牡羊座の優等星⑫
「おかし、い、刺した、筈なの、に……?」
遠くから、カラカラに渇いた女の子の声が響いた。声は石造りの廊下を長く反響し、どこか壊れたオルゴールのように不規則に歪んで届く。
ビー玉か何か何かが微かに触れ合う音が、カチカチと規則正しく廊下に響く。
冷たい空気がその声を運び、耳の奥にまとわりつく。
まるで凍てついた指先で鼓膜を撫で回すような感触だ。
廊下の壁に染み込んだ湿気が、その声に混じって甘い腐臭を運んで来る。
何だ、この感じ…。
恐る恐る振り返ると、長い廊下の先に、白い人影が静かに立っていた。
真っ白なシスター服を纏った、不気味な程に細長い女だった。
純白の布は薄暗い光の中で異様に浮かび上がり、裾が床に長く影を落としている。
顔はホッケーマスクで完全に隠され、くすんだ豆乳色のお面には複数の穴が不規則に開いている。
その中でも特に大きな二つの穴の奥から、真っ赤な目がこちらをジッと、動かぬまま見つめている。
長い白髪は真っ赤なビーズで二つのお下げに結ばれ、その特徴的な髪飾りが血のように赤く光り、ステンドグラスの淡い光を反射して不気味に揺れていた。
え……?
もしかして、お化け……?
足がすくみ、呼吸が浅くなる。
冷たい汗が背筋を伝い、華奢な身体の心臓が耳の奥で激しく鼓動を打った。
石畳の冷たさが黒いローファー越しに伝わり、膝ががくがくと震える。
薄いワンピースの裾がわずかに揺れ、冷気が素肌を直接撫でる感覚が、恐怖を更に増幅させる。
肌が粟立ち、指先まで痺れるような悪寒が走る。
目が合った。
ホッケーマスクの隙間から覗く紅い双眼がカッと大きく見開いた。
まるで獲物を定めたように瞳孔が収縮し、血の色が更に濃くなった。
「うわあああぁぁぁあアアアッ!?」
自分の喉から、甲高い悲鳴が石の廊下に響き渡る。
驚く程に女の子の声だ。
勇者だった頃の低い声ではない。
その事実が、恐怖を更に増幅させる。
お化けがいるってのは聞いてないって!!!
それに何だ此処は!?
何でこんなに暗いんだよッ!?
高いアーチの天井から落ちる影は、巨大な口のように口を開け、色褪せたステンドグラスが描く歪んだ十字架の模様は、血の涙を流しているように見える。
壁に染み込んだ古い蝋の匂いと湿った石の匂いが混じり合い、底知れぬ不安を煽る。
蝋の甘い焦げ臭さと、石の冷ややかな湿り気が鼻腔を満たし、吐き気が込み上げる。
遠くで水滴が落ちる音が、まるで心臓の鼓動のように規則正しく響いている。
滴る音の合間に、誰かの浅い呼吸が聞こえるような気がして、背筋が凍り付く。
まるでお化け屋敷みたいだ。
「あ、あぁ…!」
恐怖におののき、後ずさる。
踵が石畳に引っかかり、危うく転びそうになる。
華奢な足首に力が入らず、身体のバランスが取れない。
忘れようとしても忘れられなかった、あの日の悪夢の記憶を、鮮烈に呼び起こすのに十分過ぎた。
暗闇の中で見開かれた殺意の目が、今の赤い目と重なる。
血塗られた白い服が、このシスター服と重なる。
刃物を構えた影が、マスクの奥で笑っている気がする。
冒険に出る直前まで、狭い部屋で引き篭もっていたので忘れかけていたが、俺は昔から幽霊やお化けの類いが苦手だった。
それは遠い昔、とあるお化け屋敷が全ての元凶だった。
暗闇の中から突然現れる青白い顔、血塗られた白い服に刃物、不気味に響くうめき声、不気味な笑い声や泣き声、そして周囲から聞こえる断末魔。
気が狂いそうな程、息がしにくく肺が焼けるような感覚。
安心して眠る事すら許されない逃げ場のない閉所恐怖と、何かが悪意を持って追いかけて来るという確信。
怖さのあまり死んだ方がマシかもしれないとまで思ってしまったトラウマは、勇者になった今でも心の奥底に根深く巣食っている。
今、この薄暗い教会の廊下が、あのお化け屋敷の闇と重なる。
同じ冷気、同じ反響、同じ何かがいるという絶対的な感覚。
空気そのものが敵意を帯びているような、重苦しい圧迫感。
あの時のお化け屋敷の暗闇と同じ、底知れぬ恐怖が全身を支配していく。
華奢な指が震え、黒いリボンが喉元で窮屈に感じられる。
「む、無理……!」
無理無理無理無理無理無理無理無理無理ッ!!
無理だって!!!
「ま、まーちゃん、大丈夫!?」
心配するヒキの声で、わずかに我に返る。
茶色い三つ編みが揺れ、大きな丸目が不安げに俺を見つめている。
彼女の白い制服が、薄暗い光の中でわずかに浮かび上がっていた。
そうだった。
相手はお化けじゃなくて選挙の相手、敵だ。
ディケヤミィたちが言っていた"星徒"の一人。
その星徒達から世界を破壊する歌を持つヒキを守る為に、俺はここにいる。
戦うしかない。
俺は勇者だから…!
剣を取り出そうと腰に手を掛ける。
が、
「あれ、剣が無い……?」
ほっそりと丸みを帯びた腰には、かつて共に戦ってきた相棒とも呼べる勇者の剣、ブレイヴソードが無かった。
革のベルトも、剣帯も、何も無い。
ただ薄いワンピースの布地が、指先に触れるだけだ。
え?
武器も無しで戦えと……?
頭が真っ白になる。
勇者としての記憶が、女の子の身体の中で激しく拒絶反応を起こす。
剣を握る感触、重量、戦いのリズム——それらは全てこの細い腕と小さな手には存在しない。
勇者の頃の記憶が空転し、焦燥だけが残る。
剣がない。
魔法はそもそも使えない。
この華奢な少女の身体で、あの赤い目を光らせて武器を持った存在と対峙しなければならないのか。
「……まーちゃん?」
ヒキが首を傾げる。
心配そうな声が、石の廊下に小さく反響する。
どうする?
どうすれば良いんだ!?
頭の中が悲鳴を上げている。
打開策が思い付かない。
「と、とにかく一旦、逃げるぞ!」
戦う術がない。
逃げるしかない!
気が付いたら俺はヒキの左手を掴んで走り出していた。
小さな手が意外と温かく、指が絡む。
彼女の体温が、凍えた自分の指先に染み込んで来る。
その温かさが、反ってこの恐怖が現実だと突き付けられる。
だが、とにかく全力で走る。
石畳を黒いローファーが叩く音が、甲高く響く。
靴音が廊下全体に反響し、まるで追われていることを周囲に知らせているようだ。
薄いワンピースの裾が翻り、長い黒髪が風を切る。
髪が顔に張り付き、視界が一瞬遮られる。
冷気が太ももや膝の裏を直接撫で、肌が粟立つ。
後ろから、赤いビーズの光が追ってくるような気がして、背筋が凍る。
カチカチというビーズの音が、確実に近づいている気がする。
とにかく、この場から逃げたい。
その一心で、薄暗い教会の廊下を、俺は幻子の身体で駆け抜けた。
息が上がり、小さな肺が悲鳴を上げる。
足の力がすぐに尽きそうになる。
膝がガクガクし、転びそうになる度にヒキの手を強く握り締める。
高いアーチの影が頭上を過ぎ、ステンドグラスの淡い光がチラチラと視界を掠める。
わずかな光の筋が床に落ち、影が長く伸びては消える。
まるで何かが後ろから手を伸ばしているように見える。
半ば引っ張られているヒキの足音がすぐ後ろで続き、混乱した彼女の息遣いが聞こえる。
俺は恐怖と混乱と、慣れない身体の感覚が混じり合い、ただ前だけを見て走り続けた。
この先に何があるのか、まだ分からない。
ただ、止まれば終わりだと、本能が告げていた。
後ろを振り返れば、赤い目がすぐそこにいる気がして、振り向けない。




