牡羊座の優等星⑩
「…色々と不安だが、何とかやってやる。」
俺は観音開きの扉を見つめ、深く息を吐いた。
冷たい霧が肺に流れ込み、紅い鳥居の列が背後で静かに見守っている。
小さな神社の、薄暗い内側から、何か古いものが、息を潜めて見つめている気がした。
これから俺は"幻子"になる。
勇者から幻子へ——再び、俺は誰かの物語の役割を演じる存在になるのか。
胸の奥で、激しい葛藤と、微かな決意が交錯した。
ミーシャを、ヒキを、そしてこの歪んだ世界の真相を、俺は自分の手で掴み取らなければならない。
この扉の先で、何が待っているのか。
ヒキという少女の顔は、まだ見ぬまま。
ただ、彼女の歌が世界を飲み込む前に、俺が間に合わせて防がなければならない——その覚悟だけが、虚無の中にぼんやりと灯っていた。
大丈夫だ。
俺は、勇者なのだから。
そう自分に言い聞かせても、胸の奥はざわついていた。
これが武者震いというやつなのだろうか。
さて——
古びた社殿の奥深く、神棚の埃まみれた扉を押し開けた瞬間、冷たい風が胸元に容赦なく吹き込んできた。
湿った土の匂いと古い木の腐臭が、一瞬で鼻腔を満たす。
背後では、まだ霧に包まれた最果ての地が静かに息づいている。
「……行くぞ。」
俺はマントを翻し、古びた扉に向かって一歩を踏み出した。
革のブーツが石段を軋ませ、音が虚しく響く。
「行ってらっしゃい!」
後ろからディケヤミィの明るい声援が、黄金のお玉を振る音と共に聞こえる。
「お、お気を付けて!」
ルパヴェンの震える声が続いた。
白い羽が小さく揺れているのが目に浮かぶ。
「御武運ヲ。」
イメドダの機械的だが穏やかな声が、鎖のカチャリという音と重なる。
「ご健闘をお祈り申し上げます。」
スズスナの丁寧でどこか期待を帯びた声が、最後に静かに届いた。
皆、ありがとう。
期待に応えるよう、頑張ってみるよ。
古びた扉を潜り抜けたその時——
「おぃテメェ等またやりやがったな!?タダじゃおかねぇぞ覚悟しろよゴラァッ!!」
遠くから、男の怒号が霧を裂くように響いた。
え……と、この声は確か……あれ?
「誰だよッ!?」
振り返った途端、目の前の扉がバタンッと勢いよく閉まった。
冷たい風が断ち切られ、背後の世界が完全に遮断される。
「え、えぇ…?」
慌てて扉に手を当て押しても引いてもビクともしない。
もう確認する事も引き返す事も出来ない。
今の怒鳴り声、誰だったんだ?
監視者メシエ座って奴の声なのか?
…いや、違う。
誰かは分からない。
ただ、つい最近、どこかで、聞いた事があるような声だった…。
え、いつ、何処で聞いたんだろう…?
…畜生、思い出せない。
男の声なんて、いちいち覚える気もなかったからなぁ…。
早く役目を終えて、戻って確認するしかないのか。
それにしても、何かヤバイ感じの言葉が聞こえたけど、ディケヤミィとイメドダ達は無事なのだろうか?
新たな謎と不安が増えてしまったが、扉を閉められてしまった以上、確認しようがない。
急に飛び込んで来た誰かの怒号がまだ耳に残っているのに、もう届かない。
胸の奥で不穏な予感が膨らむが、今は前に進むしかない。
参ったなぁ…。
諦めて前を向き直した。
そこは、いよいよヒトの世界ではなかった。
真っ白な虚空が果てしなく広がっている。
地面も空も壁もなく、ただ純粋な白が無限に続いている。
その中を、無数の紅い鳥居が一直線に連なっていた。
朱塗りの柱は血のような鮮やかさで、白い光の地面に長く鋭い影を落としている。
先程まで歩いていた霧の中の道とは対照的に、ここには風もなく、音もなく、匂いすらない。
ただ俺の息遣いだけが、虚無に吸い込まれていく。
正直、怖い。
今直ぐにでも引き返したくなる。
足がすくみ、心臓が早鐘を打つ。
この静寂は、あまりにも不自然で、孤独を極限まで増幅させる。
だが、俺はかつて勇者と呼ばれた男だ。
あの冒険で全てを失い、信じていたモノ全てが幻のように色褪せた後も、ただこの扉の先を最後の希望としてもう一度歩む事を決めた。
幻子に、もう一度会う為に。
そして、幻子になる為に。
「行くぞ…ッ!」
靴底が白い地面を蹴る。
紅い鳥居の下を、俺はひたすらに走った。
ひとつ、また一つと、鳥居を潜り抜ける度、心臓の鼓動が激しくなる。
最初は純白だった世界が、次第に色を失い、薄墨を流したように暗くなっていく。
白い光が灰色に、灰色が深い紺に変わり、やがて漆黒に近づいていく。
だが、走っても走っても、聞こえて来るのはハァハァという俺の乱れつつある呼吸と、バタバタとした俺の靴音と、バサバサとはためく俺のマントの音だけだった。
誰もいない。
何もない。
ただ紅い鳥居だけが、永遠に続いている。
やがて、周囲に星々が瞬き始めた。
遠くに螺旋を描く銀河が浮かび、紫や青の淡い光が虚空を染める。
宇宙そのものが俺の走る道を包み込んでいる。
鳥居の朱色だけが、暗闇の中で異様なほど鮮やかに浮かび上がっていた。
まるで血の道を、宇宙の海を、独りで突き進んでいるようだった。
辛い、苦しい。
身体ではなく、心が。
この果てしなく続く道を、独りで走り続けるのは。
ミーシャの軽快な笑い声も、幻子の穏やかな声も、人々の歓声も、どこにもない。
ただ自分の足音だけが、虚無を叩く。
もはや己との戦いとなっている。
…どれほど走っただろうか。
鳥居の道の果てに、ひとつの小さなシルエットが見えた。
近づくにつれ、その輪郭がゆっくりと形を成していく。
黒く艶やかな革製のローファー。
白に黒い縁の入ったワンピースに、夜のように黒いリボンが襟元で結ばれている。
腰を越えて背中まで流れ落ちる長い黒髪は、星の光を浴びてわずかに輝いていた。
両目は穏やかに閉じられ、長い睫毛が影を落としている。
そして、彼女の最大の特徴——額の中央に、深く刻まれた縦の一筋の傷跡。
まるで古い刀傷のように、皮膚が引きつれている。
「……幻子っ!」
俺の叫び声が、星々の海に大きく響いた。
少女は無言だった。
何も言わず、ゆっくりと、夢の中で出逢った時と同じように、右手をこちらへ差し伸べてくる。
その指先は白く細く、触れたら壊れてしまいそうなほど儚い。
星の光が彼女の白い肌を優しく照らしている。
俺は息を呑み、恐る恐るその手を取った。
冷たい。
氷のように冷たいのに、その細い指を絡めると、懐かしい温もりが微かに蘇る気がした。
幻子の小さな手が、俺の大きな手を包み込む。
その感触が、目覚めた虚無の時からここまで走ってきた全ての孤独を、一瞬だけ溶かした。
その刹那——
幻子の額の傷が、左右に静かに裂けた。
肉が裂ける音はなかった。
ただ、薄皮が花弁のように開くような、異様な静けさがあった。
そこから現れたのは、紅い眼球だった。
ヒトのものとは明らかに違う、深淵のような赤。
表面に星々の光が映り込み、妖しく輝いている。
その瞳が、俺を真正面から見つめた。
瞬間、紅い光が爆発するように俺の視界を染め上げた。
世界が真っ赤に、赤に、赤に——灼熱するような赤に塗り潰されていく。
俺は幻子の閉じた優しい目と、額から俺を凝視する第三の眼を、同時に見た。
優しさと、底知れぬ異質さが、重なり合って俺を包む。
そして、意識が溶けるように、全てが紅の闇へと沈んでいった。
最後に残ったのは、彼女の冷たい手の感触と、胸の奥で響く、遠く懐かしい鼓動だけだった。




