牡羊座の優等星⑧
「へァ?」
思わず変な声が出てしまった。
俺が、蝶想幻子になる…?
勇者である俺が、謎の美少女である幻子に?
意味が分からず、頭が真っ白になる。
混乱している俺に、ディケヤミィが顔をぐっと近づけて覗き込んでくる。
大きな青い瞳が間近で輝き、甘い匂いと金色の髪の先が頰に触れそうになる。
心臓が一瞬、強く跳ねた。
「だから、今度は貴方が幻子になってヒキ先輩を助けるのよ。」
「ヒキセンパイ?」
急に知らない名前が出てきて、俺の言葉はさらにカタコトになる。
頭の中で情報が追いつかず、霧のようにぼやける。
「ユーシャ君の従姉妹のヒキ先輩だよ?」
……俺にイトコがいたのか。
初耳だ。
あっ、そうか。
ミーシャの従姉妹なら、俺の義理の従姉妹にもなるのか……。
参ったなぁ~。
俺とミーシャはそんな関係じゃないと思っていたのに。
という事はアレだ。
いつか俺とミーシャの間に子供ができて……、その子にヒキという従姉妹が……?
想像が勝手に膨らみ、頰が熱くなる。
虚無の地でこんな馬鹿げた妄想をしている自分に、再び自己嫌悪が込み上げる。
ミーシャの笑顔が脳裏に浮かび、胸が痛く締め付けられた。
あの厳しくて熱い女剣士との未来など、もう手が届かないのかもしれないのに。
「あっ、あのですねッ!」
俺が物思いに耽っていたら、ルパヴェンが突然声を上げた。
何故か彼の顔が真っ赤で、頭から生やした白い羽が小刻みに震えている。
「な、何だよ……?」
まさか、俺の事が気になるのか?
悪いけど、俺は男には興味ないんだぞ?
——と、内心で警戒する。
ルパヴェンが困り顔で、どもりながら口を開いた。
「私達は、ヨウオカヒキ様をお守りするよう、ミーシャ様に選ばれた星徒なんです。」
「ヨウオカヒキ……?」
その名前に聞き覚えがある。
確か街中を食い荒らしていたと噂の、デカい目のヒキガエルみたいな化け物だ。
そう、ソイツは薄暗い森の奥深くの沼地、湿った苔の匂いとともに、這い出て来た。
見上げる程に巨大な体、ドブや湿った粘土を思わせるくすんだ土色の皮膚は無数のイボやひび割れが刻まれており、通常の左右の位置にあるピンク色の二つの目に加えて額の中央にももうひとつ同じように巨大な目が嵌め込まれて、三つの爛々と輝く眼球はそれぞれが独立して動き、常に獲物を値踏みするように周囲を睨みつけ、その下で裂ける大きな口は鋭い牙が並び、いつでも丸呑みにしてやらんとばかりに粘り気のあるヨダレを滴らせていた。
しかし、そのおぞましい体躯とは対照的に、背中には奇妙な"庭"が広がっていた。
背一面を覆うのは、青々とした緑の草むら。
そして、その茂みから這い出るようにして、無数のピンクの薔薇の花が咲き乱れていた。
棘だらけの茎が体に絡みつき、怪物が呼吸するたびに花々が小さく揺れる。
その中でも目を引くのは、背中の中心に鎮座する一輪の巨大な薔薇だった。
その花弁は人の頭よりも大きく、不気味なほど鮮やかに、血のような紅い色の光を放っていた。
地響きのような唸り声をあげる度に沢山の蝶々が小さな薔薇園から飛び立つその様は、自然の美しさと深淵の恐怖が歪に融合した、まさに森の悪夢そのものだった。
あの時見た姿を思い浮かべ、思わず顔をしかめる。
……って、それも俺が見た幻覚だったのだろうか。
記憶が霧に吞み込まれ、どれが本当でどれが幻なのか、ますます分からなくなる。
でも多分、そのヨウオカヒキとはソイツのことだろう。ヒトの名前であれば多分、女の子だよなぁ。
食いしん坊な女の子も悪くない……可愛ければの話だけど。
「つまり、俺が幻子になって、そのヒキって子の手助けをするって事か。」
すると、ディケヤミィが肩をすくめてため息をついた。
「んもぅ、さっきからそう言ってるじゃないの!」
冗談かと思ったら、マジかよ……。
俺が、幻子に?
「こ、混乱するのも無理もありませんッ。我々も幻子になるまで知らなかったのですから…。」
「我々も幻子…?」
あぁ、そうか。
俺が今から幻子になるんだから、コイツ等も幻子になっていた時もあったって事か…。
…えっ、ちょっと待って!?
「監視者メシエ座は町の存続を第一に考えており、その為に幻子という依代を我々に貸して下さったのです。」
監視者メシエ座?
何だそれ?
いやいや、そんな事よりも…。
幻子が依代……?
という事はつまり、俺が夢の中で何度も会っていた蝶想幻子は、本当は別の誰かだったって事なのか……?
確かに今思い返せば……、いつだったか。
いつもお嬢様のように淑やかで飄々とした幻子が、急にぎこちない仕草をしたり、訛りのような変わった喋り方をしたりしていた時期があった。
あれは、複数の誰かが交代で"幻子"を演じていたという事だったのか。
その事実に、裏切られたような激しい喪失感が胸を締め付ける。
彼女の寂しげな瞳すら、誰かの演技だったのか……。
黒髪の少女の飄々とした笑顔と寂しげな瞳が、脳裏に鮮やかに蘇った。
彼女が俺を異世界に引きずり込み、世界を救わせたように、今度は俺が誰かの"幻子"になるというのか。
胸の奥で激しい動揺が渦巻く。
勇者から幻子へ——役割の逆転が、俺のアイデンティティを根底から揺るがした。
全てが幻で、仕組まれていた事。
仲間との絆も、勝利も、愛した人達との時間も……。
そして、今度は俺が幻を見せる番。
騙された俺が、騙す側になるなんて、許される事なのだろうか?
でも、もしこれでミーシャやヒキという少女を救えるなら。この虚無の果てで、新たな道を切り開けるなら——。
霧がゆっくりと社殿を包み、紅い鳥居の朱がぼんやりと浮かび上がる中、俺の心は再び、希望と不安と運命の重みに押し潰されそうになりながらも静かに燃え始めていた。
だがしかし、参ったなぁ……。




