~知られざる苦悩~⑥
今思い返しても、苦い思い出だ。笑い話だが、笑うどころの話ではない。裏にはそれぐらいの危険性を孕んでいる。快楽に狂い死にさせることもできるのが我々なのだ。
実際、これ以降、何かとクィードが俺に酒を飲ませようとしてくるのが気にかかった。
………あの経験に、溺れているわけではないだろうが……、一度知ってしまうと、大体人間、こんなようなものだ。俺が中毒にするつもりはさらさらないので、大丈夫だろうが。それでも俺の節制に甘えないでほしかった。自制をしろ自制を。
大体だ。別に酒など飲ませなくても、そりゃまぁ、同じ男としてですな?奥さんを誘いにくい時もあるんだよ、とか、怒らせて気まずいんだけど、とか言われれば相談には乗る。相談にはのるが、媚薬代わりに使うのは勘弁して欲しかった。習慣性もなくタダだからって、そうお手軽にやるものでもないんだぞ?時々でいいんです時々で。こういうのは。まったくもう……。
…………………………………………………………………。
………あれ、何?なんだろ…、俺…、別にうらやましいとは思ってないぞ。たぶん。
用を足した後、溜息をつきながら公衆便所を後にした。
ほとほとと夜道を歩いていく。淡く清涼な満月の光が、固い石畳を柔らかく照らしていた。
行先には、宴もたけなわの人の集まりがある。中央にたき火を囲み、所狭しと食卓を囲み、談笑する人たちの影が見えている。
――俺は行程の中ほどで足を止めた。しばらくその光景を見やる。真新しい木の香りがする横の柱に、なんとなく寄りかかって体重を預けた。
不思議な、気分だった。
俺は、さっきまであの光景の中にいたのだ。師と二人では、生涯入ることのなかった光景に。
あの光景は、俺たちにとって憧れですらあった。ずっと二人だけで旅ばかりだった、俺たちにとっては。
少し離れたその場所で、仲間たちが笑いあい、ふざけ合っている。…街の喧騒とはまた少し違う、たくさんの人の、声の相乗による騒音。一つ一つに耳をすませば、それぞれの人が、それぞれの友と、それぞれの話をしている。たき火と満月の光の中で。
……。
目を細めた。自分がさっきそこにいたのが信じられなかった。
師がはるか昔にそこにいて、隠者となって、もう戻ることのなかった、人の光景。
――正確には、戻らなかったというより、もう戻れなくなった、という方が正しいだろう。師には帰りたくても帰れなくなった、懐かしい場所のはずだった。その理由を、俺は知っている。
……。
俺にとっては、全くの未知で、不明の場所。師がそうだったから、誰からも教えてはもらえなかった、そんな場所。ずっと二人で旅をしてきたから。俺にとっては未踏の憧憬。――でも師が悲しむから、絶対に行きたい、とは言わなかった…、そういう禁じられた場所。
……。
そろそろ、認めざるを得なくなった。戻れなくなってしまった。このまま、どこに戻ればいいのかが分からない。
あの中に、俺の戻る場所はあるのだろうか。リョータや、クィード一家しか、深い知り合いがいないが…、彼らはそれぞれ独自の友と、ばらばらに談笑している。俺のような何も話せない大きな異物が邪魔しても、よさそうな感じはしない。そうなると、俺はもうどこに戻っていいかが分からなかった。こういう場所では、こういう時、どうすればいいのだろう?
……。
…落ち込んできた。
孤独は集団の中でこそ、最も強く浮き彫りにされる。
今まさにその状況だった。あたかも強い光の下でこそ、影がその闇色を深くするように――、集団を前にすると、孤独感は強まる。たぶん、周りに集団があれば――つまり、比較対象があれば、嫌でも自分が孤独だと思い知らされてしまうのだろう。自分だけがその集団に入れない。
ずっとおのれ一人でいれば、己が一人であることにすら、気づかないでいられる。他人の笑い声を聞くことも、楽しそうな風景を見ることもない。凍りついた時間の中で、ずっと一人で、凍り付いていられる。師を亡くしてから、俺は…。
そんな分析的な思考が、とても無為だった。また溜息を一つついていた。
強い光の前で、己の孤独が浮き彫りにされていく。
気が沈み、ゆらりと暗いものがおのれの足元へとまろびでた。
己の影だった。
いつの間にか下を向いている自分――、二つの光源からなる淡い影は、それぞれが二方向へと別れ、さびしげに別れて静かにたたずんでいた。
――己の闇、己の孤独――、師を思い出した。共有するしかなかった、師の闇、師の思い、もう戻れなかった、憧憬の場所。
――追憶は滑るように、己の内へと去来した。俺は逆らわず、追憶に心を奔らせた。




