満月の夜に⑨
僕がそれに気付くのを待っていたかのように、世界が急速に変わり始めた。
空が色合いを深め、静かに藍色を溶かすように、夜の訪れを知らせている。
雲が流れる…、迅い…、走る様だ。もう天蓋の半分を覆ってしまった。
雲だけじゃない、風景そのものが、変わり始める。
僕は全く動いていないのに、全速力で走っているみたいだ。
雲が流れ、山が走り…、風景そのものが、視界を勝手に流れていく。山がうつろい、稜線が流れる。あまりの変化に、僕が焦ってきょろきょろと見回すうちに、山の谷間には海が見えた。水平線が見える。波が揺らめきながら、空の色を受け入れるように映し出していた。
口を開けて呆然とそれを眺める。ここで海を初めて見た。
自分の足場だけ引っぱられて、移動させられているの???でもそんな感じは全然しない。しっかりとした感触が足の裏にある。動いても、波うってもいない。
どこからか照らされる光が変わる。雲の片側が黄金色に輝きはじめる。海の水面も、黄金色に輝いた。世界が茜色へと色づき始める。
気がつけばそこにある草原が、生き生きとした緑色から、僕の体毛と同じような枯れ草色に変わっている。胸元で風とたわむれる細い葉が、水平線からの光を透かすように輝いている。僕は息を呑んで周りを見渡した。
いつのまにか、僕を含めた世界の全てが、黄昏色に染まっていた。
世界一面が、鮮やかな夕焼け色、光をうけて、黄金色に輝いている。
その人影がゆっくりと歩いてきて、僕の数歩前で立ち止まる。
後ろに、夜の空色を背負っていた。
なんだか、この人が、夜を連れてきたみたいだ…。
たかだか数歩しかない僕たちの間で、世界が二つに分かれている。そんな感じがした。
小柄でがっしりとした白熊の獣人。先生とまったく同じの簡素な服装。顔には眼鏡をかけている。僕のいる方から照らされる光で、その身を茜色に染めていた。
「すべてに名前がある世界、かぁ。リョータ、お前はそんな風に認識するんだな。」
やわらかな笑みを乗せて僕を見下ろし、世間話でもするように話しかけてきた。
――僕は――、僕は、もう、おどろきの連続で、口を開けたまま何も言うことが出来ない。ただその人を見上げるだけだった。
「うん?知ろうと思えば、知ることができるよ?この辺り一帯は、皆わしの名を知っておるから、頼めば教えてくれるだろう。」
驚いた。僕が疑問として、頭の中で言葉を形にする前に、答えが返ってきてしまった。
答えを先に聞いてしまって、僕はやっぱりそうなんだ、と納得する。
僕はこの人なら、ここに在るもの全ての名前を、知っているんじゃないか?、と、いま、疑問に思ったんだ。僕がそういう疑問を覚えるだろう、と分かっていたのか?それともその疑問を頭の中で形にする前に、先に答えがわかったのか?それだけのことを、僕の方が遅れて理解する。もうむちゃくちゃだ、とんでもなかった。
そのうちに、黄昏の時が終わりを告げ、瞬く間に茜色が消え去っていく。お師匠様が物憂げに空を眺めた。その視線の先の夜空は、闇色がまだ薄い。
「…ふむ。リョータはまだ、ここまでしか来れないか…。…まぁ、性急に事を運んでも仕方がない。よしとするか。」
茜色が消え去った。でも夜の時間になっても、世界のまばゆさが消えていない。それに驚く。おかしい、すぐに気が付いて、自分の目を疑った。
腰までの草、その一本一本が…淡く、白銀色に光っている?!
よく見たら、風も…?山も!森まで!自分たちまで!全てがあわく光っている!
うそっ?!ぜんぶがぜんぶ、さっき見た先生みたいに、なにかの光を纏ってる!?
風すら、淡く薄い炎のように揺らめいている。
ときおりまたたく、蛍のような小さい輝きが、風の中に泳いでいた。熱はない。そんな星が優しく、自分のほほを撫でていく。よく見ると、細かい輝きがたくさん集まった淡い流れ。風なのに、まるで地上にも天の川と星々があるみたいだった。
天を見上げれば、それがそのまま、頭の上まで本物の天の川に続いていて重なっている感じがする。…でもこれ、ホンモノの天の川なの?
周りの全てが、星々で満たされている。
天井の雲間がきれ、そこから月明かりが投げかけられる。
再び視線を下げれば、光と闇と、淡く万色の光舞う夜の世界の中心で、お師匠様がたたずんでいた。
「魔法使いの世界へようこそ、リョータ。」
師の手がさしだされ、誘われる。
その手を前に、僕はぞくり、と背筋がうそ寒くなった。
先ほど見たものとはまた別の、もう一人の王が、そこにいた。
直観する。この人は――、この人は、あまりにかけ離れた――、ほとんど別世界にいる人だ。
僕とは全然違う。この人はどこに立っているんだ?本当に同じ場所に立っているの?
そして思う。まぎれもなく、先生と似た空気…。この人は…、先生と同じところに立っている?――いや、この人は先生の先生であるからして――、そうだ。先生が、先生がこの人の立つ場所を目指しているんだ!たぶん、今ですら!
そう思うと、ぞくぞくするのが止まらなかった。
怖さと恐れとあこがれと、期待と喜びが入り混じって、背筋をぶるぶるとふるわせる。それなのになぜか顔が、自然とにやけてしまった。
そうだ、この人――、この人こそ!
この人こそ、僕らのお師匠様!先生に魔法を教えた魔法使い。僕らの“始まりの人”!
「よろしくお願いします!」
僕は勢いよく、その手を取った。その一瞬、また星空に包まれたような気がした。
少し歩こう、とお師匠様が言う。僕らは輝かしい夜の世界を、二人並んで歩くことになった。
「さてと、リゲルも呼ぶか。結界を敷いたなら肉体も守れるだろう。あやつならそう時間もかからんさ。」
そして先生も現れて、僕は、僕の魔法使いとしてのこれからの話を聞いていた。
三人で座り込み、僕が大体、二人の話を聞く格好になる。
思っていた通り、この二人はとても仲が良かった。冗談でバカとかアホとか言っても、じゃれ合い程度のものなのだ。この中の僕は入れるのかな、と少し疑問を思うと、当たり前だろ!とすぐに答えが返ってきて、お師匠様に無理やり二人の間に座らされてしまった。先生がにこにこと、こちらを見ていた。居心地は悪くなかった。その二人の間で、たくさんの話を聞くことになった。
僕には魔法使いとして、高い才能があるということ。そしてその原因。
僕の体が、成長をしない理由。それらはやっぱり、先生が原因だった。
杖の話、魔法の話、二人の話…、いろんな話を、すごくたくさんした。
その間も僕らの周りの星々は、輝き続け、ずっと見守ってくれていた。
ときおり風がやわらかく、僕たちの邪魔をしないよう、毛並みを撫でつけていく。
少しも輝きの衰えない世界だった。
僕は――。
僕は、月の光をきざはしに、空の高みへと駆け上り、いつもとは違う懐かしい場所で、僕は――。
僕は、魔法使いとしての最初の一歩を踏み出した。満月の夜のことだった。




