三章 隠者の系譜 ⑫
期日の日が来た。今日、この町で暮らして三か月になる。
午前中は親方の仕事を手伝い、昼からはお休みをもらう。――先生を迎えに行くためだ。もうできた分の薬を持ってくる、と言っていたので、いくつかでも荷を引き受けるつもりだった。
親方からも、それは行く義務があるな…と、納得される。前回、世話になった時、きちんとお礼をする前に先生は帰ってしまったので、親方はそれを気にしていた。こちらにも必ずお連れするように、と厳命される。クォンはお使いがあったし、僕一人が向かった。
自然と、駆け足になっていた。
――今晩は、僕が最初に手伝った建築の終工を祝って、打ち上げが行われる。期日を今日に指定したのは、親方だ。この会に、先生を誘うつもりらしい。何も聞いていないから、先生はきっとびっくりする。
多分、とても楽しいものになる。みんなお酒や好きなものを持ち寄って、家族も引き連れてやってくる。クォンの一家も来る。ホルンさんは、厨房で余ったものと、そこを借りて作った料理を持ってくる。親方も依頼主も多くをふるまう。クォンは今日その買い出しだ。僕は――、僕も自分の家族を連れてくる。
製薬の過程を一時区切ったから、逆に時間が空き、先生は今日、期日通りに町に来れるようになった。
昨日の夢では、昼にはつくよ、と言っていたから…、もうそろそろ姿が見える頃だろう。
――もうこの三か月で、かなり見慣れてしまった街並みが、勢いよく前から後ろへと流れていく。
この街並みから離れるとなると、幾分かさみしいけれど―――、もっと、もっともっと大きな夢と希望が、僕を待っている。正確には、きっと、僕の帰る場所だ。そこに――、僕の夢と希望を導く、師になった人が――、僕を待っている。
勢いよく街並みを突き抜けると、目の前に一息に草原が広がった。そこで一度止まり、膝に手をついて乱れた息を整える。遠くに目を凝らした。
彼方に、ぽつんと、荷を背負った人影が見えた。
「先生!」
僕は待ちきれず、駆けだした。師に向かって。
――久しぶりの、ゆっくりとした旅になった。
待っている人は一人だけ。急患や疾病のうわさがあるわけではない。天候もよく、気楽なものだ。
今後の製薬のことを考えると、アタマが痛かったが…、今は考えないでおこう。
日差しがとても暖かい。心地よい風が吹いている。昼寝でもできたら、最高だ。だが、俺は静かに、ゆっくりと歩を進めていた。
ふと、草原に浮かんだ目的地から、一つの小さな影が現れて、こちらに向かって駆けてくる。
ほとんど転げるような勢いだ。おいおい、転んでくれるなよ?と、思いながら…、もうそんなことを注意する年でもないことを思い出して、苦笑した。
「先生!」
声が聞こえる。慣れ親しんだ声。なんだろう?今日はとても弾んだ声音だ。いいことでもあったのか?
「先生!」
大丈夫。聞こえてるよ、と思ったが、――自分の手は届いていなかった。
ここらあたりかな、と思い、荷を下ろす。
「先生!」
とうとう俺の前まで全速力で駆けてきて、そこで荒い息をついた。俺はすでに荷から水袋を取り出している。
「うん。お迎えありがとう。でも仕事はよかったの?」
「は、はひ…。」
「ホラ、水。」
まだ息を切らしているリョータが水袋を受け取った。
「あ、ありがとうございまふ」
言いながら、がぶがぶと水を飲み下す。…いい飲みっぷりだ。リョータは今日も元気だな?あとでこっそり触れて、診ておこう。
「先生!」ようやく息を落ち着けたリョータが言ってくる。
「僕、先生の弟子になります。僕を弟子にしてください!」
「………もしかして、わざわざそれを言いに、走ってきたの?」
「はい!今日ここで、最初に会った時に言うって、決めてたんです!言わなきゃって、思ってたんです!」
「そうか…。」
俺はしゃがみ込んで、リョータに目線を合わせた。…分かっている。この子はもう引き返せない。夢を渡った時点で、その制御法を学ばねば大変なことになる。しかし、それでもいくつか、確認しておくことがあった。
「分かってはいるけど、いくつか確認しておくよ?まず、俺の弟子になると、ほとんど旅ばっかりで、大変なことばっかりだよ?」
「望むところです。耐えてみせます。」
「あったかいお布団もベッドも、いつもある水や食べ物も、雨風をしのげる家も壁も、何もいらないのかい?」
「へっちゃらです。だって、僕たちはそこで生まれて、そこが帰る場所でしょう?先生言ってました。毎日毎日、目的地があるって、その生活が忘れられないって。…なら僕もついていきます。先生がいれば平気です。」
「……。」
「先生、先生も言ってたでしょ?僕はもう魔法使いになるしかないって。もう、何言って脅したって駄目ですよ?僕もう決めたんです。先生がダメって言っても、僕は先生が認めてくれるまで勝手に着いていきます!先生と同じ場所に立つまでは、もう離れませんからね?!」
俺は、呆然とリョータを見つめた。
この子は――、この子は、分かって言っているのか?
懐かしい、かつておのれが師に向かって言った言葉が。耳に蘇る。
“俺は、先生が弟子にしてくれるまで離れません!俺が勝手に着いていきますから!…何かわからないけど、先生が知っているその秘密、必ず教えてもらいます!”
「…そうか……。」
俺はぽつりと漏らす。そうだな。…そうだよな、リョータ。
「……先生?」
頃合いだな。
俺は納得した。そのまま手順に入る。だがすぐに知れた。時が来ていた、ということが。
師は言っていた。時は必ず来る、と。
今が、その時だった。
俺はほとんど何もしていないのに、まわりの世界から一気に持ち上げられていくような錯覚を覚える。この世にある、たくさんのものが、俺の背中を後押ししていた。
俺の中の歯車が勝手に回り始め、生命の杖が世界と共鳴する。俺の体色は、一息で銀色へと変化した。あふれる霊威が、体表にさざ波をつくり毛をそよがせて、銀色の波紋を作りだしている。…今のおのれの瞳は何色なんだろうな、と、とても気になった。
「…え?…え?…ええ???」
リョータが混乱した声を上げている。無理もない。俺のあの時もそうだった。あの時の師の変化を、今でも昨日のことのように覚えている。師の体はもともとが白に近い灰色だったが、その時は雪のような純白の体毛に、銀色の波紋が踊り、眼は深く澄んだ青色に変わっていた。――自分が吸い込まれそうなくらい、深く澄んだ青色だった。
リョータはまだ気づいていない。この近くにある世界中の全てが…、リョータ、お前を歓迎している。今、お前に期待し、お前の選択を待っている。今か今かと、お前を祝福するために。
俺は片膝をつき、手をさしだして、リョータをいざなった。
“一度しか言わない、よく聞いて。”
念のため、意味がちゃんと心に浸透するまで、しばらくの間を持たせる。
“俺の名は――――――”
秘密の名乗りをリョータにあげる。リョータにしか聞こえないはずだ。
「……え?なに、これ…」
そしてリョータも気づいたはずだ。確かに聞こえて、受け止めたはずなのに…、その名が全く思い出せないことに。
発音もできないし、思い浮かべることもできない。でも、俺は師の真名を知っているし、師も俺の真名を知っている。
――さて、最後の試験だ。リョータは答えきれるかな?
“おまえの名は?”




