~夢の終わりに~④
ふと、急に場面が変わった。別の村だった
同じように診察が進む中、師が急に虚空を見上げた。
「…ふむ?」
…なんだろう?俺は首をかしげる。師にはよくあることだが、感覚の鈍い俺には、いつも全く分からない。
こういう時、師はよく人でないものと話したり、声ならぬ声を聴いていたりする。果たして、今回は何か…。
「急患か。」
ぽそりと言ったその一言で、水を浴びせられたように心が冷えた。
俺はすぐに事態を理解する。すみやかにとるべき行動をとった。
身をひるがえすと、荷物の中から救急器具・薬の入ったバックを引っ張り出す。自分の外套を手早く羽織り、師の外套を手に取った。
「いつでもいけます。」
振り返ると師は患者に断りを入れていた。
診察中だが、救急で処置をしなければならない怪我人が現れたようだ。しばらく留守にする。いずれ戻るから、すまないが、診察の続きはその後に。
その言葉で俺も情報をひろう。…今回は怪我人か。失血はあるのだろうか?
「どうします?近くですか?跳びますか?」
歩み寄ってきた師に俺は声をかける。師は物も言わず、すっと、俺が構えていた外套に腕を通した。間髪入れずに告げる。
「跳ぶ。つかまれ。」
返事が短い。師の体色が急速に紫色へと変わり始めている。師が本気で魔法を使う兆し……早い、猶予がないということか。
俺はあわてて救急バックを肩からたすきにかけなおし、重さを確認する。すぐに師の腕をつかんだ。
空間跳躍――、俺たちは一呼吸の間もなく、別の空間へと跳んでいた。
瞬きする間に目の前の情景が変わった。
匂い、温度、湿度、あらゆる情報が一息で違うものへと変わり、感覚器官が混乱する。
湿った土と緑の匂いが鼻につく。…腐っていく枯葉の匂いがする…。周りにたくさんの木々。頭上の暗く濃い緑。足元の柔らかい感触。この薄暗さ……ここは森の中か。樹冠から零れ落ちてくる淡い光の筋に、柔らかい薄もやがかかっている。
もう一度見上げると葉の緑は暗く、濃く、深い…。…豊かな森だ。
耳が泣き声を拾い上げる。胸から絞り出すような、けたたましい泣き声。それに驚愕の声が重なった。数歩前にいる男たちが息を呑んでいる。俺たちが急に姿を現したので、驚いたのだろう。一様にみな目を見開いていた。
その人だかりの中心に、赤黒い二本の細長いものが投げ出されている…。
…肝が冷えた。…人の足…?しかも血まみれ…、細く、小さい。…子供なのか?!
大人たちが邪魔で上半身がよく見えない。
細い脛にべっとりとこべりついた血と泥がいやに目に付く。不吉だ。
ざわざわと胸の内に恐怖と不安が掻き立てられる。赤黒く大きな血塊が事態の緊迫さを物語る。傷が見えない、全容は?!
「ああ、ぎでぐれだ!!」
中心で泣き叫んでいた女性が、ひときわ高い声を上げた。
「お願い!!息子を助げて!!」
涙と鼻水をぬぐいもせず、彼女が心の底からの願いを絶叫した。腕の中には大切なものを、ひっしと抱きかかえたままだった。
俺はするりと体を動かし、師とその間に割って入っている。女性が叫ぶ前に、自然と体が動いていた。違和感などなかったと思う。――だが効果のほどはいかほどだろうか。少しは師の守りになっているといいが…。
頭のどこかでそんなことを考えつつ、師よりも先にその集団へと駆け寄る。師は後でいい。それで十分間に合う。
駆け寄って状況を把握せんとする。我々を呼んだのは確実にこの女性…、その手の中に、麻ひもを通しただけの水晶球が握られている。我々のお守りだ。巡回する村々に置いて回っているこれは、持ったものの切羽詰まった情念に弾かれて作動するようになっている。…もっとも、俺の感覚水準では知覚できない作動なのだが。
「すいません、通して…、これから処置するから、みなさん少し離れてくれませんか!?」
人込みを切り開く。関係のない人は少し離れていてもらいたい!患者の全貌も見えないじゃないか!
現れた少年の全貌を見て、俺は息を呑む。
…いったいどうして、こんなことに……。
そこに力なく横たわっているのは、俺の腰くらいまでの背丈の、やや年長といった少年だった。快活そうな顔立ちがいやに青白い。風貌から完全に血の気が失われている。原因はすぐに見て取れた。その手足、四肢が…、血と泥のまじりあった不潔な赤黒さで、ほとんどすべておおわれている。服がずたずたに引き裂かれ、破られ…、素肌のところどころに咬傷とひっかき傷がある。…この数…!獣の群れに襲われたのか?!
すぐに触診しようとして、聞き慣れた足音が耳に届いた。
俺は歯を食いしばって、踏みとどまる。しまった!俺にはまだすることがあったのに!!
「みなさん!離れて!師を通してください!必要なことがあれば、すぐに呼びますから!」
さらに、そこの母親に声をかける。彼女はしがみつくように息子の首筋を抱きかかえていた。
「すみません、少し離れて――、お気持ちはお察ししますが、今は処置の邪魔です…!そこで見ていて構いませんから、今は離れてください…!」
あえて“邪魔”という言葉を使ってしまった。
気持ちは本当によく分かるのだが、そんな風に抱きかかえられていては首の様子が見えない。すでに本当に障害となってしまっている。そして、強い情念を発する人に近づくのは、師にとって苦痛となってしまうのだ。この時俺は、かなり焦っていた。
「リゲル、そこまでわしに気を使わんでいい。」
果たして師の言葉は、完全に感情が押し殺されたものだった。俺は振り返ることができず、ぐっと歯を食いしばる。
『お母さん、息子さんを預かろう。――大丈夫だよ。息子さんはまだ生きてるし、その生命の光輝は十分に強いから、死ぬことはないだろう』
全て、心の奥底まで響かせるほど強い、魔法使いの言葉だった。
心を凍らせているのに、心を込めるとは…、演技力なのか、図抜けた魔法の技術なのか、俺には分からなかった。
『場所を譲ってくださらんか?息子さんを預かろう』
はたして処置が始まった。
師とともに触れて、俺独自にも、患者の体を走査する。
最初に見るのは手で触れてわかる脈、――脈はある、だが血圧が低い。しかしこの程度ならまだ大丈夫。失血も危険域でないと判断する。続けて呼吸循環。意識の手が深部へ潜る。息は浅いが循環系はしっかり機能している。……???…なんだこれ、血中成分が…筋肉が…全身の疲労が極度に大きい??……疑問に思いつつ内臓全般に目を向ける……臓器全般に傷はない。これは幸い。…胃の中に何もない…消化器の具合から見て、丸一日くらいものを食べていない??…体中に大小さまざまな裂傷、擦過傷、獣の爪によるひっかき傷、咬傷がある…。ああ、首筋にずっと手ぬぐいを巻いていたんだな。頼りないその布が、頚部動脈への咬傷をかろうじて防いだらしい。小さな傷はあるが大きく広がっていない。幸運だった。頚部動脈を破られていたら、おそらく助からなかった。
両手両足の傷が大きくすさまじく、必死に獣たちと格闘した跡が見てとれる。
片方の前腕の肉が食いちぎられ、そちらは動脈が傷ついている。もう片方の手も似たり寄ったりだ。喰らいついてくる獣たちにとにかく必死で抗ったに違いない。止血なんてことも考え付かなかったか、気付いてもそんな余裕は無かったのか。
…ならば、止まらない血、枯草、泥、血の塊、べっとりとこべりついてくるそれらが、四肢にまとわりついて、重しの様に感じただろう…。喰らいつかれても、払い落とすか、自分の体重で踏みつぶしたんだろうか…?とにかく四肢から振り落とそうとして広がったキズが大きい。多数。それに枯葉や土、獣の体毛が混じって不潔な状態になっている。
たくさんの打撲傷。擦過傷もある。森の中を転げまわった痕跡?服を着ていた体幹部に深い傷がない。服が多少破られただけで、そこから見えるのは多数の細かい傷だけ。こういう時、布といえども侮れない守りとなる…。体幹部の厚着が守りとなった。
総括する。見た目だけで、失血はそこまで多くない。疲労の方が大きい。俺たちが来た以上、危急で生命の危ぶまれる状態ではないが、後の感染症の方が心配だ。
師を見やる。診断はいつも俺より数段早いから、おそらくもう、とるべき処置・手順まで決めているはず。
果たして師が行動を開始した。師はいま、母親のいた位置と変わり、その手で患者を支えている。空いた手がゆっくりと差し出され、患者の上で止まり、手のひらを天に向けてかざされた。
…その緩やかな動きが、なんとなく、俺の目に焼き付いた。
それも一瞬。すぐに何もない虚空をつかみ取るように白い手が握られる。目は閉じていた。やがて待つこと数瞬、その手の坩堝から、静かに、こんこんと、透き通った水が泉のように大量に溢れ出し始めた…!
……薬師の極法……、薬師の水!




