牡羊座の優等星⑮
ステンドグラスの破片を背中に浴びながら飛び出した俺とヒキを待っていたのは、想像を絶する光景だった。
先程までのお化け屋敷のような悪夢が嘘だったかのように、目の前に広がっていたのは、沢山の薔薇が咲いて手入れの行き届いた、明るくて美しい中庭だった。
さっき、破いた窓から見た時は暗かったのに……。
紺碧の空から降り注ぐまばゆい陽光が、幾重にも重なるエメラルドグリーンの芝生を照らし出し、庭の中央にある大理石の噴水からは、清らかな水飛沫が太陽の光を浴びてダイヤモンドの粒子を混ぜたかのようにキラキラと煌めいている。
咲き誇る色とりどりの薔薇の甘い香りが風に乗り、俺の荒い鼻息を優しく包み込んだ。
細い身体に残る冷たい汗が、突然の暖かさに溶けるように引いていく。
長い黒髪が陽光に照らされてわずかに輝き、黒いリボンが風に揺れる。
「綺麗……。」
ヒキが思わず呟く。
茶色い大きな丸目が、眩しさに細められながらも、純粋に景色を映している。
確かに綺麗だ。本来ならば安らぎの場所だろう。
だが、薄暗い廊下に対してこの明るさは反って不気味な空間だ。
あまりにも完璧で、絵画のように整い過ぎている。
まるで誰かが"ここは安全だ"と嘘を吐く為に用意した舞台装置のように感じられ、背筋に残る悪寒が完全には消えない。
それに、こんな絵画のように美しい楽園の景色に浸っている暇など無い。
まだ追っ手の気配は無い。
しかし、あんな怪物から逃げ切るには、一時的にでも身を隠して態勢を立て直す必要があった。
肺がまだ熱く、心臓が暴れたまま落ち着かない。
恐怖の残滓が、華奢な指先を微かに震わせ続ける。
「走るぞ。」
俺はヒキの右手を強く握ると、陽光を切り裂くようにして中庭を一気に駆け抜けた。
黒いローファーが柔らかな芝生を踏み、甘い薔薇の香りがさらに濃くなる。
ヒキの小さな手が、しっかりと俺の指に絡む。
あれ程走っても出口が見えなかった廊下に反して庭はそれ程までに広くなく、周囲を建物や回廊で囲まれた四角形の静かな空間だった。
陽光が全てを明るく照らし出し、影すらも柔らかく見える。
だがその完璧さが、逆に不自然で、どこかで"次の罠が待っている"という予感を煽る。
視界の先に現れたのは、重厚な木彫りの装飾が施された、別の棟へと続く礼拝堂の大きな両開き扉だ。
黒い木肌に古い彫刻が深く刻まれ、まるで何かを拒むように重々しく佇んでいる。
俺は全力を振り絞ってその扉に体当たりし、中へと転がり込むように入ると、即座に振り返って内側からカンヌキを下ろして頑丈な鍵を掛けた。
金属が重く軋む音が、静寂に響く。
華奢な肩で扉を支え、全体重をその冷たい木肌に預けて、荒く息を整える。
バクバクと暴れる心臓を押さえながら、背後の闇を見据える。
だが、そこには、逃げ込んだ先である筈の安堵など一切存在しなかった。
目の前に広がっていたのは、悪夢をそのまま形にしたような、異様なまでに薄暗く不気味な大礼拝堂だった。
月の光すらロクに届かない天井は闇の中に溶け込み、どこまでも高く、底知れぬ暗黒が広がっているように感じられる。
高いアーチが闇に吞み込まれ、頭上から何かが降りて来そうな圧迫感がある。
並んだ長椅子は古びて黒光りし、まるで何かを待ちわびる無数の影の群れのように整然と並んでいた。
座面に積もった埃が、わずかな光を反射して灰のように見える。
どこからともなく漂ってくるのは、長い年月が染みついた古い木と埃の匂い、そして言いようのない血と鉄錆の混ざった悪臭だ。
中庭の薔薇の甘さが一瞬で消し飛ばす程の鼻腔を刺すこの匂いは、廊下で浴びた殺意の残滓を思い出させ、胃が軽く疼く。
祭壇の両脇に備えられた燭台の蝋燭だけが、気休め程度に周囲を照らす。
揺れる炎が長い影を床に落とし、長椅子の隙間に潜む闇をさらに深く見せる。
シィィ……と、どこかで微かに風が抜ける。
教会のパイプオルガンが共鳴するように低く重苦しい音を立てる。
まるで、この空間そのものが生き物であり、俺という異物の侵入に息をひそめて警戒しているかのようだった。
「ここも長くは居られない……。」
再び静まり返った礼拝堂に、自分の心音と震える声だけが木霊する。
華奢な身体が、冷たい空気に晒されて小さく震える。
外の陽光がもたらした安堵感は一瞬で消え去り、この閉ざされた薄暗い空間に取り残された恐怖が、再びジワジワと全身を這い上がってきた。
あのホッケーマスクの狂女は、更に怒り狂ってここを突き破って来るに違いない。ホットケーキで一時的に気を逸らしただけだ。
食べ終われば、必ず追ってくる。
牛刀を握ったまま、赤い目でこの扉を睨み、叩き壊して入ってくる光景が、鮮明に脳裏に浮かぶ。
また逃げるにしても、この大礼拝堂の闇は廊下のそれとは違う。
より深く、より重く、逃げ場がない事を知らせてくる。
ヒキの手が、俺の指を少し強く握り締めた。
小さな熱が、凍り付きそうな意識をわずかに繋ぎ止める。
俺は荒い息を吐きながら、ゆっくりと扉から離れた。
「ちょっと休憩しようか。」
体力はともかく、精神が疲れ果ててしまった。
俺の能力が精神に依存しているせいか、恐怖と疾走と慣れない身体での連続した緊張が、頭の芯を重くする。
細くて丸みの帯びた脚がガクガクと震え、これ以上立っているのが辛かった。
直ぐ傍にある木製の長椅子に座る。
古びた木肌は冷たく、スカートと柔らかい太腿のせいでとてもヒンヤリする。
薄い布一枚で直接触れる感触が、女の子の身体である事を改めて突き付けてくる。
長い黒髪が肩に落ち、黒いリボンがわずかに揺れた。
「良かった、走って疲れちゃったぁ~。」
座れる椅子は沢山あるのにわざわざ俺の隣に座るヒキ。
深く腰掛けて深呼吸する。
茶色い三つ編みがふわりと揺れ、大きな丸目が少しだけ安堵したように細められる。
彼女の体温が隣に感じられ、この薄暗い空間で唯一の温かさだった。
「お化け屋敷の夢だなんて久し振りだなぁ~……。」
思わず耳を疑った。
え、ヒキはこの状況を夢の中の世界だと勘違いしているのか?
参ったなぁ、これが夢だったらどんなに良かっただろうか……。
呑気な事を言うヒキに思わず眉をしかめてしまう。
最初はお化けに強いタイプかと思っていたが、どうやら夢の中の世界だと勘違いして、状況を理解していないだけだった。
参ったなぁ…。
現に此処は安全な場所ではない。
扉の向こうでは、あの狂気がいつ爆発してもおかしくない。
次に何が起きるのか、まだ分からない。
ここもまた、一時的な逃げ場に過ぎない事だけは、ハッキリと理解していた。
長椅子の冷たさが太腿に染み、パイプオルガンの低い共鳴が、不安を更に掻き立てる。
俺は隣のヒキをチラリと見やりながら、静かに息を吐き出した。
この束の間の休息すら、いつ終わるか分からない。
それでも、今はただ、この冷たい長椅子に座っていることで精一杯だった。




