第一章 隠者の追憶 ~知られざる苦悩~ ①
俺の名はリゲル、魔法使いで、医師だ。
この名もなき辺境を旅して、村々をめぐる巡回医師をしている。
狼の頭を持つ獣人だが、不思議と人から怖がられた経験がほとんどない。狼というよりは飼い犬のような、なんだか腑抜けた顔をしているのだろう、と、自分では思っている。
なんにせよ、人を怖がらせて喜ぶ趣味はない。持って生まれた顔だ。まったくのところ文句はなかった。
俺としては、獣人として生まれてよかったと思っている。そうでないと、冬の巡回には耐えられなかっただろうから。自らの体を覆う黒灰色の毛皮は、冬の旅に大切な要素の一つだった。
この辺りの冬は、寒さが厳しい。高台には雪が積もる。平地が少なく、起伏が多い地形だ。あまり大々的な農耕には向かない。なので冬にはそれこそ、どの国からも見捨てられたような土地となってしまう。
そのせいか、この地域は周辺諸国がそれぞれに勝手に地名を付け、ひどいところは地名すらつけず、かえりみないような片田舎となっている。
ただし、そのような状況でも一つの町だけは、どの国でもその地図に名前を記している。
その町の名はタナン。この辺境に位置する、温泉郷だ。
効能際立つタナンの名湯は、知る人ぞ知る名物であり、こんな片田舎でも人が足を運ぶに足る理由となっている。そのためタナンは、辺境にしては常に人でにぎわっていて、田舎といえども活気がある。物流もよく、店頭の品ぞろえも良い。小さい集落がまばらに点在するこの地域では、唯一の大きな経済拠点だ。定住をしない旅ばかりの我々は、必需品の購入によく利用していた。
俺は今、そのタナンの町にいる。
弟子となるリョータをこの町の知人に預けていたので、それを迎えに来ていた。
リョータは俺の養い子であり、代わりのいない家族のような存在だ。今日、この子はあらためて、我々の弟子となることを選んだ。自らの意志で。そのために課した試験は無事に果たした。…といっても、我々の系譜に連なるものだ。本人がそうと望めば、おのずとそうなってしまうだろうということはうすうすと分かっていた。
俺は正直、すごくうれしかったが、それは俺の中だけのこと。
リョータの幸せを考えると、気は晴れないところもある…。市井に混じって暮らす方が、普通と言われる人生を送れただろうから。
しかし、それももう、今は考えることではなさそうだ。すべてはまた始まってしまった。
可能な限り、自己の中で発想を切り替えるべきだと考え始めている。これからは俺が――、俺と師が、導いていかねばならない。我々の道は、最初から一人で歩いていけるほど甘いものではない。己の幸せはいずれリョータ自身が答えを見出すとしても、それまでは…、我々の助けが必要だ。魔法使いとなれば学ぶにつれ、おのずとものの見方が変わっていく。まずは学ぶことが先だ。この子の幸せを論ずるのは、もっともっと先の話になってしまった。
そんな、卵から生まれたばかりの魔法使い――我らが弟子は、師となり、兄弟子となる俺に、さっそく試練をもたらしていた。
“………まずい、どうしていいか分からん。”
顔には笑顔を張り付けて、ひそかにだらだらと冷や汗をかきながら、俺は心中で一人つぶやいていた。
“…本気でわからん。俺はどうすればいいんだ……”
周りでは、アルコール飲料の入った杯を手に、多くの人たちが立食し、談笑している。
新築の宿の庭先に、テーブルが所狭しと置かれている。その上には、俺たちから見ると豪勢な料理が並んでいる。満月の月明かりに加え、テーブルの各所に置かれたカンテラが、淡くそれらを照らし出している。中央には大きな焚火、それを囲んで座り、何人かが飲み食いしながら談笑していた。彼らの影が、俺をからかうように揺らめいている。
おいしそうな匂いに混じり、組み上げられたばかりの真新しい木の匂いがほんのりと鼻につく。そして密集したたくさんの人の…口臭・体臭の入り混じった匂い、アルコールの匂い、薪の匂い…。そんなぼんやりと熱で浮かされたような生暖かい空気の中で、喧騒と、粗朶の爆ぜる音が夜の静寂を押し流していた。
今宵は、すぐそこに見える新築の宿の終工記念、職人の慰労をかねた打ち上げ会だ。ひょんなことから、俺はその会に招かれた。
そして一人、ぽつねんと置き去りにされていた。
しばらく俺の手を引っ張って、出席者の間を連れまわし、俺を紹介しまくっていたリョータは、同年輩の友達に呼ばれ向こうに行ってしまった。俺は深く考える間もなく、いつの間にか一人ぼっちになっていた。
リョータが町にいる間、世話になった人たちだ。ちゃんと挨拶をせねばならない。その一念のみで出席した会だったが…。予想以上に、その挨拶以外、何をしていいかが分からない。
長年、師と二人きりのみで巡回生活をしていた俺だ。集団生活というものに全く実感がない。こういう時どうすればいいのか全く分からない。巡回する村で、宴席に出たことはある。でもそれは、賓客として、俺は医師の仮面をかぶって座っているだけでよかった。しかしここは…、…たぶん…、リョータの保護者・普通の人として、出席する会ではないのか?
そうなると、俺は完全に何をどうしていいのか分からなかった。
そもそも、周りにいる誰が誰なのかも分からない。リョータは町にいる間にたくさんの知り合いが増えたようで、あの人、この人、と次々に紹介され挨拶をするうち、誰が誰だか分からなくなってしまった。深く話す間もなく、顔も名前も一致しない。
突然、すぐそばでどっと哄笑が沸き起こり、俺は驚いてびくりと肩をすくませた。
見やると――、一人の結婚したばかりの若い男が、先輩に新婚生活をからかわれている。――昨日の夜はぁ、三軒離れた俺の家まで声が聞こえてたぜ?…そんな昨日は家でやってませんよ!…じゃあどこでやってたんだっつうの…。それは…その…。
あははは、と、とりあえず自分も回りに合わせて笑ってみる。…いや、でもこれ、笑っていいのか?
そんな疑問を覚えても、誰も答えてはくれなかった。
いま、絶対、自分はひきつった笑い顔になっている。そう思った。
俺はその顔のまま、通りすがりに無理に渡された、手の中のものに目を落とす。
簡素な杯だった。中には消毒薬としてはお粗末な液体が入っている。
舐めて利いてみた。
原料となった穀物の夾雑物が多数…、何種類もの炭水化物とアミノ酸、有機物が混じっている。水分とアルコールは8対2くらいか?これ。これを原料に蒸留すれば、それなりの消毒薬はできるかもしれないが…、俺に分かるのはそこまでだ。
いや、言われなくても、これが酒という飲み物だとは分かっちゃいる。分かっちゃいるが、全然慣れていない飲み物だった。町ではこういう酒で、宴会をするのか…。
せめて治療用の薬酒なら、まだ味は利けるのだが…。――うまいって言えるのだろうかコレ。――もう一度舐めてみた。本気でよく分からなかった。
なんとなく、師に“お前は舌が子供だ”と言われたことを思い出した。“甘けりゃなんでもいいってわけじゃないんだぞ?”
並べられた料理に目を向けた。豪勢なものだ。いや、ちょっと豪華すぎるんじゃないか?だって、肉とか卵料理があるぞ?これ、勝手に食べていいの?
周りを見渡す。出席者の誰もが、好き勝手に料理を取り分けて食べている。その姿に呆然とした。手づかみでかぶりついているものまでいる。
この人数で、この量は多すぎるんじゃないのか?それとも、俺の感覚がおかしいのか?
もう一度並べられた料理を眺めやる。よく分からなかった。
俺も食べたいし、食べるけれど…、これは後の調整が大変だ、と意識せずに溜息をついていた。
そうだ、やっぱり、俺の感覚の方がズレているのだ。普段の我々は、それくらい質素な食生活なのである。
俺の肉体は、少ない食糧でも最大限の栄養吸収が行えるよう、普段から内臓の調整をかけている。これは己の巡回医師としての役割を果たすためだ。
身一つで野宿をつづけながら旅を重ねるのは、なまなかなことではない。
テント・生活必需品・薬・治療時の着替え…そういった荷を考えると、人が持ち運べる食料には限界がある。これは水だってそうだ。常にどこでも湧水があるとは限らず、いつも川べりを旅するとは限らない。この水の方がどちらかというと重要問題で、食糧よりも気を付けねばならない。積雪の多い時期は燃料さえあれば何とかなるが、燃料とて同じ問題を避けられない。粗朶を拾い集めても、湿っていては火が付きにくいし、かといって炭を使い続けるわけにもいかない。炭は重量としてさほどではないが、荷としてはかさむ。雪を溶かして出来る水は少量で、水を作るのは能率が悪い。つまり水はある程度、確保しておく方がいいのである。必然的に、食料にさける配分も減っていく。さらに食料に関して言えば、たとえたくさんあったとしても、常に重量問題と保存性の問題が付きまとう。多すぎれば重いし、保存がきかないものは腐ってしまう。かといって少なすぎれば、餓えて道中を歩くことになる。
そのため、我々は、食料を道すがら現地調達して進むことも多い。そのあたりの野草でも、食べられない毒草と見分ければ食べることが出来るからだ。そして訓練と鍛錬、魔術的な調整によって、我々はわずかな食物――たとえばそれが野草類だけであっても――、そこから最大限、熱量と栄養素を吸収できるよう、消化機構から調整をかけている。そうでないと、補給の頼りないこんな辺境で、巡回なんてできるわけがない。
…そんな俺の必要量から考えると…、いま、目の前にある食料は…、ゆうに一か月分を軽く超えている。
町に来ると、食生活が一気にゆたかになるので、毎回この内臓系の独自調整をすることになる。今回は特にそれが大変そうだ。リョータはしばらく町で暮らして、こちらの食生活になれただろうから、また俺がこっそり、調整してやっていかねばならないな…。リョータはまだ一人で、この手の調整が出来ていない。
そう思いながら、もう一度テーブルを見やる。――どれもうまそうだ。食欲をそそる。いい匂いがする。――腹が鳴った。唾をのみこんだ。肉や玉子をちゃんと料理したものを食べるなんて、久しぶりだ。蛋白質だっていつも吸収限界まで高めているんだゾ…。…すげぇうまそう…。
もう一度唾をのみこんだ。とりあえず、ここらで全てにおいて、食欲が勝ってしまった。それ以外、思考がまわらない。
いいやっ!とりあえず食べよう。今は一人ぼっちでも構わない。
そうやって、料理に手を付けようとした矢先だった。




