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そのヒロイン、俺なんだけど。  作者: 週休七日


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1/5

初対面のはずの女の子

初対面の女の子に、プリンを夕飯にするなと叱られた。


「それ、晩飯にする気だろ」


 冷蔵庫の扉を開けたまま、俺は振り返った。


「……どうしてわかるの」


「お前、締切前になると、噛まなくていいもので食事を済ませようと――」


 そこで、彼女は口を閉じた。


 紺色の大きなパーカー。

 袖から指先だけが出ている。


 肩にかかった髪を鬱陶しそうに払ってから、彼女はなぜか、自分の手をじっと見つめた。


「ごめん。いまの、いったん忘れて」


 忘れるには、具体的すぎる指摘だった。


 俺、高瀬晴人は、彼女の顔と冷蔵庫を交互に見た。


 冷蔵庫にはプリンが三つ入っている。

 夕飯にする予定だったのは二つだ。


 せめてその点だけは訂正しておきたかった。



     *



 三十分ほど前、親友の橘律からメッセージが届いた。


『今から行ってもいいか』

『非常事態』

『説明するまで笑わないでくれ』


 律とは高校時代からの付き合いだ。


 俺が漫画家になると言い出したとき、「なれるといいな」ではなく、「じゃあ描けよ」と言った。


 初めての持ち込みで散々な評価をもらったときは、落ち込む俺にカレーパンを押しつけて、


『食い終わるまでなら、愚痴聞く』


 と言った。


 食い終わってからも、結局、終電まで聞いてくれた。


 そんな男からの非常事態だったので、俺は新人賞に出す漫画の原稿を保存し、玄関を開けた。


 そこにいたのが、彼女だった。


 俺と同じくらいの年だろうか。


 顔色が悪い。

 玄関の前に立っているだけなのに、長い距離を走ってきた人のような顔をしていた。


「晴人」


 いきなり名前で呼ばれた。


「……はい」


 反射的に、知らない人へ向ける返事をした。


 その瞬間、彼女の表情がわずかに歪んだ。


 彼女は右手を差し出した。


 握手ではない。

 軽く握った拳だった。


 俺がその手を見つめると、彼女ははっとして、拳を引っ込めた。


「違う。ごめん。癖で」


 何の癖なのか、わからない。


「あの。律は?」


 尋ねると、彼女の口が一度開いた。


 言葉は出なかった。


「律のことで、説明があって」


「何かあったのか?」


「あった。でも、怪我とかじゃない。病院にも行った。いま、命に関わるような状態じゃないって」


 胸の奥に入りかけた冷たいものが、少しだけ引いた。


 彼女は袖口を握った。


「ちゃんと話すから。悪いけど、五分だけ、落ち着かせて」


「ああ。もちろん」


 俺は身体をずらし、玄関を空けた。


 靴を脱ぐ彼女を見ながら、一つの可能性を考えた。


 律の恋人だろうか。


 俺には紹介していなかっただけで、実は付き合っていたのかもしれない。


 律が自分で来られない事情があり、彼女を代わりに寄越した。


 そう考えれば、名前を知っていることも説明できる。


 胸の奥が、先ほどとは違う理由で痛んだ。


 いま考えることではない。


 そう思って、脇へ押しやった。



     *



 それから水を出そうとして冷蔵庫を開け、俺は夕飯を叱られたのだった。


「プリンは夕飯じゃない」


「三つ食べれば、それなりのカロリーにはなる」


「栄養の話をしてんだよ」


 彼女は、ほとんど反射的に言い返した。


 また、しまったという顔をした。


「……律から聞いた?」


「まあ、そういうことにしといて」


 彼女はソファの端に腰を下ろした。


 パーカーの裾を引っ張り、膝の上に両手を置く。

 しばらくして落ち着かないらしく、また座り直した。


 俺の部屋は、初めて来た女性がくつろげるような場所ではない。


 机には原稿と参考書。

 床には資料の入った箱。

 ソファの片側には、畳む途中で諦めた洗濯物。


 彼女はその惨状を見回し、小さく息を吐いた。


 呆れ方だけは、妙に慣れていた。


「そこのマグ、使っていい?」


「ああ。でも、それ、底が少し欠けてるから。こっちのきれいなのを――」


「いや。これがいい」


 彼女が選んだのは、黄色いマグだった。


 高校の美術の授業で、俺が猫の絵を描いたものだ。


 猫に見えないと全員に言われた。

 律だけが「腹を壊したキリンだな」と、より具体的な感想をくれた。


 それ以来、律はうちに来ると必ずそのマグを使う。


 彼女は水を受け取ると、両手でマグを包んだ。


 親指で、猫の顔を撫でる。


「……まだ、あった」


「え?」


「あ。いや」


 彼女は水を飲んだ。


 こちらが聞き返すたび、肩に力が入る。


 何かを隠しているというより、言いたいことがあるのに、どこから説明すればいいのかわからないように見えた。


 ふと、彼女の視線が机に止まった。


 新人賞へ出す三十二ページの読み切り漫画。


 締切は、今度の日曜の二十三時五十九分だ。


 最後の四ページだけ、まだ下描きに入れていない。


 主人公がヒロインに告白し、返事を待つ場面。


 その一つ前のページが、机からはみ出していた。


『大丈夫じゃないときくらい、私を使ってよ』


 ヒロインは、怒ったような顔でそう言っている。


 彼女はその台詞を読み、困った顔をした。


「……こういうのが、いいの?」


「こういうの?」


「優しく言えないやつ。もっと普通に、慰めればいいのに」


 俺はネームを見た。


 編集者に言われたことではない。

 自分でも、何度か考えたことだった。


 もっと素直に。

 もっとわかりやすく。

 もっと、可愛らしく。


 しかし、描き直すたび、俺が描きたかった人物ではなくなった。


「俺は、可愛いと思うけど」


 彼女が、むせた。


「大丈夫?」


「平気。……平気だから、こっち見んな」


 顔が赤くなっていた。


 ティッシュを取ると、彼女は袖で口元を押さえたまま、こちらを睨んだ。


 ひどく、見覚えのある睨み方だった。


「ごめん。変なこと聞いた」


「いや。ちょうど悩んでたから」


「どこを?」


「最後の告白。相手の返事が、どうしても描けない」


 机の上には、最後のページが置かれている。


 そこには、主人公とヒロイン。

 そして、台詞の入っていない白い吹き出しがあった。


 彼女は空欄を見つめた。


「締切、日曜だろ」


 言ってから、また固まった。


「それも律から?」


「……うん」


 彼女はマグを置き、自分の喉に触れた。


 低い声を出そうとするように、短く息を吐く。

 けれど、出てきたのは、やはり彼女の声だった。


 俺は質問を重ねるのをやめた。


「急がなくていいよ」


 彼女の肩が、わずかに動いた。


「律が困ってるなら、俺にできることはするから。順番に話して」


 しばらく、冷蔵庫の動く音だけがした。


 彼女が顔を上げた。


 泣くのを我慢しているのか、笑おうとしているのか、わからない顔だった。


「じゃあ、最初に」


「うん」


「……ちゃんと、驚いてくれ」


 彼女はスマートフォンを机に置いた。


 画面には、俺と律のメッセージ履歴が表示されていた。


 そして、右手をもう一度、軽く握った。


「俺、律」


 その名前は、俺が待っていた親友のものだった。

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