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そのヒロイン、俺なんだけど。  作者: 週休七日


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2/5

俺の名前を呼んでくれ

最初におかしくなったのは、くしゃみだった。


 月曜日の朝、布団の中で一つくしゃみをした。


 知らない女の声が出た。


 部屋に誰かいる。


 そう思って飛び起き、誰もいないのを確認してから、俺は自分の胸元を見下ろした。


 寝る前と同じTシャツが、寝る前とは違う形になっていた。


「……は?」


 また、知らない女が喋った。


 俺、橘律は二十五歳だ。


 在宅で動画編集の仕事をしている。

 昨日までは、身体も含めて、間違いなく男だった。


 洗面所の鏡の前に立つまでに二回。

 鏡を見てから三回。


 同じ言葉を口にした。


 は?


 驚いた人間の語彙は、思っているより少ない。


 鏡の中には、面影だけ知っている女がいた。


 輪郭も、肩幅も、目の高さも違う。

 髪は肩まで伸びている。

 頬に触ろうとして動いた手まで、自分の記憶より小さかった。


 顔をしかめると、鏡の女も顔をしかめた。


 不機嫌そうな口元だけは、嫌になるほど俺だった。



     *



 スマートフォンを開こうとした。


 顔認証に失敗した。


 もう一度、画面を覗き込む。


 失敗。


 三度目も駄目だった。


「お前まで俺を知らないって言うのかよ」


 暗証番号を打ち込み、姉へ電話した。


『どちら様?』


 当然の反応だった。


「律」


『……律?』


「女になった」


 沈黙があった。


 俺は息を止めた。


『わかった。いま一人?』


 それだけで、少し泣きそうになった。



     *



 姉は服と靴を持ってきて、俺を病院へ連れていった。


 数年前から、ごく少数の例が報告されている《性転変異症》と呼ばれる現象に、症状が似ているらしい。


 年齢や記憶は変わらず、身体の性別と外見だけが変化する。


 原因は不明。

 元に戻るかどうかも、戻る場合の条件も不明。


 医師は、わかっていることと、わかっていないことを分けて説明した。


 今日の検査で確認できる限り、すぐに処置が必要な異常は見つかっていない。


 しかし、それで今後の安全まで保証されたわけではない。

 当面は定期的に検査を受けること。


 急な体調変化があれば、すぐに連絡すること。


 説明を聞いているあいだ、俺はずっと、診察券を持つ自分の指を見ていた。


 その指は間違いなく動く。

 俺の意思どおりに。


 なのに、俺のものだという実感だけがなかった。



     *



 帰宅すると、姉が服を並べた。


「着方がわからないものは聞いて」


「……聞くこと自体が、ちょっと」


「じゃあ、困ってるやつを指さすだけでもいい」


 俺は無言で、一つの袋を指さした。


 姉は笑わなかった。


 それがありがたくて、ありがたいと思うことも、少し悔しかった。


 一通り手伝ってもらってから、姉には帰ってもらった。


 少し、一人で考える時間が欲しかった。


 しかし、玄関が閉まると、部屋が急に広くなった。


 窓に、自分が映っている。

 消したテレビにも映っている。


 どこを向いても、まだ知らない人がいた。


 落ち着くために一人になったはずなのに、十五分もすると、誰かの声が聞きたくなった。


 俺は晴人とのトーク画面を開いた。


『実は、朝起きたら』


 そこまで打って消した。


『冗談みたいだけど』


 これも消した。


 文章にすると、どうしても悪ふざけに見えた。


 顔を見て話したかった。


 あいつなら、俺が本気で困っているのか、馬鹿を言っているのか、見ればわかってくれると思った。


 それに、いつもの部屋へ行きたかった。


 俺の声が変わっていても、あいつの声までは変わっていないはずだった。



     *



 玄関で拳を出したのは、いつもの挨拶だったからだ。


 高校時代、晴人の好きだった漫画の真似で始めた。


 会うと、軽く拳をぶつける。


 二十五歳になっても、やめどきを失ったまま続いていた。


 けれど、晴人は俺の拳を見つめた。


 名前を呼んだときも、返ってきたのは、知らない客に向ける声だった。


『……はい』


 あんな返事を、晴人からされたことはなかった。


 当たり前だ。


 目の前にいるのは、あいつの知らない女なのだから。


 頭ではわかっていた。


 わかっていたのに、扉が開いた瞬間、それまで考えていた説明が全部、喉につかえた。


 俺だよ。


 たった三文字だった。


 しかし、言ったあとで信じてもらえなかったら。


 冗談だと思われたら。


 知らない人を見るあの目が、そのままだったら。


 そう考えると、言葉が出なかった。


 本人だと名乗るより先に、プリンを叱った。


 黄色いマグを選んだ。


 漫画の締切を口にした。


 結局、いつもの俺を一つずつ零してからでなければ、自分の名前さえ言えなかった。



     *



「俺、律」


 ようやく言った。


 晴人は動かなかった。


「橘律。お前の友達の。朝起きたら、こうなってた」


 スマートフォンを出した。


 晴人と交わしたメッセージ。

 昔の写真。

 病院でもらった説明書。


 晴人は画面を見て、俺を見て、また画面を見た。


「……本当に?」


「お前、高校のとき、このマグに描いたキリンを、ずっと猫だって言い張ってた」


「猫だろ」


「初めて持ち込みへ行った日、帰りにカレーパンを落として、三秒以内だからって拾おうとした」


「律」


「止めたら、俺の分まで食った」


「律だ」


 あいつが俺の名前を呼んだ。


 昨日まで、何度も聞いていた。


 耳に入っても、特別なことは何も感じなかった。


 なのに、その二文字で、ようやく床に足がついた気がした。


 スマートフォンは俺を知らない人扱いした。


 鏡の中の俺も、俺には見えなかった。


 それでも晴人は、俺の名前を呼んだ。


「……いや、待て」


 晴人が、もう一度俺を見た。


「お前、女になってるじゃん!」


「だから言ってんだろ!」


 晴人が立ち上がった。


 俺もつられて立ち上がった。


「座れ、とりあえず」


「お前も座れ」


 二人で座った。


 晴人が水を飲み、俺がティッシュを渡し、なぜか俺があいつの呼吸が落ち着くのを待った。


 順番が逆だ。


 でも、少し安心した。


 俺が変なことを言えば、晴人は変な顔をする。


 そのやり取りは、まだ成立するらしかった。


「朝から、ずっとこれで?」


「うん」


「病院は?」


「姉貴が来てくれた」


「そうか」


 晴人は膝の上で手を組んだ。


「……怖かったな」


 大丈夫、と言いかけた。


 言えば、あいつはそれ以上聞かないだろう。


 俺はそういう逃げ道の作り方だけは上手かった。


 けれど、机の上には、さっき読んだ台詞があった。


『大丈夫じゃないときくらい、私を使ってよ』


 あれは、もともと俺の言葉だった。


 初めての持ち込みに失敗した帰り。

 大丈夫、大丈夫と繰り返す晴人に、腹が立って言った。


 いま、その言葉が、自分のほうを向いている気がした。


「だいぶ」


 言ってから、息が詰まった。


「だいぶ、怖かった」


 晴人は、うん、と言った。


 それ以上、上手いことは言わなかった。


 慰めの台詞なら、普段あんなに考えているくせに。


 その何も言わなさに、俺は助けられた。



     *



 しばらくして、俺は机に向かった。


「何してるの」


「背景の仕上げ。俺が手伝うって言ってた分」


「今日はいいから」


「家に帰って、一人で鏡見てるよりいい」


 晴人が黙ったので、振り返った。


「仕事させろって話じゃなくて。ちょっと、いつものことをやらせて」


「……一時間だけな」


 俺は動画編集の仕事をしている。


 漫画の専門家ではないが、同じソフトを使うことも多い。

 晴人の原稿では、背景の塗り分けや仕上げを何度も手伝ってきた。


 今回の漫画は、まだ通して読んでいない。


 晴人は、初めて本気で描く恋愛漫画だから恥ずかしいと言って、


『全部つながってから読んでくれ』


 と頼んできた。


 俺も催促しなかった。


 ペンを持つ感覚は、少し違った。


 けれど、線を見て、塗る場所を選ぶことはできた。


 道具の場所も、手順も覚えていた。


 俺が知らない人へ、全部入れ替わったわけではない。


 そう確かめながら作業していると、晴人が隣に座った。


 近かった。


 いつもと同じ椅子の位置。

 いつもと同じ距離。


 ただ、俺の目の高さが違った。


 横を向くと、晴人の肩がある。


 顔を見ようとすると、少し見上げなければならない。


「ここ、影をもう少し足してもらえる?」


 画面を指さす腕が、俺の前を通った。


 反射的に息を止めた。


「律?」


「……近い」


「あ。ごめん」


 晴人が椅子を引いた。


 今度は、離れすぎたように感じた。


「そこまでは、いい」


「これくらい?」


「たぶん」


 晴人が困ったように笑った。


「難しいな」


「俺も、いま初めてやってるから」


 言ってから、少しだけ笑えた。



     *



 一時間後、晴人は原稿を保存し、台所に立った。


 プリンではなく、冷凍ご飯と卵を出した。


「食ってから帰れ」


「お前、米を炊いてたんだな」


「冷凍庫に入れたの、お前だろ」


「ああ。俺、偉いな」


 二人分の炒飯ができた。


 こうして向かい合って食べていると、身体のことを忘れる瞬間があった。


 そのあとで箸を持つ手が目に入り、また驚いた。


 まだ、その繰り返しだった。


 帰り際、晴人が玄関まで来た。


「着いたら連絡して」


「行きは一人で来たんだぞ」


「知ってるけど。心配なんだよ」


 何でもない声だった。


 それが、よくなかった。


 帰り道、俺はスマートフォンを握ったまま、何度もあいつの言い方を思い出した。


 昔から知っている。


 あいつが優しいことも知っている。


 それなのに、今日の俺は、優しくされたことをいちいち持ち帰ってしまった。


 家に着き、メッセージを送る。


『着いた』


 すぐに既読がついた。


『よかった』

『今日は来てくれてありがとう』


 俺は画面を見つめた。


 会ったばかりなのに、もう一度、あいつの声が聞きたくなっていた。

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