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隠者の系譜《ハーミッツ・ライン》~~師匠を亡くした獣人医師は、それでも巡回医療の旅を続けます~~  作者: shin


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ささやかれた祈り⑤

 彼女の顔が真っ赤に染まる。だがその驚愕の表情は一瞬にして、憤怒のそれへと変わった。


 …!?、しまっ…


そう思った時には全てが遅すぎた。


「あなたに何がわかるのよ!勝手なことを言わないで!」


 慌てて触れていた手を放した、…と思う。

 けれど、音よりも光よりも早く、思考の波が、矢のように己の胸に突き刺さっていた!


「ぁなたぁになにがわかぁるのよ!勝手なことを言わないで!!」

 ぐぁんぐぁんと、耳奥で音がこだまする。

 本当に、音が後からついてきた。手は放したはずだ。すぐ放したはず。

 だがもう何も分からない。受けた衝撃でそれどころではなくなっている。がくんと世界が揺れた気がした。



 まずい、もろに刺された!?



「…あ…」


 俺は意識せず、現実でも声を漏らす。身体が一瞬痙攣するのを抑えることができない。

 視界は明瞭なはずなのに、なにも見えない。認識機構が働かない…。一つの凄まじい激流が己の心を、—―己の脳みそすべての働きを席巻する。彼女の絶望・憤怒・怨嗟・嫉妬…そういったものがないまぜに、明確な形もとらず、己の心へ、いきなり、きりのようにねじ込まれてきた!


「…ぐっ…!」


 息が絞られる。

 胸の中で、隠されていた覆いを乱暴に破られ、蹴散らされ、柔肌をあらわにしたような真っさらな部分へ、ずぶりと何かが突き刺さってくる。そして中で一気に膨れ上がり、はじけて真っ黒な泥のようなものがべしゃりとぶちまけられた。脳機能が勝手に反応し、それらに言葉を与え始める!



 “あなたに何が分かるのよ!勝手なことを言わないで!何も知らないくせに!あの人は私を好きなんかじゃない!みじめで悲惨な私に同情してるだけ。あわれんでるだけ。かわいそうだとしか思ってない。そんな目で見られるのがどんな気分かあなたに分かる?!どうせ私は不細工でひ弱で何にも出来ないやせっぽちよ。私だって健康な体で生まれたかった。みんなみたいに元気に普通に活き活きと動き回っていたかった!でも動くと痛いんだもの辛いんだもの、しょうがないじゃないどうしろって言うの?動けないのよ痛いのよ、動けないのは私が悪いの?痛いのよ!…みんながうらやましい…、どうして私がこんな目にあわなきゃならないの?痛いのよ!腹が立つ苦しい。どうして?誰のせいなの、誰を恨めばいい?!…なんで私はこんなにみじめなの?!どうしてみんなは私みたいにみじめじゃないの?!いたいくるしいつらいきつい、どうして?!どうしてなの?!ねたましい、うらめしい、腹立たしい。みんな大嫌いよ!!”


 真っ黒な泥はあたかも生きているように、もとあった空間を食い荒らす!

 侵略し、凌辱し、暴虐無人に犯し始め、思う様に暴れはじめた!勝手に脳が、考えてもいないのに、そこに座る彼女の思考を紡いでいく!怨嗟の声が、勝手に己の中を暴れ回る!


 …まずい…!治療する予定なんてなかったから、なんの清めもしておらず、何の防護策も講じていない。覚悟もなかった。お守りすら首にない。完全に無防備なところをもろに刺された!

 その自分の思考にしがみつき、勝手に広がる他人の思考をむりに押さえつけようとする!


 だがダメだ。衝撃が大きすぎる!ここで遅れて物理的な影響が顕在化する。ねじ込まれた思考の方が早く来るのだ!ここまで、で、ほぼ一瞬、あとから肉体の衝撃を自覚する!


 身体の奥底に、重いものをぶつけらたような衝撃が走っている。息が止まった!心臓も止まった!これは当然。治療中は己の杖と患者がもろに接触しているようなもの。杖とはすなわち、神経系・調節中枢。つまりは身体の内部で、直にそれらをひっぱたかれたに等しいのだ!


「…う…。」


 この間、わずか一呼吸。

 己の膝が崩れ落ちる。怨嗟の声が消えない。ねっとりと、にかわが耳にへばりつくようだ。

 自分じゃないのに、自分の思考が呪いの声をささやき続ける。…違う!そうじゃない!己の思考にしがみつけ!まずは呼吸。・心拍。制御しろ!いつもやってきたことだろ!!


「く…」


 まばたきすら出来ない。がくんと衝撃で視界が揺らいだ。両膝が床に落ちたのだ。その膝の痛みすら感じない。息がすえない。胸を殴りつけようとしたが腕が言うことを聞かない…まずい。運動機能まで…、まずい、まずい、まずいまずいまずい!

 視界がゆっくりと傾く。自分が膝を落とした状態から、患者の方へ倒れこもうとしているのがはっきりと分かった…!!


 ……!


 …死力を振り絞って身を捻じる!今度は床が自分へと迫ってきそうになる!だが運よく、力ない片手がつっかえ棒となった。がくん、と傾いたまま、不格好な人形のように俺は固定される。


 “……師よ…”


 片手でかろうじて上体を支えながら、案山子にでもなったような気分で俺はつぶやく。


 “師よ!”


 祈るように呼びかける。…あなたの助けがいる!どうか、いまここに!

 師の手は呼べば、いつ、いかなるときでもそこにある。すぐにそれを感じる。だが…。だめだ。まずい。今の俺は、なんの清めもしていない。次に来る、内からの激流が強すぎる!押し流される?!



 己の中に投じられた思念が、脳の回路構造から連鎖的に、類似反応、別の記憶を呼び覚まし始めた!



 誰にだってイヤな記憶というものはある。怒り、絶望、不安、嫉妬、心理外傷…。それの連想。だが通常とは異質の流れだ。正常な連想・励起ではありえない。だから制御なんて取れているわけがない!人がそれらを感じた時に行う反射や動作、行動回路まで、脳の中のそのむちゃくちゃな動きは、無作為に手当たり次第、なんでもかんでも、つながったものたちを励起させ始めた!ほんとうになんでもかんでも、むちゃくちゃに!


 吐き気、ふるえ、涙、めまい、その他の回避運動、そう言ったものが一気に勝手に動こうとする!脳がパンクする!だが使われたそれらはまたさらに、それらが使われた時の記憶を呼び覚まし…、トラウマがトラウマを呼び、かつて結びついてしまった、あらゆる負の記憶を呼び覚ましていく…!


 この間、一呼吸もたっていない!


 ……今までの悪夢がすべて、一息に頭の中になだれ込んできた!


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