺が、お前を好きだって認めるしかなくなるから」
部屋の音が、小さくなった。
「女の子にすれば、恋愛漫画だからって言い訳できると思った」
俺は紙の上の少女を見た。
これは、俺ではない。
髪も、服も、性別も違う。
けれど、晴人が俺を見て覚えていたものが、そこにあった。
「俺が女になったから、言う気になった?」
「違う」
即答だった。
「この漫画、月曜より前から描いてただろ」
俺は言った。
「うん」
「じゃあ、いつから」
「この漫画より、もっと前」
困った。
その答えのほうが、ずっと困った。
俺はずっと、今回の変化を境目にして考えていた。
男の身体だった日曜日まで。
女の身体になった月曜日から。
けれど、晴人の中では、そんなふうに分かれていなかった。
「正直に言う」
晴人は膝の上で手を握った。
「月曜、お前だってわかったあと、一瞬、これなら伝えられるかもしれないって考えた」
胸が、ちくりとした。
「お前があんなに困ってたのに、俺だけ助かったみたいなことを考えた。それが、すげえ嫌だった」
「晴人」
「だから、女になってから好きになったことにはしたくない」
晴人は、まっすぐ俺を見た。
「男だったお前を好きだったのまで、嘘にしたくない」
嬉しい。
困る。
怖い。
そんなはずがない。
いろんな感情が、同じ場所に押しかけてきた。
俺は、男だぞ。
そう言おうとして、やめた。
目の前の男は、それを知っていて、ずっと黙っていたのだ。
俺は、もう一度ネームを見た。
「俺の言葉、勝手に使ったんだな」
「……うん。ごめん」
「俺が嫌だったことまで、勝手に可愛いことにするなよ」
「ごめん」
晴人は言い訳しなかった。
「嫌なら、全部直す。締切に間に合わなくても、これは出さない」
「そういうのも、いま決められない」
「うん」
「好きかどうかも、わかんない」
「わかった」
「返事がいつできるかも、わからない」
「それでいい」
晴人の言葉は、用意された綺麗な台詞ではなかった。
だから、信じられた。
「……今日は帰る」
立ち上がると、晴人も玄関まで来た。
靴を履いている俺に言った。
「律」
振り返るのが、少し怖かった。
「お前の人生まで、俺の締切に合わせなくていいから」
俺は変な声で笑った。
恋愛漫画を描いているくせに。
大事なところで、締切なんか持ち出すな。
そんな言葉に救われる俺も、どうかしていた。
*
帰宅してから、メッセージを送った。
『着いた』
返事は、すぐに来た。
『よかった』
それだけだった。
返事の催促も、漫画の話の続きもなかった。
俺はスマートフォンを伏せた。
晴人の漫画には、最後まで台詞の入っていない吹き出しがある。
俺の返事も、まだ空欄だった。




