~夢の終わりに~⑩
っ痛……。
己の鼻先に鈍い衝撃と痛みが走った。ぐらぐらと世界の何もかもが揺らされたが、俺の怒りはそのすべてを上回っている。動じることなく、思考を続ける。
ちっ…。一瞬で焦っていたから、まともに鼻先から拳に当たってしまった。
だが師の体は己の腕の中に引きずり込み、完全に守っている。自分が殴られるより痛いと感じたものを、守れたのなら上出来だ。文句などない。
「……え?」
男が混乱した声を上げている。その隙に俺は師の体機能を奪い、己の首からお守りを外し、それを封印として師の首にかけた。師も、一瞬で何事が起ったのか理解していない。その数瞬だけ、されるがままになっていた。
脱力した師の体をそこにうずくまらせ、俺はその前に立つ。父親との間に割って入った。俺の方が背が高い。どうしても彼を見下ろす格好になる。威圧されたのだろうか?男が数歩後ずさった。そこで、しばらくの沈黙が訪れる。
その男と間が空いたのを認めて、さて、この場をどうしたものか、と考える…。
…考えて…、俺は、唐突に、何も考えていなかったことに気が付いた。
しかし、そのことに気が付いたとて、とにかく、何かに対する怒りだけはあった。
何に対して怒っているのかも分からなかった。とにかく、俺は怒っていた。むかっぱらが立っていた。師の先ほどの姿が脳裏に浮かぶ。師に対して怒っている?…そういう訳でもない気もする。師はこういったあてどない思いの、引き受け先になろうとしたのだろうか…。そんなこと分からないし、分かりたくもない。分かるつもりもなかった。分からない分からないで、分からなかったから、ついに俺は、こう言った。
「殴るのなら、俺をどうぞ。」
「……は?」
「もうこれ以上は見てられません。なので師に手はあげさせません。…ですがあなたの憤りは分かります。…なら…、殴るのなら、俺をどうぞ。」
再び、しばらくの沈黙があたりを支配した。
思ったままを、口にしただけだったが、それだけに、俺はどこかすっきりとしていた。
ああなんだ、そういうことか。
胸がすいて、本当に殴ってもらっていい気分だった。
なるほど。それで何も問題はない。そういうことね。
…なぁに、うまく立ち回れば、俺は師よりもうまく殴られることができるだろ。たいした問題じゃないな。危険な打撲にならないように、打撃をいなせばいいんだろ?バカな俺ではほかにどうしていいか分からないし、それで十分な回答だろう。
「…リゲル、お前、何を言って…。」
その言葉に振り返り、師を一瞥して見おろし、すぐに向き直る。
「どうぞ。」
男がひるんだ。またしばらくの沈黙が降り立った。
先ほど殴られたせいだろう、血臭がする。とうとう俺の鼻面から鼻血があふれて、ぽたぽたと地面に垂れてきた。
「…お前…、怪我して…!」
師の戦慄した声が聞こえる。すぐにそれは、焦りを伴ったものに変わった。
「…!?…体が動かん!リゲルお前、わしの運動機能を奪い…封印までしたのかっ?!」
あなどらないでほしい。俺は知っている。俺の手による呪縛だけでは、師は簡単に振り切ってしまうだろう。だが、己の最高傑作に封じられては、いくら師と言えど、おいそれとそれを破れない。己の力が、そのまま己を縛るようなものだ。
「…!…!リゲル!これを外せ!今すぐだ!」
俺はその言葉を黙殺する。
「外せと言うとる!聞こえんのか!」
さらに無視。鼻血が止まらない。さらに血の滴が地面へと落ちた。
「…!!?…リゲル!お前が傷つくことは許さん!!」
完全無視。その瞬間、背後で爆発するように、尋常ならざる気配が膨れ上がった。
『…このっ、馬鹿者が!親より先に子が傷ついていい道理があるかぁっ!!』
その怒りの気配はあたかも熱風のように周囲を席巻する。物理的に大気までが影響を受け、風を吹き荒らし、木々を震えさせた。鳥たちが一斉にけたたましく、おびえながら飛び立つ。狂ったように逃げ出した獣たちの鳴き声がここまで聞こえた。穏やかだった森の日常が、一息で恐怖のどん底へ叩き落とされた。
すさまじい怒りがその声に乗り、いまだ残響となってあたりをうねっている。灼熱の意思だ。
周囲にいる人は皆、焼きごてで胸を貫かれたような衝撃を受けただろう。かくいう俺も、そうだった。だが俺の内からの怒りが、それを負けることなく跳ね除けている。そして俺は魔法使い、魂まで届く、意気を乗せた言葉に抗する術も知っている。知識と怒りが、今や俺の盾となっている!
俺はゆっくりと向き直った。驚くべきことに、完全に運動機能を奪ったはずなのに、わずかでも体を動かしたのだろう。師の体はバランスを崩し、前に突っ伏すように倒れこんでいた。横向きになった顔から、怒りに燃えあがる目だけがこちらを見上げている。
『今すぐこれを外せ!』
「いやです。」
『外せと言っている!』
「お断りです。」
『 『は・ず・せ!』 』
すさまじい怒り、意志、想念、師の力そのものが、そのたった一言に凝縮されたかのようだった。
脳髄の奥に刻み込まれるようにその命令が響き渡る。だが、俺はそれに抗しきった。
俺の中の怒りが、静かに言い返している。
だったらなんだ、あんた、あの光景をただ黙って見てろってのか?そっちこそ願い下げだ、ふざけるな!
だがそうは思っても、口にしたのは別の言葉だった。
『皆さん、止まって。』
師のすさまじい命令のため、ほとんど体が勝手に動いていただろう周りの人たちへと、声をかける。
言葉に意気を乗せた同様の手法。すなわち命令文の上書き。あれだけの力では、もはや常人では支配されるに等しい。つまりは同様の手法で制止しないと、みな止まれない。果たして、全員がぴたりとその動きを止めた。
「今、師に触れてはなりません。怒りに我を忘れている。触れたらおそらく、ただではすみませんよ?」
それはこの俺ですらも。
そう心の中で言葉を付け足す。火傷くらいで済めばいい方だ。心が痛みを感じれば、肉までそう反応してしまう。文字通り、今、師に触れたら火傷くらいでは済まない。そんな状況だった。
人ではないものに変容しつつある、師に告げる。
「師匠、あなたは俺に教えましたね? 怒りは覚えてもいいと。大切な感情の発露だから、と。でも…」
さらに宣告。師の口調をそのまま真似た。
「でも、怒りは制御せねばならない。そうでないと悲しみを呼ぶ。」
師が、ぐっ、とのどを詰まらせた。
「……こ、のっ…!!」
そんな言葉が、かろうじて漏れてきた。
俺は黙して待った。師が眉間にしわを寄せ、目を固く閉じる。
しばらく、その場の時が止まったかのような、そんな沈黙が訪れた。
「…………ったく、誰のせいだと思っとる…!」
そんな毒づきが漏れてきた。だが、その口調は先ほどよりもずいぶんと柔らかい。
「……あ――、わかったわかった。わしの負けだ。わしの負け負け!お前の言うとおりだ。だからもういい、これを外して、わしを元にもどせ。」
俺はだまって、じっとしていた。
「あのな…、もう大丈夫だって。とりあえずわしを元に戻せって。」
俺は動かない。
「…お前な…。まわりを見てみろ。もうここにいる全員がそれどころじゃなくなっとる。逆に彼らを世話してやらねばならんほどだ。だからもう何も起こらん。殴られるのもナシだ。大丈夫だから、これを外せ。」
俺は周りを見渡す。…顔をしかめた。確かに失敗だった。魔法使いの本気の言葉を連続で浴び続け、俺たち二人以外、全員が呆けてしまっている。
「おい、これ以上内輪の恥を晒すなよ。大体なんだ?師と仰ぐ人物をこんな情けない格好で放っておいていいのか。みんな見とるし、不敬の極みだろこれ。わし、はずかしいんだけど。」
…確かに。その主張に反論の余地はなかった。
師は自由の利かない状態で無理に体を動かしたため…、そのまま前に倒れこみ…、尻を天に突き上げて顔面から地面に突っ込んだような状態になっている。冷静に見れば、弁解するのも難しいほど、とても情けない姿だ。
「あ…、はい。今すぐ。」
俺も我に返った。あわてて師の束縛を外す。とたんに師の手が持ち上がり、ぽかりと小気味よく、げんこつで頭をはたかれた。
「あた。」
「『あた』じゃないわ、この馬鹿者!」
体の動きを確認しながら、師が告げる。
「二度とこんなことするなよ?」
「…………承服、しかねます…」
俺は口の中でもごもごと、ほとんど消え入りそうな声で答えた。目も合わせられなかった。
「ああ?!何か言ったか?!」
「いえ、特に何も。」すました顔で嘘をつく。どうせばれているだろうけど。
「まったく…、どら、見せてみろ。」
ぐい、と鼻先をつかまれた。師の手が俺の顔を引っ張り込む。すぐにその手から伝わってくる意気、覚えのある感覚に…、俺はあわてて声を上げた。
「師匠、いけません!修復するような傷では…!」
言っているそばから、鼻先と顔面にむず痒いような、暖かいような、そんな感覚が走った。…それで俺の傷は消えてしまった。生体構成分子の修復法。体のそれぞれの構成分子に、もといた場所に戻ってもらうという技術だ。欠損がなければ大方の傷はこれで消してしまえる。だが患者の自己治癒能力・生きる力は完全無視、というある意味邪法なので、我々の理念からすれば使いどころが難しく、少なくとも今のような軽い傷に使う技術ではなかった。
「これでよし、と。」
俺は呆然と師を眺めた。その顔はしたたかに殴られて腫れ上がってきている。そこで気付いた。師の方がひどいじゃないか。治療しなければ。慌てて手を伸ばした。
「俺も治療します。」
「いい。」
俺の手を振り払い、師が立ち上がった。
「しかし」
「いいから!!」
俺はその言葉にぐっと歯を食いしばる。
衝撃と、一瞬の痙攣。…軽くだが、刺された。今、己の中に怒りはない。お守りも外していた。何の楯もない。もろに響いた。
ふと、肩口に師の手が触れる。衝撃は耐える前に霧散した。
「すまん。」
師が助けてくれた。一言、謝りの言葉が降りてきた。その後、ややためらいがちに言葉が付け足された。
「…あ~、いや、いいんだ。違うんだ。…ここにいる人たちの対処が先だ。お前の治療は、その後で頼む。」
確かにそうだった。それが優先だ。
「…あ、はい。」俺は短く答え、手の中のお守りを自らの首に戻した。師の対処を見守る。
師は意気を乗せた言葉の誘いで、それぞれの人に、それぞれの家へ帰り、しばらく眠るように薦めていた。…確かに、それで元に戻るだろう。下手にこちらが弄る必要もない。本人たちの回復力に任せた方が最善だ。…子を失い、泣き叫んでいた夫婦すら自失し、呆然とその勧めに従っていた。…その様子に、どう思っていいかも分からなかった。
「さて、こんなものだろ。後は各々の夢と、彼らの眠りが覚めた後じゃな。」
そういって、師が俺の前にどっかりと座り込んだ。
「では、治療を頼もうか。」
「あ、はい。」
師の対処・言葉の意味を考えていた俺は、あわてて我に返り、手を伸ばした。患部に触れる。己の呼吸を整え、目を閉じた。己の杖に干渉、歯車を調律…、最大限の力を引き出して、キズの修復を試みる…。
師には片手間に出来る傷の修復でも、俺では全力で飛翔しないとかなわない。技量の差である。
「あーいやいや、飛翔まではせんでいい。お前のいつものやり方で、治療を頼む。」
「…え?しかし、俺は修復で傷を消したのに…。」
「いいんだ。お前の治療は心地いいし。そっちを希望する。」
そう言われると、俺もそれに従うしかなかった。
少し釈然としないものを覚えながら、粒子運動制御を応用した打撲傷の治療を開始する。
「時間がかかりますよ?」「かまわんさ。」短いやり取りがあった。




