~夢の終わりに~⑧
師のそばにたどり着くと、その女児はすでに蘇生しているようだった。
横たわった女の子のそばに師がしゃがみ込んでいる。その横には丸まった俺の外套が置いてあった。取っておいてくれたらしい。何から何まで気がきいている。
彼女の肺から取り出したのだろう、師の手の平の上には、大きな水塊がふわふわと浮いて丸くなっている。患者の口元から最後の一滴がその水塊に合流すると、師はそれを無造作に後ろへと放り投げた。
ぱしゃん、と、物理法則に従った音がした。
患者がせき込むことすらしていない。だが呼吸が正常化しているのは見て取れる。さすがの技術だった。
「どうですか?」
「うん。骨折もしていたから、修復しておいた…。随分と怖い思いをしたようだから、この上、骨の痛みは辛かろう。直に気が付く。早く親元に帰してやろう。だが…」
師が顔を上げる。
「お前さんはどうして、ここにいるのかね?」
俺には何も見えない中空に、いきなり語りかけた。ちょうど俺の外套が置いてあるあたりだ。肝が冷える。何か、いるのか?
「……、そうか、一緒に迷った友達を守ろうとしていたのか……。えらい子だ。でも、もうこの子は大丈夫だよ、お前さんは戻り…」
そこで師の表情が凍りついた。一瞬で厳しいものへと変化する。
「いかん、緒が切れている…!もう仮死の領域を超えたのかっ!!」
その声は、師に慣れたものしか分からない、大きな焦りに満ちていた。
その言葉の意味に、俺の背筋も冷たくなる。「緒」とはおそらく魂と肉体をつなぐ紐…、つまり、もう一人の子供は、どこかでもう死んでいる、ということか…?!
「わしが行く。リゲルはこの子を…」
師が振り返り、俺の姿を見るなり…、顔をしかめた。
「何をやっとる…!!」
滴り落ちる水滴から、俺が全身濡れそぼっているのを見咎めているらしい。俺は別に、気にしていなかったのだが。
師は足早に歩み寄ると、その指先を一瞬だけ俺の体躯に触れた。途端。
ボッ!!
全身から爆散するように、俺の体から水が霧散した。それは細かい粒子となって、森の腐葉土の上へと、さらさらと落ちていく。俺の毛並みは一瞬で乾いてしまった。
驚きで目をしばたたかせる。
…いや、驚いたのは魔法にだけではない。このくらいのことは俺にもできる。だが、師がやった、と言うことに問題がある。
師がここまでためらいなく、続けざまに魔法を使うのは珍しい。――完全に、飛び始めている。おそらくもうすぐ“飛翔”する。それだけの危急だということだ。俺は一瞬で思考を回転させ、師の口を封じるように言葉を告いだ。
「では俺がこの子を親元に。師はもう一人を探しに?」
「うん。」
手の中の子供を受け取る。その時にはもう、師の体はうすく緑色に変わり始めている…!
「頼んだ。」
短く言ったきり、師の姿は消えてしまった。
――空間を跳んだか。いつもながら見事。何の反動も余剰現象も生じない。もとからそこにいなかったようだ。だが、足元の柔らかい土がへこんでいて、そこに師がいた、という痕跡が残っている。
…今度は遊離した魂がしるべとなるから、体はすぐに見つかるだろうが…、師が蘇生できなければ、おそらく誰にもできまい。俺は、俺のすべきことをやらなければ。
手の中の子供は、溺れていたのが嘘のように服も体も乾いている。先ほどの俺と同じことをやったのだろう。彼女の緩やかな眠りを確認すると、俺は外套を手に取った。そしてこの子を連れ帰るべく、風を集め始めた…。
山探しをしていた集団を見つけ、中空からそこへと降り立つ。腕の中の子供を見つけたことを報告した。親元への案内を頼み込む。
何人かが先駆けし、しばらく案内の大人たちと連れ立って歩いていく。しばらくすると、血相を変えて駆け寄ってきた三人の大人がいた。うち二人が、感極まったように大声で名前を呼んで近づいてくる。俺はあわててそれを押しとどめた。
「大丈夫です、いのちに別状はありませんから!元気ですから!今は寝かせておいてあげてください…」
溺れていたことなどを説明する。両親二人は、鳴き声混じりの感謝とともに、己の子供を受け取った。
とたんに、駆け寄ってきたもう一人の男に胸ぐらをつかまれた。
「エリーは?!一緒にいたんじゃないのか?!もう一人の子供は?!」
その剣幕に少し気圧される。戸惑いを覚えた。
俺はあわてて今、師が探していること、先に見つかったこの子を俺が連れ帰ってきたこと、師ならば、ほどなく見つけるだろう、と言うことを伝える。
そう伝えると、なんとか解放してくれた。
つかまれていた胸元を押さえて息をつく。びっくりした。つかみかかってくるなんて…、だいぶ常軌を逸してるんじゃないのか?完全に予想外だった。事情を考えれば、ムリもないのかもしれないが…。
そんなことを考えながら、俺はつと、何もない後ろの虚空を振り返った。
――匂いが、変わった??
そんな気がする。
師が来るかもしれない。
そう思った矢先、鮮やかな緑色に染まった師の姿がその場所へと現れていた。――やはりな。何年も一緒にいるから、俺も師に関してだけは、鼻が利く――。
師の腕には小さな女の子の体が抱えられている。俺だけが二人に駆け寄った。あたりの集団は何が起こったか、認識が追い付いていない。
「師匠!どうでした?!」
俺がそこに駆け寄る時には、師の体色はもう元に戻っている。師においては、飛翔も降り立つも自由自在。だがそんな師にすら、思うままに出来ないことがある。その顔色を覗き込むなり、俺は悟った。
……。
…間に合わなかった、か…。
苦渋に歯を食いしばる。その子の体に触れた。…もう、冷たいむくろと化していた。
「エリー…?エリーか?!無事なのか?!」
気づいた父親が駆け寄ってくる。俺は場所を譲って…、師が黙って小さなむくろを親元に渡し、首を横に振るのを、かろうじて見届けた。
「え……?」
彼が手にしたもの、重さと冷たさ。そして、うつむいた俺たちの所作に…。父親が途惑った声を上げる。
しばらく呆然とした後、彼が腕の中の宝物へと語りかけた。
「エリー…?」
そして、その声で何度呼びかけても、何度その腕でゆすっても、むくろはもう、何の応えも示さなかった。
「…エリー、エリー?目を覚ませって。眠ってるだけなんだろ、おい。何だよ、エリー…。…エリー…?」
…まともに見れない。次に来ることが予想できる。
心がひりつく様な数瞬の沈黙の後、この世で最も悲しい、絶望の叫びが響き渡った。
「………………~~~?!!!」
悲痛な叫びが耳に痛い。
心も痛い。胸に鉄串が打ち込まれて、掻き回されているような気分だ。
嗚咽と、どうか目をあけてくれと懇願する叫びが聞こえてくる。どうしようもできなくて、片手でそちらの耳をふさいだ。俺まで悲しみに引きずられる。歯を食いしばる。
いけない。ここでかろうじて思考が回る。俺にはすることがある。師を守らなければ。たぶん、俺よりももっとひどいことになっている。
果たしてやはりそうだった。師は完全に全身を硬直させ、顔はこわばり、血の気を失っている。
俺は狂ったように泣き叫ぶ父親との間に無理に割り込み、腕を回して、師を下がらせる。
触れた手から体機能に干渉…操作…安定させた。これができるようになっていてよかった。いま、心からそう思った。
「……あ…。」
師が我に返った。俺と目の前の状況を見比べる。
師の内部で何が起こっていたか、今の俺にはもう分かっている。心を刺されると体機能が狂うのだ。昔は分からなかった。師はたった一人でこれに耐えねばならなかった。だが今は違う。今は俺がいる。俺には師がいてくれている。師はこれで素晴らしく自制し、きちんと身を守っている方なのだ。俺とはまるで違う。
その師が頭を垂れ、殊勝に言った
「すまん、助かる。」
「いえ。」
短くやり取りする。お互い分かっている。これは心を刺されたことのあるものにしか分からない経験だった。




