ささやかれた祈り⑥
師を失った日。おのれの手でつかみきれなかった命。留めきれなかったたくさんの命。救えなかった患者。施術時の大出血。血管破裂。魔術の失敗、右手の爆散。…果ては幼少時に受けた、師の怒りの説教まで…!
己の孤独、周囲への羨望、集団生活への憧憬…、切望、嫉妬、不安、怒り、…恐怖!
「う、ぐ…。」
そんなものを一気に全部想起して、通常の脳神経が正常でいられるはずがない!
さらなる混沌と混乱が己の内に押し寄せる!それを強引に意志力でねじ伏せようとする。…いや、違う、逆らうんじゃあない。己に命じる!
たった一つ…、たった一つでいい!俺は光を知っている。その光をつかみとれ!
師の手がそこにある!
俺は真っ暗な激流に呑まれながら、瞳孔の開いた瞳でそれを幻視する。
まばたきもできない。心拍も呼吸もまだ止まっている。周りの世界から押しつぶされそうな圧迫感がある。それでいて胸の中からの空気で、内側から体がはちきれてしまいそうだ!
くそ、手を伸ばせ、手を伸ばせっつってんだろ!
漠然となってしまった周りの世界では。勝手に目と耳が情報を送り込んでくる。
明らかな俺の異変を不審に思った患者が、俺を助け起こそうと手を伸ばしてきた…!
「先生に触るな!」
だが小さな影が、疾風のような速さで俺と患者の間に割り込んだ。患者の手がやや乱暴に払いのけられる。
リョータだ。ありがたく、口惜しい。俺が刺された現場をすでに何回か見たことのある子だ。くわしく説明はしていなかったハズだが、おそらく本能的に、今、何が起こっているか理解している。何をすべきかも。
昔の自分を取り戻してから、こと俺に関しては異常に鼻が利くようになってしまったリョータ。直観力もケタ違い。今、何をすべきかを正確に理解している行動。知りようもないことを知っている。まるで師のようだ。
だが、師ではない。リョータの背には怒りの空気が見て取れる。
とるべき行動は正解だが、動機が間違っている。そうじゃない、そうじゃないんだ。リョータ。
ぼんやりとそれを眺めながら、俺にそれを口にする余裕なぞあろうはずがない。動かない体で、必死に意識の手を師へと伸ばす。濁流の中からでも光は見える…、助けはあるんだ!
身をねじるような気分で意識の手を伸ばす。
自分の指先が、師の手にかかった!その感触がした!
その瞬間、俺と師の言葉が重なり、傲然と身の内に鳴り響く。
『よし、まず一つ、息をしろ。』
澄み切った風がすり抜けるように身の内を駆け抜け、濁ったものをかき分けていく。
正常な指令が全身の各所に届き、しかるべき作用点へとたどり着いた。肺から出し切れなかった空気が全て押し出され、同時に心臓が一度大きく縮む。その後、力強く拍動した。
そうなると、後は自然な弾性で、肺が空気を吸い込み始める。それを助長し、吸えるところまで息を吸う。
『よし、もう一つ。』
取り戻した反射運動を助長する。自分の意識を、本来無意識にできるハズの動作をすることだけに集中させる。
濁流に呑まれるよりマシだ。すべきことに集中する。今は必要なことだけをしろ。闇に呑まれるな。
自分にそう言い聞かせながら、呼吸を行う。目を閉じた。硬直がゆるみ、顔がふせられる。
その間も、体は勝手に細かく震えはじめ、目からは涙が滲み始めている。吐き気もした。心理外傷時の反射・行動…、体が勝手にそれをなぞり始めている。抑制できない。まだそこまでは手が回らない。
…刺されると、こうなる。己の意志とは、全く関係が無いのである。
リョータがこちらを振り向き、心配そうに覗き込んでくる。その小さな体はまだ俺と患者を隔てる様に陣取っている。触れてこようとしない。さすがだ。この子は分かっている。
俺はその短い間に大急ぎで体機能を回復させる。呼吸・循環…、大丈夫だ。運動機能も少しずつ戻り始めた。衝撃の余韻は消えていないが、すべて解消しているヒマはない。俺は己を叱咤する。今は患者が目の前にいる。気づかれる前に、立ち上がれ!
歯をぎりぎりと食いしばり、立ち上がろうとする。…とりあえず、片膝はつけた。だがそこまでだ。くそ、まだ四肢の動きが完全じゃない…!
そこへ、意を決したのか、リョータが俺に触れてきた。心が矢の様に飛んでくる。
「ゔ。」(先生、大丈夫?)
発声と同時に飛んでくる、心の声。
心配、不安、そしていたわりの心。…ありがたかった。特にいたわりの心が、闇を少し遠のかせてくれる。
今、己の心には、うつろな穴が開いている。
そこから深い闇がのぞいている。
呑まれるわけにはいかない。脱力しそうになる己をもう一度叱咤した。一度目を閉じる。もう一度息をした。
“………、よし、俺は大丈夫だ。今、この時だけは全部呑み込め。仮面をかぶるんだ。”
一息に一気に立ち上がり、目を開く。身体の震えは力づくで押しとどめた。
「うん、大丈夫だよ、リョータ。」
リョータに肉声で応える。自分でも驚くほど、朗らかな仮面の声が出た。だが震えていた。
そしてリョータには触れず、彼を避けて患者に歩み寄ろうとする。
だが、こちらを見上げるリョータの顔は強張っていた。当たり前だが、彼をごまかせるはずがない。
進もうとする俺を、リョータが割り込んでムリに押しとどめようとする。手が身体に触れていた。
「ゔ!」
例によって、発声は言葉になっていなかったが、明確に俺を止めようとする意志が伝わってきた。
(ダメだ!先生、涙がにじんで…、手も震えてる!)
そう聞こえてきた。
思わず俺は、リョータを振り払っている。激昂していた。
自分でも驚くほどの怒りだった。
“黙れ!!”
かつてないほど、動揺していたこともある。だがそれを、なけなしの努力で押しとどめ、必死に抑え込んでいた今の俺に、そのリョータの言動は完全に逆鱗に触れていた。傷口に塩を塗りこまれるような気分だった。
“邪魔をするな!…自分が半泣きで、震えも隠し切れてないことなんて言われなくても分かってる!!けど知られるわけにはいかないんだ!患者は自分が何をしたのかも分かっていない!これ以上患者の心を傷つけて何の意味がある!”
リョータの顔が驚愕に凍り付く。全身がびくんと痙攣した。
この瞬間、俺は己の失態に気が付いた。
“…しまった!!”
怒りなどたちどころに霧散する。恐怖で骨の髄まで凍り付いた。
今度は俺が、リョータを刺してしまった!
今、俺が刺されたように、俺がリョータを!




