初対面のはずの女の子
初対面の女の子に、プリンを夕飯にするなと叱られた。
「それ、晩飯にする気だろ」
冷蔵庫の扉を開けたまま、俺は振り返った。
「……どうしてわかるの」
「お前、締切前になると、噛まなくていいもので食事を済ませようと――」
そこで、彼女は口を閉じた。
紺色の大きなパーカー。
袖から指先だけが出ている。
肩にかかった髪を鬱陶しそうに払ってから、彼女はなぜか、自分の手をじっと見つめた。
「ごめん。いまの、いったん忘れて」
忘れるには、具体的すぎる指摘だった。
俺、高瀬晴人は、彼女の顔と冷蔵庫を交互に見た。
冷蔵庫にはプリンが三つ入っている。
夕飯にする予定だったのは二つだ。
せめてその点だけは訂正しておきたかった。
*
三十分ほど前、親友の橘律からメッセージが届いた。
『今から行ってもいいか』
『非常事態』
『説明するまで笑わないでくれ』
律とは高校時代からの付き合いだ。
俺が漫画家になると言い出したとき、「なれるといいな」ではなく、「じゃあ描けよ」と言った。
初めての持ち込みで散々な評価をもらったときは、落ち込む俺にカレーパンを押しつけて、
『食い終わるまでなら、愚痴聞く』
と言った。
食い終わってからも、結局、終電まで聞いてくれた。
そんな男からの非常事態だったので、俺は新人賞に出す漫画の原稿を保存し、玄関を開けた。
そこにいたのが、彼女だった。
俺と同じくらいの年だろうか。
顔色が悪い。
玄関の前に立っているだけなのに、長い距離を走ってきた人のような顔をしていた。
「晴人」
いきなり名前で呼ばれた。
「……はい」
反射的に、知らない人へ向ける返事をした。
その瞬間、彼女の表情がわずかに歪んだ。
彼女は右手を差し出した。
握手ではない。
軽く握った拳だった。
俺がその手を見つめると、彼女ははっとして、拳を引っ込めた。
「違う。ごめん。癖で」
何の癖なのか、わからない。
「あの。律は?」
尋ねると、彼女の口が一度開いた。
言葉は出なかった。
「律のことで、説明があって」
「何かあったのか?」
「あった。でも、怪我とかじゃない。病院にも行った。いま、命に関わるような状態じゃないって」
胸の奥に入りかけた冷たいものが、少しだけ引いた。
彼女は袖口を握った。
「ちゃんと話すから。悪いけど、五分だけ、落ち着かせて」
「ああ。もちろん」
俺は身体をずらし、玄関を空けた。
靴を脱ぐ彼女を見ながら、一つの可能性を考えた。
律の恋人だろうか。
俺には紹介していなかっただけで、実は付き合っていたのかもしれない。
律が自分で来られない事情があり、彼女を代わりに寄越した。
そう考えれば、名前を知っていることも説明できる。
胸の奥が、先ほどとは違う理由で痛んだ。
いま考えることではない。
そう思って、脇へ押しやった。
*
それから水を出そうとして冷蔵庫を開け、俺は夕飯を叱られたのだった。
「プリンは夕飯じゃない」
「三つ食べれば、それなりのカロリーにはなる」
「栄養の話をしてんだよ」
彼女は、ほとんど反射的に言い返した。
また、しまったという顔をした。
「……律から聞いた?」
「まあ、そういうことにしといて」
彼女はソファの端に腰を下ろした。
パーカーの裾を引っ張り、膝の上に両手を置く。
しばらくして落ち着かないらしく、また座り直した。
俺の部屋は、初めて来た女性がくつろげるような場所ではない。
机には原稿と参考書。
床には資料の入った箱。
ソファの片側には、畳む途中で諦めた洗濯物。
彼女はその惨状を見回し、小さく息を吐いた。
呆れ方だけは、妙に慣れていた。
「そこのマグ、使っていい?」
「ああ。でも、それ、底が少し欠けてるから。こっちのきれいなのを――」
「いや。これがいい」
彼女が選んだのは、黄色いマグだった。
高校の美術の授業で、俺が猫の絵を描いたものだ。
猫に見えないと全員に言われた。
律だけが「腹を壊したキリンだな」と、より具体的な感想をくれた。
それ以来、律はうちに来ると必ずそのマグを使う。
彼女は水を受け取ると、両手でマグを包んだ。
親指で、猫の顔を撫でる。
「……まだ、あった」
「え?」
「あ。いや」
彼女は水を飲んだ。
こちらが聞き返すたび、肩に力が入る。
何かを隠しているというより、言いたいことがあるのに、どこから説明すればいいのかわからないように見えた。
ふと、彼女の視線が机に止まった。
新人賞へ出す三十二ページの読み切り漫画。
締切は、今度の日曜の二十三時五十九分だ。
最後の四ページだけ、まだ下描きに入れていない。
主人公がヒロインに告白し、返事を待つ場面。
その一つ前のページが、机からはみ出していた。
『大丈夫じゃないときくらい、私を使ってよ』
ヒロインは、怒ったような顔でそう言っている。
彼女はその台詞を読み、困った顔をした。
「……こういうのが、いいの?」
「こういうの?」
「優しく言えないやつ。もっと普通に、慰めればいいのに」
俺はネームを見た。
編集者に言われたことではない。
自分でも、何度か考えたことだった。
もっと素直に。
もっとわかりやすく。
もっと、可愛らしく。
しかし、描き直すたび、俺が描きたかった人物ではなくなった。
「俺は、可愛いと思うけど」
彼女が、むせた。
「大丈夫?」
「平気。……平気だから、こっち見んな」
顔が赤くなっていた。
ティッシュを取ると、彼女は袖で口元を押さえたまま、こちらを睨んだ。
ひどく、見覚えのある睨み方だった。
「ごめん。変なこと聞いた」
「いや。ちょうど悩んでたから」
「どこを?」
「最後の告白。相手の返事が、どうしても描けない」
机の上には、最後のページが置かれている。
そこには、主人公とヒロイン。
そして、台詞の入っていない白い吹き出しがあった。
彼女は空欄を見つめた。
「締切、日曜だろ」
言ってから、また固まった。
「それも律から?」
「……うん」
彼女はマグを置き、自分の喉に触れた。
低い声を出そうとするように、短く息を吐く。
けれど、出てきたのは、やはり彼女の声だった。
俺は質問を重ねるのをやめた。
「急がなくていいよ」
彼女の肩が、わずかに動いた。
「律が困ってるなら、俺にできることはするから。順番に話して」
しばらく、冷蔵庫の動く音だけがした。
彼女が顔を上げた。
泣くのを我慢しているのか、笑おうとしているのか、わからない顔だった。
「じゃあ、最初に」
「うん」
「……ちゃんと、驚いてくれ」
彼女はスマートフォンを机に置いた。
画面には、俺と律のメッセージ履歴が表示されていた。
そして、右手をもう一度、軽く握った。
「俺、律」
その名前は、俺が待っていた親友のものだった。




