~始祖の天啓~③
ちなみにですが、この節の内容は参考文献からの引用みたいなもんです。
……信じられなかった。分かってしまった。すべては一つだった。
今までに得た知識の全てがそれを支えた。
一つの樹のすべての枝葉には、根から伸びた葉脈が走るように…、あらゆるものに、一つの法則が存在していた。
あらゆる事例、あらゆる法則、あらゆる論理が、一つの法則を、その裏に押し隠している。鍛えられた頭脳が、一息に思いつく限り全ての論理を検証した。裏に隠れたそれらをたどっていくと、それこそ、葉脈から一つの幹へとたどり着くように、すべからく一つの大きな法則へと戻ってしまった。
信じられなかった。分かってしまった…。…すべては…、一つだった。
…あまりの衝撃にしばらく呆けていた師は、その目に見える幾層もの世界の中に、はかなく舞い落ちる純白の雪を見た。それは師の肩にも落ちた。そのほほの涙の跡にも。人里から逃げ出した誰もいない荒涼とした白い世界で、師はただ一人へたり込んで自失していた。揺れ踊る雪にすら生命の光輝が見えた。目に見える全てが生命の賛歌を謳っていた。そんな中、師は一人だった。――それが師の、これから生きていく世界だった。
……絶対不変の法則とは、すなわち因と果の法則……。
ゆうるりと、思考が復帰し始める。
では、世界を始めた因とはなんだったのか?――そうだ、それを第一原因と言っていい。それが始めたからこそ、この世界の全てにそれが現れてしまっている。因であるからこそ、全てに隠れた法となった。
水のようなものだ。
この世界は一つの大きな力で成り立っている、その力を水の流れ、一つの海、全体を大きな水の球体だと抽象してみよう。その水は常に動いている。
我々がいる世界は、その一つの大きな大きな力の表面にある、無数のさざ波のようなものだ。
その表面の、千変万化に織りなされる無数のさざ波・しぶき、の小さなものが、我々だと思えばよい。その水滴の一つ一つ、折り重なる千々の白波にまで、さまざまな形…世界がある。
一つとして同じものはない。
一つとして失われることはない。
まさしく無限の形と色をもって、それらは現出している。
そしてまた、いずれ大元へと回帰する。
延々と深く、底に潜れば、全てに通じるものがある。真理がある。知恵も力も自由も喜びも。全てはその動きが体現している。
物質も力も魂も、全てが巻き込まれ流転する。人の目には海と雨の関係のようなものだ。形が変わったように見えるだけ。全ては流転し、動いている。同じもの。物質と波、同じものとして見れないだけだ。
常に、動いている。そう、動き。この動かす力、全てを巻き込んで動いているエネルギー、その力、そのものが…。
全てを始めた因なのだ。
整理してみよう。反例が有効だ。この動きが存在しない世界とはなんなのか?
…それは因と果の存在しない世界だ。
因だけの世界、果だけの世界。…すなわち、動きのない世界。種だけの世界ということだ。
そこから何か始まる可能性はあっても、そこから何も始まらない。芽が生じ、実が生じることは決してない。種だけ、実だけ、が眠るようにそこにあり続ける。何も起こらず、止まってしまった…そんな世界だ。思考も動きもない。ゆえに我々にはおそらく、そこでは認識も出来ないだろう。思考も存在しえないから。
では、因と果が生じたのは何故なのか?
そこに、動きがあったからだ。動かす力があったからだ。
逆に、動かす力が現れ、すべてを始めたからこそ、因と果の法則が出来たのだ。その力そのものが、全ての物事に法則となって現れた。因と果の法則そのものに、始まりの力が現れている。この法は、力そのもの。そしてその力そのものが、世界なのだ。
だから、世界はこうなった。
世界が動いている以上、この力はどこにでも、溢れんばかりに現出している…。人の心の中にも自然の中にも、どこにでも。
うつろい変わり、流れていくこの世界で、取りこぼされているものなどどこにもいない!そしてそれぞれ、何から始まったのか、たどればたどるほど、最初の一つに行きついてしまう…。宇宙の始まり…、全てはそこから始まったのだ…!
全ての因に、全ての果が生じ、返ってくる……!
最初の因から産まれたたくさんの果・それ自体がまた別の因となり、また果を産んで別の因となり、無限大に生まれた動かす力が、複雑にからみあって広大無辺・無窮の流れを作っている…!!!
………………………。
こののち、師の生み出していく魔法体系はすべて、ここを原点としている。
第一原則を起因とし――始原の力をはじまりとし、全てに応用するものだ。世界の始まりから再び世界の創造をたどり、万象に転じて一つに戻る、あらゆる応用を期した、とんでもない理論だ。これだけではとても語りつくせない。
第一の原因を、第一の原則と――法と呼ぶのは、師の好みだった。師は“知の探究者”、法の名称を好んだのである。そのため始祖にならい、我々はこれを原則と呼ぶ。
はからずしも、師の生み出した最初の魔法は、おのれの肉体に対してのものだった。
だが、それは知恵と理解が伴っていなかったため、もはや呪いとして結果した。
因と果が正しく起きても、人の身では悲劇が尽きない。
人が無知であれば、望んだ結果を正しく得ても、それで満足できるとは限らない。
それを避けるためには、どうしても知恵がいる。
どうしても、理解がいる。
おのれの身へと刻み付けるように…、それを思い知らされた師の過去だった。
参考文献:
まんま、「エドガーケイシー」さんのリーディングの内容を参考にしています。
これは文献多すぎてあげられない…。強いて上げるなら「エドガーケイシーの人生を変える健康法 福田 高規著」
さらに上げるとしたら、「シルバーバーチの霊訓」の内容。「古代霊は語る 近藤千雄 著」
「神の小屋」 ウィリアム・ポール・ヤング著 の「神は動詞だ」という内容から着想を得てます




