第三章 隠者の追憶 ~夢の終わりに~①
師に呼びかけながら、追憶の果てに、夢を見た。
――かつて、師と過ごしたころの夢だった。
――師の体色は、残雪が木陰で憩うような色だった。
日があたれば、雪はまばゆく輝くが、師の毛色はそんなに輝くような白ではない。
ちょうど木陰で溶け残った雪に、淡く影が落ちるような…、そんな暗い白なのである。
それをうす汚れているように見えると言うと、あまりに語弊がありすぎる。俺は残雪のような色、と言うのが気に入っていた。
…師が木陰で丸まって休んでいると、お、夏でも雪が残っているなと、俺は一人笑ったものだった。
そんな色を示す、柔らかい毛並みを前に、俺は師の調子を読んでいる。
触れてはいない。声の調子、漂う匂い・空気、気配のみで判断する。今も診察を続けている師の調子は、今日も良好。問題はなさそうだ。うまく医師の仮面も被れている。
背後にひかえる俺からは背中しか見えないが、今も患者となごやかに会話を交わしている。触れて診察する前の段階――、本来、こういう会話も必要なこと――、師はそう考えている。会話そのものを求めている患者もいる。こちらとて、会話の中からでも情報は拾える。仮面では笑いながらも、師の頭の中ではもう正確な分析が始まっている。逆に、そんな静かで精密な分析が始まらなければ、こんな流暢には話せない人物だ。ただ今たくわえられている情報が統合されるのは、全ての情報が出そろった後だろう。
師の調子はよさそうだ。
もう一度そう確認し、俺は先ほどの患者の治療に使った軟膏などを片付けた。この患者には使いそうにない。また必要であればすぐ取り出せるよう、カバンのいつもの所定位置に納めていく。その作業は、すぐに終わった。
……とある村での診察中、いつもの俺たちの光景だった。
二人とも、簡素だが清潔な麻の上下の服に、胸元にお守り一つという格好だ。これもまた、いつもと変わらない出で立ちだ。
巡回医師としての我々のやり方は、一人が診察を担当し、もう一人がその補佐へと回ることが多い。
もちろんそれは現場に応じて臨機応変に対応するが。今日この時は、師が診察を担当していた。俺はその補佐である。
俺が補佐となる場合は、整骨・整体療法…そのほかの手当など、人に長く触れる必要がある施術をまかされることも多い。だが余計な手出しをするわけではなく、その判断と指示はあくまで師が行う。俺も不必要な限りは、口出ししない。そもそも、正確な診断が第一となる医療に置いて、俺が先達へと意見できることはあまりに少ない。
だが、相棒となる師の状態に関しては話がまったく別である。その体調・精神状態の管理は、今、俺に任されている。俺が無理だと判断した場合は、役割をすぐに交代することになる。――ちなみに交代した場合は、師は診断の助言や、もしくはもっと別のことで補佐をすることが多い。特性・才能の違いである。師は長く人に触れられない。
そうこうするうちに、師の手が患者に伸び、触れる――。
――知られざる一瞬の緊張――。
俺たちの間の、見えざる空気がほんのかすかに張り詰める。毛がうっすらと逆立つようだ。だが、あくまで俺は何事も無いように平静を装っている。いつも通りだ。師の診察中、俺は一息で手が届く距離から離れたことがない。俺は指呼の距離にいる。大丈夫だ。万が一にでも、師にぶざまな姿を晒させるつもりはない…。
――だが、これまたいつものごとく、集中している師にこの手の心配はほとんどいらなかった。――俺と違って――。――何の動揺もみられない。それを認め、俺は一瞬だけ、目を細める。本当にいつも通りだ。何事もなく診察が進んでいく。
「おい、リゲル。」
と、そうでもなかった。いつも通りではない。いきなり俺に声がかけられる。
「は、はい?」
俺はあわてて意識を会話に向けた。
「ちょっとみてみろ。」
「…は?」
こういう時、師の思考についていくのは骨が折れる。
完全に俺を置き去りに、師がもう患者に断りを入れている。
「申し訳ないが、弟子の修行のため、お体をお貸し願えないでしょうか?診察をさせようと思います。なに、痛いことは何もありませんで…。」
俺もみてみろ、って…。診察してみろ、ということか?
…何だろう、めずらしい症例だろうか…。後ろで会話を聞いていた限りでは、診てみろ、と言われるほど気になることはなかったが…。
壮年の痩せ型の男性で、息子が結婚して、今度、孫が生まれるのだと話していた。単純な腰痛を訴えて、世話になりに来ていただけである。
何だろう?少し気構えて、なんとなしに己の肩を回す。そして心中で確認する。
簡単に触れて診察をするだけなら、清めなど、準備はすでにちゃんとしている。問題ない。よし。
患者に自分でも断りを入れて、触れてみた。途端に患者の肉体情報が伝わってくる。
この時はもう俺の手も、師ほどではないが、触れるだけで触れたものの情報を読み取れるようになっていた。
…まず筋骨格系をみる…先ほど言っていた腰部……。己の脳裏に鮮やかに、それらの構造が描写されていく…、意識の目を素早く走らせる。この程度の椎骨のズレなら、よく起こってしまうくらいのものだ。わざわざ見ろ、というほどのことでもない…。…では、一体なんだ?
続いて神経系、内臓――循環系、消化器、泌尿器系、――それぞれを走査していく。……はてな?なんだろう、どこにそんな大きな異常が……続いて血圧、体温、心拍数…、基本的なところから血液組成まで、ざっと見てみる。……??そう驚くことはなさそうだが…?
一体何が?
ちらりと片目をあけて、無言で師に問うてみた。
そしたら、師が笑いながら人差し指で、とんとん、と己のこめかみを叩いて見せた。
…頭部…?…脳?神経・内分泌系か…?そんなおかしな状態だったっけ…?、より詳しく精査しろ、ということか。
すぐにそうした。肉体の中のたくさんの構造物、情報を縫うように意識が走り抜ける。まず、頭蓋骨内部の立体的な構造を、こちらの心象内へと投影していく…。…一体何が…、って、あ。
……っあー…。
そう思考しながらも、同時に脳裏では流れるように患者の頭蓋内部が細部まで描写されていく。一点を認め、思わず唸り声をあげそうになりながら、その声を飲み込んだ。
…あーー、わかった。
構造…血管系か。脳底動脈瘤がある……。




