牡羊座の優等星⑭
肺が焼け付くように熱い。
自分とヒキの足音と、背後から迫る風を切るような靴音が、古びた教会の薄暗い廊下に不気味に反響していた。
石畳を蹴る音が幾重にも重なり、まるで無数の影が自分を追っているかのようだ。
冷たい空気が喉を刺し、華奢な身体の肺が悲鳴を上げる。
長い黒髪が頰に張り付き、薄いワンピースの裾が激しく翻るたびに、逃げ切れないという絶望が胸を締め付ける。
よりによって、何故か不気味なホッケーマスクを顔面に装着し、何故か真っ白なシスター服の女に、何故か巨大な牛刀を振り回されながら追いかけられているのだ。
背後から、殺気を含んだ足音がすぐそこまで迫って来た。
狂気の殺意を背中に浴びながら、心臓がバクバクと鳴り響く。
耳の奥で鼓膜を叩き、視界の端がちらつく。
足がもつれかけ、転んだら終わりだと本能が叫ぶ。
落ち着け、落ち着けよ、俺!
そうだ、能力!
能力を使ってこの場を切り抜けるしかない!
能力発動!!
そう強く念じた瞬間、まるで脳のディスプレイが切り替わるように、視界の隅にカチリと軽い電子音が響いた。
恐怖で霞んでいた意識が、一瞬だけ強制的にクリアになる。
突如として浮かび上がってきたのは、粗いドット絵。
頭の中に、選択肢のようになったアイコンがずらりと並ぶ。
華やかな赤い薔薇の花束、煌くダイヤの指輪、白いドレス、分かり易い皆大好きな金貨……。
それ等は仲間の好感度を上げる為のアイテム達だった。
勇者時代に何度も使った、あの"プレゼント"機能。
今この極限状態で、何故それが発動するのか理解出来ない。
だが、あれやこれや考えている暇は無い。
後ろから再び迫る殺気が、皮膚を焼けるように熱い。
何かあるのかナイノかアルカナ……!
必死に頭の中で探す。
アイコンが高速でスクロールし、視線が忙しく泳ぐ。
ふと、あるアイコンが頭の中に止まった。
ホットケーキだ。
その片隅にポツンと、小さくピンク色のハートマークがついたホットケーキのアイコンがあった。
まるで選べと言わんばかりに、淡く光っている。
奴の好物なのか?
いやしかし、こんな状況で、こんなので何とかなるのか?
だが、今、選べるのはこれしかない。
藁にもすがる思いが、華奢な指先を震わせる。
「ホットケーキ発動!」
そのホットケーキのアイコンを頭の中で強く選択した。
シュピリーン!
そんな軽快な脳内効果音と共に、差し出した俺の左手の上に奇妙な質量が生まれた。
光が収束し、掌にずしりと重い感触が残る。
パッと光が収まると、そこには赤いストライプ柄が印刷された、お洒落なテイクアウト用の厚手な紙箱が出現していた。
箱の隙間から、ただの紙箱とは思えない、圧倒的に甘く芳醇な香りがふわりと鼻腔をくすぐる。
焼き立ての小麦と溶けるバターの匂いが、血生臭い廊下の冷気を一瞬で塗り替える。
「うそ……っ、これ……!」
確認しようにも箱を開ける暇もない。
振り返れば白いシスター服の女が、狂気に満ちた眼光を仮面の奥から覗かせながら牛刀を頭上に振り上げて迫っていた。
刃が薄暗い光を捉え、殺意が形になって襲ってくる。
もう考えるな、投げるしかない!
「君にあげたい物があるんだッ!受け取ってくれないか!?」
俺はいつも使っていた文言を叫びながら、迫り来る白い巨影に向かってその紙箱を渾身の力で投げつけた。
華奢な腕に全重心を乗せ、指先が痺れるほど強く放る。
パァン、と乾いた音を立てて、紙箱はシスターの胸元に直撃した。
ヤバイ、失敗した。
咄嗟にそう思った。
牛刀で斬り捨てられる光景が、脳裏に鮮明に浮かぶ。
「……え?」
俺は自分の目を疑った。
あろうことか、ホッケーマスクのシスターは飛んできた紙箱を斬り落とす事も払い除ける事もせず、小動物をあやすかのように両手でパッと咄嗟に受け止めてしまったのだ。
あれだけの殺意を放っていた女が、ピタリと動きを止める。
そして、首をコテンと傾げ、ゆっくりと手元の紙箱のフタを開けた。
彼女が箱の中身を開いた瞬間、全身から殺気がスーッと引いていくのが分かった。
背中に張り付いていた重圧が、急速に薄れていく。
箱の中に入っていたのは、完璧なまでの伝統的な厚焼き3段ホットケーキだった。
焼き加減はきつね色よりも少し深い、香ばしい黄金色。表面はきめ細やかで、まるで満月のような滑らかさ。
そのこんもりと積み上げられた3段の円柱の頂点から、黄金色の純度が高い角切りバターがゆっくりと、じっとりと熱で溶け出し、純白のメイプルシロップを従えながら、美しい層の縁を伝ってトロリと流れ落ちていた。
ふっくらとしっかり硬めに焼いたのが分かる焼き立ての小麦と甘いバターの香りが、殺伐とした血生臭い廊下に甘やかに広がっていく。
恐怖で張り詰めていた空気が、甘い香りに溶かされていくようだった。
「ホットケー、キ……っ!!」
カラカラに渇いた中に、隠しきれない弾んだ声が響く。
ホッケーマスクの隙間から、ゴクリッと生唾を飲み込む気配すら感じる。
次の瞬間、彼女はクルリと軽やかに背中を向けてペタンと座り込んでホッケーマスクを右手で外すと、箱の中に顔を突っ込む勢いで貪欲にホットケーキを食べ始めてしまった。
白いシスター服の背中が、無防備に俺たちに向けられている。
いくら俺のプレゼント機能のレベルが高くて強制力があるとはいえ、よくこんな状況で食えるよな……。
これが元有家名と星徒の力の差なのだろうか……。
先程まで殺意マシマシで襲い掛かって来たのに、ホットケーキひとつで無防備に背を向けて貪る相手に、呆れてしまうと同時に、安堵で膝がガクガクと震えた。
「ホットケーキだぁ、私も食べたいなぁ……。」
ヒキが隣で羨ましそうにホットケーキを眺める。
グゥウゥ……という低い音が鳴ると、彼女は恥ずかしそうに両手で自分のお腹を擦った。
茶色い三つ編みが小さく揺れ、大きな丸目が潤んでいる。
「今は危ないから、また後でな。」
「そうかぁ、分かった。」
俺がそう伝えると、物欲しそうな顔で何度もホットケーキをチラ見しながらも素直に頷くヒキ。
その無邪気さが、逆にこの異常な状況を際立たせる。
それにしても、攻略対象に贈るプレゼント機能が使えて良かった。
……って、この幽霊女も攻略対象なのかよ。
俺達が立ち止まっているのに、白いシスターはホットケーキに夢中になっている。
ホッケーマスクを外している今、どんな素顔なのかちょっと気になるが、食べ終わるまでに何処か安全な場所で体勢を立て直さないと……。
幾ら勇者の俺でも流石に牛刀相手に素手では太刀打ち出来ない。
好感度を爆上げして恋人にする方法もあるかもしれないが、恐らくこの選挙というヤツはヒキかコイツのどちらかが落選するまでは終わらないのだろう。
しかし、この果てしなく続く廊下を走り続けても意味が無い。
廊下の左側には大きなステンドグラスの窓が、めかし込んできたようにそびえ立っている。
色褪せたガラスが淡い光を取り込み、歪んだ聖者の姿を床に落としている。
もしかしたら、裏庭へと続いているのかもしれない。
こうなったら強行手段だ!
恐怖で震える足を気合で奮い立たせると、そのまま助走をつけてステンドグラスに向かって飛び蹴りを放った。
華奢な脚に全重力を乗せ、黒いローファーの爪先がガラスに叩き込まれる。
ガシャッン――ッ!!!
鮮やかなステンドグラスが、無数の煌く破片となって四散する。
ガラスの欠片が光を乱反射し、廊下を一瞬だけ幻想的に照らす。
破れた窓から覗き込むと、広い中庭と礼拝堂への入口が見える。
幸いにも此処は1階だった。
冷たい夜風が吹き込み、甘いホットケーキの香りを一気に掻き消す。
「ヒキ、行くぞ。」
ヒキは小さく頷くと、再び俺の手を取った。
小さな指が、しっかりと絡む。
冷たい風が吹き抜ける中、俺とヒキはそのまま教会の廊下から飛び出し、次の中庭へと転がり出たのだった。
背後では、まだホットケーキを貪る音だけが、虚しく廊下に残っていた。




