牡羊座の優等星⑬
「ま、まーちゃん!速いよッ!?」
引っ張られ驚きながらも、手を離すまいと必死に走るヒキ。
茶色い大きな三つ編みが激しく揺れ、白いスカートの裾が翻る。
小さな手が俺の華奢な指に強く絡み、温かい感触だけが今にも壊れそうな理性を繋ぎ止めていた。
石畳を踏む黒いローファーの音が、甲高く連なって響く。
「ヨウオカ、ヒキ、許さない、許さ、ない……ッ!」
地の底から這い出るようなカラカラ声と共に、白いシスターの化け物も走り出した。
それもとてつもない速さで。
白いシスター服の裾が大きく翻り、真っ赤なビーズのお下げが血のように光を散らす。
ホッケーマスクの奥の紅い目が、暗がりの中で定まらぬまま俺たちを追いかけてくる。
その視線が背中に張り付く感覚が、皮膚を焼けるように熱く、同時に氷のように冷たかった。
「うわぁああッ!!?」
嘘だろ!?
今の俺、襲歩レベルの速度で走っているのに!?
華奢な脚が石畳を蹴り、薄いワンピースの裾が風を切る。
長い黒髪が頰を叩き、冷たい空気が肺に突き刺さる。
それなのに、後ろから迫る足音は明らかに速い。
距離が縮まっていくのが、背筋の寒気で分かる。
心臓が喉元まで飛び出しそうに激しく鼓動し、耳の奥で鼓膜を叩き続ける。
息が浅く、短く、上手く吸えない。
胸が締め付けられ、視界の端がチラチラと暗くなる。
ヤバイ!!
もっと速く!
速く走るんだ!!
ていうか、出口は何処だよ!?
この廊下、どれだけ長いんだよ!?
いつまでも同じ不気味な廊下が続く。
高い石造りのアーチが規則正しく頭上を過ぎ、色褪せたステンドグラスが淡い影を床に落とすだけ。
先程まで走っていた紅い鳥居の道とは訳が違う。
あそこには少なくとも"出口"があった。
ここには、終わりが見えない。
冷たい石の壁が両側からゆっくりと迫ってくるような錯覚に襲われ、反響する足音が幾重にも重なって、まるで自分が何人も走っているような、いや、何かが自分を囲んでいるような恐怖が込み上げる。
「悪霊退散!悪霊退散ッ!」
相手がお化けじゃないと分かっていても、思わず念仏を唱えてしまう。
甲高い女の子の声が石の廊下に反響し、虚しく、無力に消えていく。
あの頃のお化け屋敷の記憶が、脳裏を容赦なく侵食する。
あの日の暗闇。
突然現れた青白い顔。
耳元に何度も木霊する呻き声。
喉元を撫でた冷たい風。
逃げたくても助けを呼びたくても金縛りにかかったかのように動けず、布団の中で震え続けたあの夜。
忘れられたはずのトラウマが、今、この華奢な身体の中で鮮烈に蘇り、全身を支配していく。
指先が震え、膝がガクガクと音を立て、喉が締め付けられて声にならない悲鳴が詰まる。
怖い。
怖い。
怖い。
頭の中がその言葉だけで埋め尽くされる。
「妖怪♪アヤカシ♪困った時は……」
それに続いて、リズムに乗って歌い出すヒキ。
無邪気な声が、追ってくる気配と混じって耳に入る。
その明るさが、逆に現実感を失わせ、さらに恐怖を煽る。
「黙ってくれ!!」
呑気に歌い出したヒキに、ついつい大声で止めさせる。
声が裏返り、石壁に高く跳ね返る。
自分の声が女の子のものだという事実すら、今は恐怖を増幅させる材料でしかない。
「あ、そう言えば昨日歌っちゃダメって言われてた。」
ヒキは思い出したかのように呟き、歌うのを止めた。
茶色い丸目が少しだけ曇る。
危ないところだった。
胸の奥で、ディケヤミィ達の警告が鋭く蘇る。
ヒキの歌は全てを破壊する力を持つ。
一歩間違えれば、この不気味な教会はともかく、この世界も、終わりだ。
せっかく第2の勇者試練が始まったのに、こんな形で世界を破壊されたらたまったものじゃない。
「イジメ、絶対に、許さ、ないッ!」
白いシスターが一気に距離を詰め、背後から右手に握られた長い牛刀を突き出してきた。
刃が薄暗い光を捉え、冷たく光る。
ホッケーマスクの紅い目が大きく見開かれ、殺意だけが明確に伝わってくる。
その視線が背中に食い込み、皮膚が粟立つ。
「ワッ!?」
俺は咄嗟に右手を前に引いてヒキを前方へ引っ張り上げる。
小さな身体がふわりと浮き、牛刀の先はヒキの残像を掠めた。
刃が空を切り、甲高い金属音が廊下の石畳に響く。
間一髪だった。
冷たい風が頰を撫で、危うくヒキの命を落とすところだったと、遅れて理解する。
理解した瞬間、全身の血の気が引く。
足がもつれかけ、転びそうになるのを、必死に耐え、速度を変えず走り続ける。
それにしても、どうしよう、どうしよう……!?
剣を使う事が出来ない。
原因は分かっている。
今の俺は恐怖で完全に支配され、立ち向かう勇気が一片たりとも残っていないから。
華奢な指が震え、腰に手を伸ばしても何もない。
勇者の剣、ブレイヴソードはここに呼び出せない。
恐怖が身体を縛り、逃げ足だけを異常に速くする。
自分の弱さが、嫌というほど身に染みる。
勇者だった頃の自分が、今のこの惨めな姿を見たら、どれほど呆れただろう。
白いシスターは直ぐさま体勢を立て直して再び全力で追って来る。
白い服が闇に溶けかけ、赤いビーズだけが血の軌跡のように残る。
足音が再び近付き、息遣いすら聞こえてきそうだ。
後ろから『許さない』という声が、生々しく、執拗に追いかけてくる。
俺はヒキの手を握り締め、更に速度を上げた。
石畳を蹴る音が激しく連なり、長い黒髪が乱れ、薄いワンピースの裾が激しく翻る。
心臓が耳の奥で破裂しそうに鳴り、冷たい汗が背中を伝う。
涙が目尻に滲むのを、必死にこらえる。
怖い。
死にたくない。
このまま殺されるなんて嫌だ。
お化け屋敷の暗闇が、永遠に続く廊下と重なり、出口のない悪夢に囚われたような感覚が全身を支配する。
このままでは追いつかれる。
出口はまだ見えない。
それでも、止まるわけにはいかない。
薄暗い教会の廊下が、永遠に続く悪夢のように、俺達を飲み込み続けていた。




