第四章 満月の夜に①
僕は唐突に目を覚ました。
呼ばれている…。そう思った。
むくりと寝台から身を起こす。
僕は、いま、呼ばれている。
その確信とともに、暗闇の中で確かな方向を振り返る。
先生が呼んでる。…行かなきゃ。
音もなく、するりと寝台から滑り出た。
まどろみもせず、状況に混乱することもなく、僕はいきなり眠りから完全覚醒している。
まるで機械仕掛けで、あらかじめこうなると決まっていたかのようだった。
周りに眠る、知人たちを起こさないよう、忍び足で歩く。
…気配を断つ技術や、音を立てずに行動するコツも習っている。それが役に立った。誰にも迷惑をかけず外に出ることが出来そうだ。
…ここはクィードさんの家。この家には二部屋しかなく、今いるところは家族全員が眠る部屋である。
もう夜半過ぎなので、室内は暗い。窓の隙間から漏れてくる月明かりだけが、滑り落ちた先の床を細く照らしている。すぐ近くから数人の気配がし、静かな寝息が聞こえていた。
終工祝の打ち上げが終わってから、片付けのあと、参加者はそれぞれが家路へと着いた。
クィード一家もそうで、今はもう夜半過ぎ。明かりの節約のため、もう一家は休む時間である。僕もこれまでお世話になっていたように、ここで床を取っていた。
先生が呼んでる。
胸の中に確信がある。それはじりじりと胸を炙り、切羽詰まった焦燥感までになってきている。
急がないと。
それでも音を立てないよう、急ぎすぎず、抜き足差し足で進んでいたら。
「……あれ?リョータくん??」
“…うわっ!”
ものすごいびっくりしながらも、あわてて口は手で押え、声が漏れないようにする。
そのまま振り向くと、眼をごしごしと眠そうにこすりながら、半身を起こしたホルンさんの姿があった。
「…なんか妙だな、と思ったら…、お師匠様もいるの…?…何かあった…?…。……ああ、どうぞ。」
口を押えて固まっている僕をよそに、ホルンさんがごにょごにょと誰かとやり取りをしている。そしてすぐにもぞもぞと床に戻った。半分寝ぼけた口調で、声がかけられる。
「なんだか先生が呼んでるって。…先生のお師匠様が迎えに来てる。…何だろうね。気を付けてね。この人が来てるなら、だいじょうぶだと思うけど…」
あくびを加えながらそういった後、もぞもぞと寝返りを打ち、すぐにホルンさんは寝入ってしまった。
僕は口を両手で押さえたまま、固まっている。何も喋っていない、何も言えなかった。
その上で、かけられた言葉の意味を考える。
…どうも、ここにお師匠様が来ているらしい。
ホルンさんは、そういった普通は見えない魂の人を見たり、話をしたりできる能力を持っている。
周りを見渡した。…いつもの屋内に、いつもの空気。僕はお師匠様の姿を捕えることはできなかった。
でも、なんだか…、いつも感じているけれど、あまり気にしていなかった匂いが…、そんな匂いが、少し強くなっているような気がする。もしかしたら、これがお師匠様の匂いなんだろうか?
ふんふんと鼻を鳴らす。…はっきりとしない。
疑問に思っても、誰も答えてくれなかった。
僕は行動を再開する。戸口に向かい、そーっと音を立てないように戸を開けて、また、そー…っと、音を立てないよう、戸口を閉めた。
よし。
振り返り、歩き出す。
町の近くにある、林の方へと歩を向けた。誰に教えられなくても、僕には先生の居場所が分かっているのだった。
僕は、昔の僕を取り戻してから、尋常では無いくらい、鼻が利くようになった。
これは、病気で耳も鼻もダメになり始めていた小さいころの僕が、一番に、ハナ、匂いを頼りに周りの世界を認識していたからだという。
この変化は唐突で急激で、僕を戸惑わせるには十分だった。今となっては、用を足しに行った人が、おしっこだったのか、大きい方だったのか、そうと聞かなくても分かるようになってしまったし。…そしてどうしてか、女の人は時々、すれ違うだけで血の匂いがする…、これはどうしてだろう?今までそんなに意識していなかったのに、一人一人の匂いが全然違うことに驚く。日によっても、微妙に違うんだ。お酒を飲んだり、お肉を食べたり、で全然違う。…そのことにとても驚いている。そして戸惑っている。嗅ぎ慣れた先生の匂いですらそうなのだ。ただ、こと、先生の匂いに関しては本当に尋常ではなく、僕は一山離れた場所に先生がいても、その方角と距離がはっきりと分かるようになってしまった。
これは、先生が僕のハナに魔法をかけたせいである。
僕は小さい頃、お母さんを探しに行っては、何度も森の中で迷子になっていた。
その頃の僕は頭がおかしかったから、お母さんはもういない、と口で言っても分からない。何度も何度もお母さんを探しに行っては、迷子になる。そのたびに先生が僕を探しまわる。これを何度も繰り返すうちに、とうとう先生は、どんなに離れても僕が先生の所に戻ってこれるよう、僕のハナに魔法をかけたのだという。――正確には、先生の魂の気配を、匂いとして嗅げるように僕を訓練した。
この話にはとても合点がいっている。
今回、先生と離れて暮らし、本日の迎えを待っているときに…、僕は二日前から先生の気配を感じていたからだ。なんとなく、近づいてきていると脈絡もなく分かっていた。
僕はそれを匂いで感じていたのだ。魂の気配、というものは、普通の匂いと全く違い、風向きや距離に左右されない。特別なものなのだ。その感覚が、昔の僕とともに、今の僕の中に戻ってきた。
考える。
今なら分かる。これは間違いなく、僕の小さい頃の命綱だった。
年端もない子供が、何の装備もなく森の中でひとり迷子になって、何日も生きていけるほどこの世界は甘くない。僕はもう、それを知っている。ずっと先生と旅をしてきたんだ。野宿を繰り返し、歩いて歩いて…、色んなところを周った。
雨の日もあった。風の日もあった。雪の日も。
飲み水の確保、食べるものの獲得、ねぐらの用意…。先生が一人で旅をしていた時期がある、と言うのが信じられないくらいだ。これはとても大変なことで。あれを一人でこなし、あの中に一人なんて…。
…僕はむかし、毛皮を突き抜けて空気がひりついてくるような寒い日に、薄暗いテントの中で、一人ぼっちでうずくまっていた時のことを思い出す。
雹が、降っていた。
天幕を叩く乾いた断続音が耳の中にこだましている。白い息。凍てつく空気。テントから見上げた薄暗い空。世界にたった一人取り残されてしまったような、そんな心細さ。
粗朶を集めに行った先生が、すぐに帰って来てくれなければ、僕は耐え切れず、たとえ迷うかもしれないと分かっていても、追いかけてしまっていただろう。
僕たちには、お互いがお互いを大切にするしか、道がないんだ。そう教えられ、納得し、旅を重ねることで、僕たちはそれを身に刻まれるように理解していく。
…それなのに先生は、一人でも大丈夫だと口にする。一時期でも、僕に町で暮らせ、だなんて。
…先生は、よくそんな無理をする。
戻ってきたこの感覚を、僕は心の中でとても頼もしく感じている。この感覚はたぶん、僕にとって…、…おそらく先生にとっても、この先とても、大切なものとなる。
ほとほとと夜道を歩く。行く先に迷いはない。
今晩は満月で、遠く高く、夜空の真ん中にぽっかりと穴を空けたようなお月様が顔を出している。日の光とは違う柔らかい光だ。青白いようにも見えている。足元を見れば、くっきりと石畳に自分の影が見えていた。
町の方を見やれば、中心部からまだ酒場の活気ある声が聞こえてくる。僕はそれに耳をそばだてる。
“…もう少し、飲んでくらぁ。”
そう言って、夜の町に消えたクィードさんを思い出す。その声も聞こえないかな、と思ったけれど…。この距離では届くわけがなかった。代わりに虫の鳴き声と、夜になって動き始めた獣たちのざわめきが耳に飛び込んでくる。がさがさと叢を騒がせる音。呼び交わされるふくろうの鳴き声。獣の動きとともにしなる木々が、夜の静寂に文句を言っている…。僕にとっては聴きなれた、夜の闇の音だ。
もう石畳が柔らかい土の感触に変わっている。僕は急き立てられるように、足早になっていた。
林に入る。ずっと世界が暗くなる。代わりにむっ、…と世界の匂いが強くなる。木の…、樹皮の匂い、苔の匂い、枯草の匂い、緑の匂い…、たくさんの匂いに僕は包まれる。柔らかい腐葉土の感触がする。不確かな足場なので注意する。首を振り、耳をふって、寄ってきた羽虫を追い払う。羽音がなかなか消えない。面倒だ。頼りない視界に手を伸ばして、僕は距離を測りながら木立を抜ける。…うぇっ!うっかり蜘蛛の巣に引っかかってしまった。それを払いのけながらさらに先に進む。木々の間を抜け、もっと深みへ…。…先生の匂いが強まる。もうすぐだ…。
やがて、木々が開け、そこだけぽっかりと月の光が落ちている場所にでた。
どうも、大きな木があったのを切り倒した場所らしい。天井の無い踊り場のようになっている。ちょうど真ん中に大きな切り株があって、そこに僕の先生…、兄弟子・師匠となった人が、腰を落ち着けて待っていた。
「よ。リョータ、きたな。」




