牡羊座の優等星⑪
◇◇
「え、まーちゃん!?」
少し幼い女の子の驚き声に、俺は目を覚ました。
身体が軽い。
あまりにも軽くて、まるで羽毛のように浮いているような錯覚すら覚える。
それなのに、肌のあちこちがやけにスースーする。
風が直接肌を撫でている感覚だ。
いつもなら鎧やローブが肌を守っていた筈なのに、今は薄い布1枚で外気に晒されている感じがする。
やけに重たい瞼を、必死に押し上げた。
視界がぼんやりと開ける。
自分自身を見下ろすと、そこには白くほっそりと丸みを帯びた手足があった。
黒いローファーが足元に収まり、黒縁の白いワンピースが体に沿っている。
襟元には黒いリボンタイが丁寧に結ばれ、長くサラサラとした黒髪が肩から背中へと流れ落ちている。
指先は細く、爪は短く整えられ、自分のものとは思えない程に華奢だった。
……わ、本当に俺、幻子になってる……。
勇者だった俺が、大和撫子のような女の子の身体に収まっている。
ゴツゴツとした筋肉が無いせいか胸の辺りが妙に軽く、腕も腰のラインも細い。
細く柔らかい髪が頰に触れ、リボンがわずかに揺れる。
見た目だけではなく感触も感覚も全てが異質で、現実感がない。
参ったなぁ……。
男と女の身体ってこんなにも違うのか。
頭の中で自分の声が響くのに、喉から出る声はきっと高いのだろう。
…ただ、感じたのはそれだけだった。
男なら1度は夢を見るであろう体験に好奇心と戸惑いが同時に込み上げては来るが、不思議と興奮しない。
そういう仕組みになっているのか、俺が無意識に拒絶反応を起こしているのかは分からないが…。
「良かったぁ!さっき……ッ、だってさっき、まーちゃんったら刺されて血を流して倒れて消えちゃったから……ッ!」
涙声で言う幼い雰囲気の女の子の声が、近くから聞こえる。
声は石の壁に反響し、少し遅れて虚しく消えていく。
俺はゆっくりと顔を上げ、周囲を見渡した。
此処は薄暗く、長く果てしなく続く廊下だった。
左側は縦長い窓が並び、右側は礼拝堂アーチ柱が並び、高い天井には肋骨状の骨組みが交差する立体的なアーチが規則正しく連なっている。
見た瞬間、此処が教会の中だと解った。
壁は冷たく湿った石で覆われ、ところどころに苔が這い、ヒビ割れた箇所からは微かな埃が舞い落ちる。
細長いカラフルなステンドグラスの窓が並んでいるが、外の光はほとんど差し込まず、色褪せたガラス越しに淡い灰色の光がわずかに漏れているだけだ。
床は磨き込まれた黒い石畳で、俺の黒いローファーが軽く触れるたび、小さく乾いた音が響く。
空気は冷たく、古木と蝋の微かな匂いが混じり、どこか神聖でありながら、廃れたような寂寥感を漂わせていた。
遠くの方で、水滴が石に落ちる音が規則正しく聞こえる。
そして、俺に話し掛ける女の子…。
さっき、ディケヤミィが言っていた"ヨウオカヒキ"ってやつか?
あの世界破壊の歌を持つ少女……。
「……まーちゃん、どうしたの?」
まーちゃん?
あぁ、幻子の事か。
彼女は、今の俺の事をそう呼んでいるのか。
幻子となった俺に話し掛けている女の子と、ようやく目が合った。
……あれ?
目の前に居るのは、暗く茶色く大きな三つ編みがふたつある髪の女の子だった。
茶色く大きな丸目が、まだ涙で潤んでいて、黒いリボンの付いた白いスカートの制服を着ている。
胸元にも同じ黒いリボンが結ばれ、全体がシンプルで清楚な印象を与える。
背丈は今の俺よりわずかに低く、幼い雰囲気が強い。
薄暗い廊下の光の中で、彼女の白い制服がわずかに浮かび上がり、影が長く伸びている。
「君、本当にヒキなのか?」
声が、思ったより高く、柔らかく響いた。
自分の声なのに、どこか他人のようだ。
夢の中で聞き慣れた幻子の声が廊下の石壁に反響して、わずかに遅れて返ってくる。
「そうだよ、私は桜丘妃姫だよ?」
涙を止めてキョトンとした顔で俺を見つめる女の子。
大きな丸目が、純粋に疑問を浮かべている。
三つ編みがわずかに揺れ、黒いリボンが光を反射する。
この子、どこかで見た事がある……?
何で幻子と同じ服を着ているんだ……?
……あ、そうだ!
旅の途中に立ち寄った歴史館にあった写真!
そう、あの歴史館に飾られていた一枚の写真だ。
セピア色で古ぼけてはいたが、巨大な箱みたいな建物の前で百人近く並んでいる男女の集合写真。
男女それぞれ多少違えど皆揃ってシンプルなデザインの服を着て、地味な髪型をしていた。
写真自体がセピア1色とはいえ、白と黒のみに感じられ、とても色が少ないように見える世界だった。
幻子はその集合写真のほぼ中央に写っていた。
あの写真を見た時から、夢で出逢っていた幻子はこの世に存在していないのだと知ったんだった。
過去の存在、あるいは記録にしか残っていない少女。
そして目の前にいる彼女は確か同じ写真に写っていた。
幻子の右隣に写っていたのでよく覚えている。
同じ白い制服に黒いリボン、濃い色の三つ編み。
写真の中では無表情に立っていたのに、今は生き生きと涙を浮かべて俺を見ている。
他人の空似、なのか?
ここが写真の中の世界とは考えにくいし……。
それとも、俺は幻子の身体に乗り移った事によって、昔の時代にタイムスリップしたのか?
頭の中が混乱する。
戴冠式の栄光も、最果ての地の虚無も、紅い鳥居の列も、全てが遠い夢のように感じられる。
今の俺は、ただの華奢な少女の身体に閉じ込められ、薄暗い教会の廊下で目の前の"桜丘妃姫"と対峙している。
彼女が本当に、世界を破壊する歌を持つ存在なのか。
その大きな丸目の奥に、そんな力が宿っているとは信じがたい。
廊下の奥からは、微かな風が吹き、等間隔に飾られていた蝋燭の影がゆっくりと揺れる。
冷たい石の感触が足元から伝わり、俺の慣れない女の子の身体をさらに不安にさせる。
「ふふふっ、変なまーちゃん。」
考え込む時間が長かったのか、ヒキは首を傾げて、少しだけ笑みを浮かべていた。
ピンク色のゴムで縛られた2束の茶色い三つ編みがふわりと揺れる。
その無邪気な笑顔が、逆に俺の胸をざわつかせた。
この子を、守らなければならない。歌わせてはいけない。
正体を知られてはいけない。
俺は幻子として、この少女の隣に立っている。
勇者としての記憶を抱えながら、女の子の身体で、新たな"物語"を生き始めなければならないのだ。
胸の奥で、まだ慣れない鼓動が、小さく、しかし確実に鳴っていた。




