俺の名前を呼んでくれ
最初におかしくなったのは、くしゃみだった。
月曜日の朝、布団の中で一つくしゃみをした。
知らない女の声が出た。
部屋に誰かいる。
そう思って飛び起き、誰もいないのを確認してから、俺は自分の胸元を見下ろした。
寝る前と同じTシャツが、寝る前とは違う形になっていた。
「……は?」
また、知らない女が喋った。
俺、橘律は二十五歳だ。
在宅で動画編集の仕事をしている。
昨日までは、身体も含めて、間違いなく男だった。
洗面所の鏡の前に立つまでに二回。
鏡を見てから三回。
同じ言葉を口にした。
は?
驚いた人間の語彙は、思っているより少ない。
鏡の中には、面影だけ知っている女がいた。
輪郭も、肩幅も、目の高さも違う。
髪は肩まで伸びている。
頬に触ろうとして動いた手まで、自分の記憶より小さかった。
顔をしかめると、鏡の女も顔をしかめた。
不機嫌そうな口元だけは、嫌になるほど俺だった。
*
スマートフォンを開こうとした。
顔認証に失敗した。
もう一度、画面を覗き込む。
失敗。
三度目も駄目だった。
「お前まで俺を知らないって言うのかよ」
暗証番号を打ち込み、姉へ電話した。
『どちら様?』
当然の反応だった。
「律」
『……律?』
「女になった」
沈黙があった。
俺は息を止めた。
『わかった。いま一人?』
それだけで、少し泣きそうになった。
*
姉は服と靴を持ってきて、俺を病院へ連れていった。
数年前から、ごく少数の例が報告されている《性転変異症》と呼ばれる現象に、症状が似ているらしい。
年齢や記憶は変わらず、身体の性別と外見だけが変化する。
原因は不明。
元に戻るかどうかも、戻る場合の条件も不明。
医師は、わかっていることと、わかっていないことを分けて説明した。
今日の検査で確認できる限り、すぐに処置が必要な異常は見つかっていない。
しかし、それで今後の安全まで保証されたわけではない。
当面は定期的に検査を受けること。
急な体調変化があれば、すぐに連絡すること。
説明を聞いているあいだ、俺はずっと、診察券を持つ自分の指を見ていた。
その指は間違いなく動く。
俺の意思どおりに。
なのに、俺のものだという実感だけがなかった。
*
帰宅すると、姉が服を並べた。
「着方がわからないものは聞いて」
「……聞くこと自体が、ちょっと」
「じゃあ、困ってるやつを指さすだけでもいい」
俺は無言で、一つの袋を指さした。
姉は笑わなかった。
それがありがたくて、ありがたいと思うことも、少し悔しかった。
一通り手伝ってもらってから、姉には帰ってもらった。
少し、一人で考える時間が欲しかった。
しかし、玄関が閉まると、部屋が急に広くなった。
窓に、自分が映っている。
消したテレビにも映っている。
どこを向いても、まだ知らない人がいた。
落ち着くために一人になったはずなのに、十五分もすると、誰かの声が聞きたくなった。
俺は晴人とのトーク画面を開いた。
『実は、朝起きたら』
そこまで打って消した。
『冗談みたいだけど』
これも消した。
文章にすると、どうしても悪ふざけに見えた。
顔を見て話したかった。
あいつなら、俺が本気で困っているのか、馬鹿を言っているのか、見ればわかってくれると思った。
それに、いつもの部屋へ行きたかった。
俺の声が変わっていても、あいつの声までは変わっていないはずだった。
*
玄関で拳を出したのは、いつもの挨拶だったからだ。
高校時代、晴人の好きだった漫画の真似で始めた。
会うと、軽く拳をぶつける。
二十五歳になっても、やめどきを失ったまま続いていた。
けれど、晴人は俺の拳を見つめた。
名前を呼んだときも、返ってきたのは、知らない客に向ける声だった。
『……はい』
あんな返事を、晴人からされたことはなかった。
当たり前だ。
目の前にいるのは、あいつの知らない女なのだから。
頭ではわかっていた。
わかっていたのに、扉が開いた瞬間、それまで考えていた説明が全部、喉につかえた。
俺だよ。
たった三文字だった。
しかし、言ったあとで信じてもらえなかったら。
冗談だと思われたら。
知らない人を見るあの目が、そのままだったら。
そう考えると、言葉が出なかった。
本人だと名乗るより先に、プリンを叱った。
黄色いマグを選んだ。
漫画の締切を口にした。
結局、いつもの俺を一つずつ零してからでなければ、自分の名前さえ言えなかった。
*
「俺、律」
ようやく言った。
晴人は動かなかった。
「橘律。お前の友達の。朝起きたら、こうなってた」
スマートフォンを出した。
晴人と交わしたメッセージ。
昔の写真。
病院でもらった説明書。
晴人は画面を見て、俺を見て、また画面を見た。
「……本当に?」
「お前、高校のとき、このマグに描いたキリンを、ずっと猫だって言い張ってた」
「猫だろ」
「初めて持ち込みへ行った日、帰りにカレーパンを落として、三秒以内だからって拾おうとした」
「律」
「止めたら、俺の分まで食った」
「律だ」
あいつが俺の名前を呼んだ。
昨日まで、何度も聞いていた。
耳に入っても、特別なことは何も感じなかった。
なのに、その二文字で、ようやく床に足がついた気がした。
スマートフォンは俺を知らない人扱いした。
鏡の中の俺も、俺には見えなかった。
それでも晴人は、俺の名前を呼んだ。
「……いや、待て」
晴人が、もう一度俺を見た。
「お前、女になってるじゃん!」
「だから言ってんだろ!」
晴人が立ち上がった。
俺もつられて立ち上がった。
「座れ、とりあえず」
「お前も座れ」
二人で座った。
晴人が水を飲み、俺がティッシュを渡し、なぜか俺があいつの呼吸が落ち着くのを待った。
順番が逆だ。
でも、少し安心した。
俺が変なことを言えば、晴人は変な顔をする。
そのやり取りは、まだ成立するらしかった。
「朝から、ずっとこれで?」
「うん」
「病院は?」
「姉貴が来てくれた」
「そうか」
晴人は膝の上で手を組んだ。
「……怖かったな」
大丈夫、と言いかけた。
言えば、あいつはそれ以上聞かないだろう。
俺はそういう逃げ道の作り方だけは上手かった。
けれど、机の上には、さっき読んだ台詞があった。
『大丈夫じゃないときくらい、私を使ってよ』
あれは、もともと俺の言葉だった。
初めての持ち込みに失敗した帰り。
大丈夫、大丈夫と繰り返す晴人に、腹が立って言った。
いま、その言葉が、自分のほうを向いている気がした。
「だいぶ」
言ってから、息が詰まった。
「だいぶ、怖かった」
晴人は、うん、と言った。
それ以上、上手いことは言わなかった。
慰めの台詞なら、普段あんなに考えているくせに。
その何も言わなさに、俺は助けられた。
*
しばらくして、俺は机に向かった。
「何してるの」
「背景の仕上げ。俺が手伝うって言ってた分」
「今日はいいから」
「家に帰って、一人で鏡見てるよりいい」
晴人が黙ったので、振り返った。
「仕事させろって話じゃなくて。ちょっと、いつものことをやらせて」
「……一時間だけな」
俺は動画編集の仕事をしている。
漫画の専門家ではないが、同じソフトを使うことも多い。
晴人の原稿では、背景の塗り分けや仕上げを何度も手伝ってきた。
今回の漫画は、まだ通して読んでいない。
晴人は、初めて本気で描く恋愛漫画だから恥ずかしいと言って、
『全部つながってから読んでくれ』
と頼んできた。
俺も催促しなかった。
ペンを持つ感覚は、少し違った。
けれど、線を見て、塗る場所を選ぶことはできた。
道具の場所も、手順も覚えていた。
俺が知らない人へ、全部入れ替わったわけではない。
そう確かめながら作業していると、晴人が隣に座った。
近かった。
いつもと同じ椅子の位置。
いつもと同じ距離。
ただ、俺の目の高さが違った。
横を向くと、晴人の肩がある。
顔を見ようとすると、少し見上げなければならない。
「ここ、影をもう少し足してもらえる?」
画面を指さす腕が、俺の前を通った。
反射的に息を止めた。
「律?」
「……近い」
「あ。ごめん」
晴人が椅子を引いた。
今度は、離れすぎたように感じた。
「そこまでは、いい」
「これくらい?」
「たぶん」
晴人が困ったように笑った。
「難しいな」
「俺も、いま初めてやってるから」
言ってから、少しだけ笑えた。
*
一時間後、晴人は原稿を保存し、台所に立った。
プリンではなく、冷凍ご飯と卵を出した。
「食ってから帰れ」
「お前、米を炊いてたんだな」
「冷凍庫に入れたの、お前だろ」
「ああ。俺、偉いな」
二人分の炒飯ができた。
こうして向かい合って食べていると、身体のことを忘れる瞬間があった。
そのあとで箸を持つ手が目に入り、また驚いた。
まだ、その繰り返しだった。
帰り際、晴人が玄関まで来た。
「着いたら連絡して」
「行きは一人で来たんだぞ」
「知ってるけど。心配なんだよ」
何でもない声だった。
それが、よくなかった。
帰り道、俺はスマートフォンを握ったまま、何度もあいつの言い方を思い出した。
昔から知っている。
あいつが優しいことも知っている。
それなのに、今日の俺は、優しくされたことをいちいち持ち帰ってしまった。
家に着き、メッセージを送る。
『着いた』
すぐに既読がついた。
『よかった』
『今日は来てくれてありがとう』
俺は画面を見つめた。
会ったばかりなのに、もう一度、あいつの声が聞きたくなっていた。




