第二章隠者の追憶 ~始祖の天啓~①
ここで出てくる「生命の書」は、こちらの世界で言う、「アカシック・レコード」です。
師は、病んでいた。
そうはいっても、体の病ではない、心の病だった。
心の病を定義するのは、我々の医学でも難しい。
ただの習慣、思考のくせと言ったものから、人格、心理外傷――さまざまな要素を鑑みても、それが病だと断じることができるのか、分明でない時がある。
だが、肉体は健全でも、現実の生活に支障が出る場合――それは一つの病と言っていいのかも知れなかった。
そういう結論を下した場合、師は間違いなく病んでいた。本当に重度すぎる、対人恐怖症だったから。
師のあの口調がよみがえる。心理学や精神医学といった、心の分野の学問を学んでいるときだった。
師は己のことを、あたかも他人のことを語るように説明してみせた。…それは死んだ動物を解体して、その解剖学を教えてくれた時の様子にひどく似ていた。冷酷なまでの静けさと、無慈悲さをもって、師は己自身を断じてみせた。血なまぐささも、指にぬめりも伴わないのに、手に触れる冷たい臓器の柔らかさが脳裏に浮かぶようだった。
師は、対人恐怖症だった。それは師の来歴を振り返れば、おのずと明らかになる無理のない帰結だった。
師は、小柄な白熊の獣人だった。
どうも、片親が体躯の小さな種族であったらしい。人並みにがっしりとはしていたが、白熊にしてはかなりの小兵だった。その気の小ささの、要因の一つとなったのかもしれない。
師はまだ若かりし頃、己の魔術の技量を高めるため、一つの学院に入学した。その頃はまだ、人の世に混じって、普通に一介の学生として暮らしていた。
そこで一定の学問を修め、いよいよ卒業という段になって、師の選んだ卒業論文の題目はこれだった。
「生命の杖を鍵として開く、生命の書とその可能性」
師はもともと、医学と薬学を修めた家系の血筋だから、すでにそれらの分野で独自の考え方を持っていた。
特に医学の見地に置いて、魔法と呼ばれる技術を見直していった、と言っていい。そして生命の書――知る人ぞ知る、伝説級のものを、師は題材にしたのである。
生命の書、とは何か?
いわく、生命の書は、
ある人には、全ての叡智であり魂の記録である。
ある人には、この世の始まりから終わりまで、全ての事柄が記された歴史書であり予言書である。
ある人には、失われた知識、この世の全ての真理に通暁する、悟りの書である。
つづめて言えば、師はそれを開いた。そんな数少ない人間の中の一人だった。
その卒業論文を仕上げた時、師はまだそれを開いてはいなかった。師は卒論の成果に、少なからず可能性を見ただけ。これは幸運、世にまれにみる僥倖だったと、師は当時の手記に書き残している。
師は卒業すると同時、定職に就かず、一人、己の見出した可能性を研鑽する道を選んだ。
その、見つけてしまったひそやかな可能性、世にまれにみる幸運に…。…師の性格上、無視して生きていくことが出来そうになかった。他の誰にも相談はしなかった。分かってもらえるとも思えなかった。己の卒論は、おそらく数多くの卒業生の論文の中に埋もれてしまうだろうと、もう分かっていた。
それはあまりにも個人的なものだったから。その学院にある知識体系には、あまりにもそぐわなかったし、師もあえて、卒論を「ある一考察」として簡単に帰結させた。評価は低かった。それで良かった。
天啓に近い個人的なものごとを言葉にするのは難しい。
だが師は確と研鑽に足る、何かの感触をつかんでいたのだった。
師は追い立てられるように山に入り、引きこもって、隠者となった。
師はそこで、生命の書を開いた。
師は全ての知識を得た。
既存の知識、失われた知恵、それどころか異世界の学問体系にまで、あらゆることに通暁できる師の生命の書は、師を狂喜乱舞させた。これが必ず人のために役立つと信じた。師は純粋だった。
…そこから罪が始まった。
師ははじめ、その広大無辺、莫大な知識を書物として残すことを選んだ。
医学・薬学・生物学・化学・物理学・植物学――、汲めども尽きぬ、深い深い知識の源泉は、師の下に膨大な量の書物を産み落とさせた。それに伴って、すぐに紙や筆記用具がなくなった。生活食料雑貨も。しかし収入がないので、購入もできなくなる。そもそも町に降りるのが手間だ。
――ならばその必要性に応じて、師はまとめる知識体系の優先順位を変えた。
錬金術が目下最優先の課題となり、ほどなくして師はそれを手中に修めた。
――簡単なことだった。師には解決しない疑問など無かったのだから。すべて、生命の書が教えてくれた。
既存・失伝・異世界の知識、あらゆる知を加えて師独自の錬金術体系が産み落とされた。
師は当時、新たな魔法体系を創るのは楽しすぎて寝食を忘れた、と書いている。疑問は何一つない。己の望む結果を得るため、膨大な手段の中から最適・最善なものを検索し、組み合わせて、道を創っていけばいい。知識の創造…、気がついたら、朝から夜まで、寝食どころか排泄に行くことまで忘れていた。我に返るとすさまじい尿意で、失禁しかけたそうだ。笑える話だが、笑えないとんでもなさである。
この時から、師は己の必要とする物質は何でも、すぐに作れるようになった…。紙でもペンでも、いくらでも。
寝食を忘れて書き続ける師。書きなぐって、書きなぐって、書きなぐって…、それでも紙が足りない。知識は尽きない。記すべき文章が次から次へと降りてくる。師が一行の文章を記すとき、その頭の中にはすでに、次、記すべき十行以上の文章が出来ていた…。
膨大な量の書物が生まれた。
師は一つの独立した倉庫のような異空間を作り上げ、一つの“書架”を作り上げる。
簡単に言いながら並々ならぬことだが、師はやろうと思えばすぐにできた。そのための知識はあったから。
書き上げた書物はすべてそこに納めた。その空間は、それを納めてもまだ余りのある、広いものだった。
――この頃から、師は己のとんでもなさに、もう全く気が付かなくなっていた。罪が加速していく。
師がいつ、己の変化に気が付いたのか――定かではない。この頃の師の手記は、飛び飛びで曖昧だ。
ただ、俺は幼いリョータをあやしながら読み進めるうち、背筋がどんどんうそ寒くなっていったことを覚えている。ここらでリョータを寝かせた。己の恐れを感じさせてはまずいと、そう思ったからだ。
なんでもないような記述、文章なのに――、何かが狂っていく。視覚的にもっとも顕著だったのは、文字の変化だ。もともとの癖字がさらにくずれて、見慣れた俺でも判別できないものになっていく。俺はこのために、昔の文字と比較判別表を作った。書いている当時の本人が全く気が付いていない、というのが末恐ろしい。読み取った文章からそれが知れる。乱暴な殴り書きになっていく文字。くずれていく、くずれていく、くずれていく…、それでも止まらない。
のたくった文字の中から出てくる文章が飛び飛びで、どんどん意味をなさなくなっていく。何のために書いているかも分からない。それでも文字が、文章が…、えんえん、えんえんと続いていく…。
師は途中から、インクが切れた時にインクを用意するのすら面倒になり、己の手にペンを突き刺し、ついた血で本を書いていた。痛みにも気付かず、降りて来る知識で頭は埋め尽くされている。当時の著作にはがりがりと頭をひっかいて落ちた毛、フケ、垢、かさぶた、血、膿…、もはや悪魔が書いたのではないか、と疑われるほど陰惨な臭気を放つものが残っている。――事実、俺が読んだその手記もそうだった……。
……暗く、冷たい闇をじかに肺へと吸い込むような気分で――、俺は断定した。この頃の師は、狂っている…。あの師に限ってまさかと思っていたが、聞いていた通りだった……。
師が唐突にそれに気づいたのは、書き上げた書物を一冊、本棚に納めた時だった。
己の身長より三倍近くある、高い高い本棚。ずらりと並んだ書物。すべて手ずから綴じられていて、不格好に各頁がはみ出していた。それが薄暗い室内で、えんえん、えんえんと、無限の果てまで続くかのように静かに並んでいる。
莫大、と言っても足りないような量の書物を前に、師はふと一つの疑問を覚えた。
何だ、これは……?
己の書き上げた本だった。
何のためにわしは、これだけ書いているのだ?
師の疑問はすべて、たちどころに答えられる。生命の書からすぐに答えが返ってきた。
“すべては人のためだった。”
その答えを前に、師は瞠目した。さらに続いた疑問に、師は自ら、狂った己にとどめを刺した。
ではこれは、誰の役にたっているのだ?
返ってきた冷徹な答え。
しばらく沈黙した後…、師は身も世もなく絶叫した。――それは誰にも聞かれることのなかった、狂った師の断末魔の叫びだった。―――もうすでに、二百年以上の年月が経っていた。




