第二部 序章 隠者の杖
私を導いた、まだ見ぬ師へ
いつか必ず、私もあなたの元へと還る
あなたがいつも、健やかであるように
僕の手の中に、一本の杖がある。
魔法使いである先生から、僕へと譲られた、一本の杖。
その杖の先端を見上げながら、僕は一つ、溜息をついていた。
手に持つのは杖と言っても、ただの細長い木製の棒…棍というものだ。
僕たちは、この棍をいつも、杖代わりに使っている。
子供のまま背丈の伸びない僕には、長すぎる大人用の棍。だけれど、これはもう、僕の手に十分すぎるほどなじんでしまっている。なんとなく手の中でもてあそんで、ひゅんと風を切らせてくるりと回し、――そのまま腰を落として構え――、いつもの一連の動きを試してみた。
すべらかに棍が動き、跳ね、突きだされ、めまぐるしく踊る。
――いつもやっている、杖術の型。護身術として習ったものだ。先生から習ったのはいつだったか、もう覚えていない。それくらい昔だ。体が覚えてしまっている。
軽やかに四肢が跳ね、体がしなる。棍が踊る。息も乱れない。一通り終えた所で最後に構え、ぴたり、と、棍を手の中に収めた。
―――動きによどみなんて、あるはずがなかった。いつもやっている、杖術の型。
そうやってもう一度、手の中の杖を見やる。
しばらく見やって、また一つため息が出た。
まとめてある荷物へと、杖を立てかける。
この荷物も、まだ背負われることはない。
旅立ちは、もう少し先になりそうだった。
僕の名はリョータ。最近、魔法使いに弟子入りしたばかりだ。
最近、習ったばかりの事を思い出す。
僕は、この杖だけではない、自分の体の中にもう一つ、杖を持っている。
これは実は、誰でも持っている魔法使いの杖――生命の曲り杖。白と灰色。体の中心にある、とある器官のことだ。
今、目の前にあるまっすぐな棒ですら、歩くときには杖として使われ、護身用には棍、野営時にはテントの支柱となる。その証拠に、杖であり、棍である目の前の棒の先には、テントを支える部分に擦り切れた痕がある。
『こんな杖ですら、一つで三役をこなす。』
僕の中の杖も、これから鍛え磨き上げて、一つでありながら万象に通じるカギとしていくことになる。
そんな、先生に教わった、魔法使いへの道。
魔法使いとしては、駆け出しどころかまだ一歩も踏み出せていない僕。
先生からたくさんの説明を聞いても、はっきり言って、まだわけが分からないことばかりだった。
『杖を鍛えるには、そのための火――はじまりの火――はじまりとなる動機が、最も大切になる。』
『その火で炉を灯さねば、相応の報いを受け、その火で杖を鍛えねば、杖はすべからく朽ち果てて翼は落ちる。』
お師匠様の言葉だ。そう言われた。
実は、本当に大切なことは、杖の使い方ではなく、杖をどう使うか、なのだという。
魔法とて余技に過ぎない。絵が得意とか、歌が得意、料理ができるとか、そんなようなことと、なんら変わりがないんだよ、とお師匠様は言い切ってしまった。実は、まったく特別なことではないらしい。
僕は、僕が杖をどう使うか、ということの方がもっとも大事。――何のために、という、はじまりの火に関わること。はじまりの火を燃やすもの。燃やしつづけるもの。その方が、ほんとうに大切なのだそうだ。
僕はその答えをいずれ出さねばならないし、いずれ出すことになる。――そう言われた。
『杖とは象徴。』――二人の師の言葉。魔法使いの秘密の一つ。
謎めいた秘密の一つを、僕はすでに教わった。わけが分からなかったけど。
今、僕の目の前にある僕の棍には、先生の名前が刻んである、“リゲル”と。
これはもともと、先生が使っていたものだからだ。先生のお下がりである。
その先生はいま、先生の先生――お師匠様――がもともと使っていたものを受け継いで、使わせてもらっている。
こんな風に、師から弟子へと受け継がれていく杖。
かつては先生がこの杖を持ち、お師匠様と旅をした。今度は僕が、先生と、それぞれに杖を受け継いで、師と弟子になり、旅をすることになる。
僕はこの杖を先生にもらった時、本当にうれしかった。お下がりでゴメン、って言われたけど、全然イヤじゃあなかった。…本当だ。僕が弟子になる前にはもう、お師匠様はいなくなっていたから、先生はすでにお師匠様の杖を使っていた。――僕が自分で歩けるようになった時、これは僕のものになった。――でもいつか養い子じゃなくなって、先生の弟子っていう立場になれたら、本当に僕のものになったら、先生の名前の横に“リョータ”って彫らせてもらうんだ。ずっとそう意気込んできた。当時はまだ弟子じゃなく、返す可能性もあったから。
…今なら先生は許してくれるだろうか?まだ許可をもらっていない。小さいころからの、夢だったのだけれど。
僕は、魔法使いであり、巡回医師である先生に引き取られ、育てられた。
先生と出会った小さい頃のことは、実はあまり覚えていない。でもとにかく、当時の僕はとんでもなく重い病気にかかっていたらしい。でも、それは先生が治してくれた。僕のお母さんは同じ病気で、先生の助けが間に合わず、すでに死んでしまっていたそうだ。お父さんの方は知らない。先生も知らないという。僕は当時、病気のせいで頭までおかしくなっていたから、そのあたりのことはあんまり覚えていないんだ。最近、僕はその頃の記憶を思い出して、昔の自分が戻ってきた。…それから感じるに…、あまり思い出したい記憶ではない。
片方の目が見えず、耳も聞こえず、まともにしゃべることも出来なかった、その頃の僕。
――そんな昔の僕が戻ってきたとき、先生は僕に“お帰り”、と言ってくれた。
…僕は泣いてしまった。もう自分の中の水が全部、涙になって流れ落ちちゃうんじゃないかってくらい、泣いてしまった。それくらい、うれしかったのだ。思い出したんだ。僕はお母さんからも必要とされない、誰からも必要とされない、ほんとうにいらない子だったけれど、先生だけは、僕を受け入れてくれていた。先生だけは、そんな僕を必要としてくれた。僕の帰る場所は、ここだった。ここにしかなかったんだ。
ただもう一人、僕をずっと受け入れて、待っていてくれた人がいる。それは、お師匠様だ。
先生に、魔法と知識を教えた人。先生の先生――お師匠様。
この人は死んだ後もずっと、魂だけになって、先生を守り続けている。
この人は本当にすごい魔法使いで、僕も何度も会ったことがある。僕らの旅路は、本当は三人で歩いているようなものだ。ふと気づくと、それくらいの存在感をもってそこにいる。先生に言わせると、内にも外にも生きる人だから、とよく分からないことをいう。意味は分からなくても、本当にその言葉の通りだと思う、そんなすごい魔法使い。
先生は――リゲル先生は、僕を魔法使いの弟子として認めた時、言った。
「ほんとうは俺は、魔法使いとして、弟子を取れるほどにはなっていない…、と、自分では思う。――でも、師と仰げる人なら知っている。だから、リョータもその人に弟子入りしてほしい。」
そういうわけで、僕は先生の先生、“お師匠様”にも弟子入りすることになった。
…いろいろややこしいので、いつも僕たちと一緒にいるその人を、“お師匠様”と呼ぶことになる。
リゲル先生は、“師匠”ではなくて、“お医者さん”という意味の、“先生”のままだ。僕が小さい頃に覚えてしまった、今まで通りの呼び方。その方がいいという。僕も慣れているからそれでいいけど、お師匠様を差し置いて、師匠、師匠って、呼ばれるのがイヤなんじゃないのかな?そういうことを気にする人だ。そんな感じがする。僕にとっては、どちらも違和感なく、お師匠様なんだけど。
そんな風変りな、二人の“師匠”のもとで――。
僕は“先生”の弟子になり、“お師匠様”の前では先生と並ぶ、一門下の兄弟弟子になった。――そんな不思議な関係――、でもそれでつながる、僕らの隠者の系譜。
先生は笑いながら、こんなこぼれ話まで教えてくれた。
「その“お師匠様”っていうの、すごくいいな。師匠も気に入ると思う。――俺がはじめて師匠って呼んだ時、ずっとニヤニヤしてさ――、用もないのに一日中、師匠って呼ばせ続けたくらいだから。」
先生にとっても“師匠”。…つまり“お師匠様”、ちょっとややこしいな、と僕は頭を掻いていた。
弟子入りの日を思い出す。
うきうきと喜び勇んで走りだしたくなるような記憶。わきの下をくすぐられたように心が落ち着かなくなる。きらびやかな宝石で彩られた絵画が、簡素で味気ない通路を鮮やかに飾り立てたようだった。僕という雛鳥のための祝祭。そこで見た、一瞬一瞬の輝く情景を、僕はこの先ずっと、生涯、死ぬまで忘れないだろうと思う。
そんな道を通り抜けて、僕は魔法使いの弟子として迎えられた。
――夢か、現実だったのか、分からない不思議な記憶――。でも、新たにもらったお守り――先生のものとまったく同じで、かつてお師匠様がその首にかけていたもの――、それが儀式の末、僕のものになり、いま、ここにある。
そのあとの事を思い出し、今度は心がしょんぼりと沈んでいく。
弟子入りの夜が明け、予期せぬ患者の治療があった。これは僕にとってまた大きな衝撃だった。悪い意味での衝撃だ。
大切な家族が苦しむさまを、初めてまざまざと見せつけられた。
けれど、それが先生の医術の真実で。魔法使いの弟子になって、初めて見せてもらえた、先生の魔法の手の真実だった。
…先生と何年も一緒にいて、僕はそのことに気付いてすらいなかった。本当に何も知らないガキだった。あの魔法の手。あんな風になってしまうものだったんだ。これまでずっと、黙ってたんだ。隠してたんだ。…知らなかった…。先生も、先生の先生――お師匠様を守ったって言ってた。だったら、僕が、先生を守らないと。
僕が、先生を守らないと。
それなのに。
守らなければならないのに。僕の方が巻き込まれて死にかけて、守るどころか逆にその手に助けられてしまった。あの時、暗いどこかへ落ちていくようなうそ寒い感覚の中で、僕をつかんで放さず、引き止めてくれた魔法の手。それとともに追いかけてきた衝撃と言葉を、僕は忘れることができない。思い出せば今でも耳の中でわんわんと響いている。巨大な落雷が体の奥底までを打ち抜き、内側に傷をつけていったみたいだ。明確な言葉が心の芯に刻みこまれ、妙にはっきりと残っている。
“お前を愛してるんだ!!お前をほんとうの家族だと思ってる!必要なら俺の命だってくれてやる、だから死ぬな!闇にも落ちるな!!”
…それだけを、強く覚えてる。
気がつけば、僕はいつもどおり、この世界で、自分の二の足で立っていた。
…先生は、苦しくて、泣いていた。
泣き虫なのは知っていたけど、あんな風に泣いたのは…、…初めて見た…。
偶然だろうけど、僕の毛皮で涙をぬぐったりなんかするから。もう僕は先生の涙の匂いまで覚えてしまった。次に先生が泣いていたら、僕はたぶん、かなり遠くにいても、それが分かってしまうだろう。
僕は魔法使いの才能は高いらしいが、医師としての才能は、そうでもないらしい。
全然ない、って、ことなのかな…。
先生の医術は、とてもキケンなものなんだ、っていうのも分かった。だからこそ、弟子の僕が先生を守らないとならない。なのに、僕には医師の才能がない、という。じゃあ僕は、どうしたらいい??
その先生に言われた。
僕は魔法使いの弟子として、習うだけではいけない。自分で考えるということも学ばねばならない、と。
先生やお師匠様にすら、教えられないことがある。
その最たるものは、僕は何故生きるのか、何のために生きていくのか、ということ。
より正確には、僕はどう生きるのか?
僕はいずれ、その問いに答えを出していくようになる。
『真理は人を、自由にする。』
真理は僕を、自由にする?
…なんだそれ?わけがわからない。でも決まってことはある。とりあえずは僕の家族を守るためだ。
僕のたった一人の家族を守るためだ。
でも僕にはその力も才能すらもないという。扉が閉ざされているように感じている。
じゃあどうしたらいいんだ?でも何かが引っかかっている。教えてもらった事と法則…、それが僕の中を暴れまわる。閉ざされたように思う扉も、僕が重しのように思うだけで、簡単に開くんじゃないのか?法則ってたぶんそういうものだ。僕の中でそう、何かが背中を後押ししている。でもそれが何なのかがわからない。答えはすぐそこにあるような気もするんだけれど、星空の向こうがわのような手の届かないところに隠されているような気もする。もうなにがなんだか、分からないことばかりだ。こちらが泣きなくなるようなたくさんの混乱の中、ふと、まとめていた荷物の前の、立てかけていた杖が目に入った。
――なんとなく思い出した。僕が杖をどう使うか、という方が、問題なのだということ。
何かが引っかかっているようで、そうでもないような気がする。もやもやと自分の中で疑問がわだかまり、答えが何も出てこない。僕の杖は二つとも黙ったままで、何の手がかりも示してはくれなかった。
――僕は、どう生きるのか。
――僕は、杖をどう使うのか。
答えはまだ、出ていない。
ここから、第二部、というようなくくりになりますが、
一部の話の続きや、そちらでは書かなかった内容が知りたい方はどうぞ。




