~始祖の天啓~②
もはや別の言語と化してしまった文字により、師はそう追憶を書いている。
この文章はやはり、己の血で書かれていた。涙でにじんだ後が、そこかしこにあった。…手の震えを抑えきれずに揺れる文面。それを持つ俺の手まで振るえていた。心の底まで冷え切った気分を、今でも覚えている…。
ここで、師の手記をぷっつりと途切れる。俺と出会うまで。
だがこの先は講義の時に聞いている。――実はこの講義の方が先で、俺はずいぶん経ってから師の手記に触れ、その真の闇を垣間見ることになった。師は己に深い闇を抱えていることは気づいていたが……、まさかこれほどのものとは……。想像もしていなかった。
師の冷徹な声が続ける。“わしは罪を犯したんだ。”と。
師は己の体の変化に気が付いた。老化がすでに止まっていた。
気がついたら、食べ物を食べた記憶すら、何週間もない。排泄をした記憶も。我に返れば百年以上を経ていた師の肉体は、全く別のものへと変わり果てていた。
やつれ、毛色も悪く、体中ひっかき傷だらけ。血やかさぶた、膿と垢にまみれていたが――、その実、己の肉体は驚くほど壮健だった。
――当然だった。生命の杖と、その神秘、――生命の泉――。師がたどり着いた最初の理論は、まさしくそれだったのだから。
すなわち『不老の法』――、生体の中心に位置する生命の杖が、若さを保つための生命の水、それのあふるる無限の源泉――“生命の泉”――へと道を創れるなら――、それは生命の書へとも道を創れるはずだ。全ては一つなのだから。そう考えたのがそもそも、師の卒業論文の骨子だ。
この“生命の泉”、という概念は――、実は目新しいものではない。
瞑想という概念がある場所なら、形は違っていても、似たようなことが広く知られているはずだ。
ただの脳からの分泌物だろうという人もいるが、本質はもっと深い。
生命の書を徐々に開いていった師は、その知識により、さらに“生命の泉”へとたどり着く法を研鑽した。
それはつまり、生命の書へとつながりを深めることと同義だった。
やはりそうだった。師はほくそ笑む。
もはやどちらから始めたかは分からないが、すべては一つという理論の中で、それは車の両輪…、いや、複数あるだろう柱のうち、二つに過ぎない。泉と書。一つを深めれば、おのずと他も見えてくる。…知恵、力、魂――――すなわち本質。ようは一つであるものとのつながりを、いかにして深めるかなのだ。それに尽きる。
そうして師にもたらされた知識の量は、あまりに莫大で、人ひとりの限られた時間の中では、現出させるに到底不可能なものだった。ならば時間は作ればよい。その必要性から、師は錬金術と同じように造作もなく、『不老』をものにした。ものにしてしまった。誰にも気づかれずにもう悲劇は始まっていたのだ。とうとう、己の罪深さを思い知るときが来た。どこが罪なのかすら、わからない俺を置き去りに、断罪の時が語られる。
師が異空間にある“書架”から、かなりの時を経て、元いた世界に出た時、入り口としていた山の洞穴が、熊の冬眠用に使われていたことを初めて知った。唐突な出現で熊を刺激することになったが、ただ一言口にするだけで、野生の熊がおとなしくなった。何事も無かったように、気にもせず、また冬の眠りへと落ちる。
…驚いたことに、師は誰にも教わらずにそういうことが出来ると知っていた。師は己が今までと全く違う存在になってしまったことを、ここで初めて知った。
外に出てみると、すさまじく騒がしく、活気に満ちた森の中だった。…これで冬の光景だというのか?今までと全く違った目で世界を見やる。目も、耳も、感覚器官の全てが尋常ではないものに変わっていた。
人里に降りてみた。
信じられなかった。
近づくだけで、光輝と、声と、思念…、すさまじいまでの情報が濁流となって己の目を焼き、耳を打った。肉声、心声、全てが聞こえる…。そこに住む人々の現在、過去、未来。重なる世界。響き合う星のような魂。すべてが見えた。初めは何が起こったのか分からなかった。気が付くと一目散に逃げていた。近づくだけでこれほどとは…、触れたらどうなってしまうのか、師は戦慄した。荒く息をつき、手を地面につけている。――それだけで触れた土壌の構成成分がすべて知れ、それぞれの分子構造、組成、生物量、生物種、さらには生物相の遺伝情報にいたるまですべてが見えた。――ずらずらと頭の中へ列挙されるそれらに、情報の整理が追い付かず、しばらくの間呆けていたほどだ。それに気づくと愕然とした。己の世界が全て変わってしまったことを理解した。
世界はさらに追い打ちをかけた。
師は疑問に思う。母は、父は、家族や友人、先生はどうなったのだ?
すぐに答えが返ってきた。その当然の答えに、師は驚愕し、どうしようもなく声を上げて泣いた。
この時、己が背を向けたもの、気付かずに捨ててしまったもの…犯してしまった罪に…、初めて気が付いた。恐れおののいた。嗚咽するしかなかった。師を知るものは、すでにこの世から全員が亡くなっていた。そんな当たり前のことにすら気が付いていなかった自分。ただただ、溢れる知識に独りぼっちで満たされていた。すべてを忘れていた。何もかも。どれほどの年月を?
…そして、師は誰も己のことを知らない、町や風景すら様変わりした見知らぬ世界に、ただ一人取り残された。…狂気と、得たものの代償がそれだった。
では、何故こんなことが起こった?
師は研鑽の末に知っていた。ここまで己の体が変質してしまっていたのなら、己はもはや、バケモノになっていてもおかしくない。ならばなぜ、己は人の原型をとどめている?人の精神を留めているように思われるのは、何故なのだ?
生命の書に答えられない疑問はない。たちどころに答えが返ってきた。すぐにそれは、師の鍛えられた頭脳で言葉を与えられる。
“世界の創造と同じことが起こった。”
“世界の始まりの法則が再現された。”
“無知であることの純粋さから生まれた愛の産物。無知であるがゆえに無垢。一点の汚れも恐れもなく、それらが忍び寄る隙間も影もなかった。何ものの妨害も無い空間だった。肉体に対する手順はすべて正しく、ふさわしい対処がなされた。…ゆえに、始まりの純粋さがそのままに、純粋な願いを顕現させた。“
最初、わけがわからなかった。
世界の創造と同じ…?
始まりの法則。
始まりの純粋さがそのままに、純粋な願いを顕現させた?
…始まりは…、確かに、すべては人のためになる、と、愚かにも一片の疑いなく、信じ切っていた。
そこにどれだけ滑稽さがひそもうとも、影は一つもなかった。恐れなど、どこにも無かった。
深く考えず疑いもせず、集中して引き延ばされた時間の中で、淡い希望だけをずっとほのかに感じていた。光の中にいた。どんな不安や恐れも猜疑も、それを汚すに及ばなかった。そんなもの忘れきっていたから。とにかく、書くのに必死で、知識を顕現させるのに必死で。それしか考えていなかったから。
そして、得た知識により、環境的、物質的な手順はすべて正しかった。それを邪魔するものはいなかった。正しい力と正しい道筋。純粋培養と同じ。それにより正しい結果が起こるのは自明のはず…。…疑問の余地は、どこにある…?
……?
…………。
……………………!!!!!!!
この瞬間、師は最初にして最後の法則にたどり着いた。世界のはじまり、第一原則に。
かつての天啓のよりもすさまじく、稲妻と見まがうような衝撃が師の中を駈け抜けた。
……信じられなかった。分かってしまった。すべては一つだった。




