三章 隠者の系譜 ⑪
この後、先生と少しもめることになった。ちょっと困ったことになったのである。
先生は、僕の治療が必要と判断したらしい。治療と言っても、昔の僕も、今の僕も、同じリョータ。その二人をどちらも生かし、安定させたいらしい。今、まだ回路が柔らかいうちに、別の習慣や反射をくっつけたいとか何とか。詳しいことはよくわからない。とにかく、今から治療を始めたいので、いきなりもう僕を連れて帰ろうか、と言い出した。
僕は、それに…、自分でも驚いたことに、抵抗を感じた。
前日に夢でそういわれた時には、不安でいっぱいでそうするのがいいかもしれない、とまで思っていたのに――。今は違う。何故なのだろう?そういえば、失われてしまった、という感覚が今、少しもない。不安もない。涙と一緒に、全部押し流してしまったみたいだった。
不安がなくなると―、きっちりと、期間通り役目を果たしたい、という思いが芽生えてきた。
もうすぐ、あの建設中の宿も完成する。ちょうど約束期間の三か月が終わるころには、その完成を見ていける計算だったのだ。そして、クォンの勉強計画もまだ少し残っている。仕事の引き継ぎは大丈夫だと思うけど、もうちょっと一緒にやって…、クォンに自信を持って行ってほしかった。なんせ、あの先輩たちだ。僕がいなくなったら、クォンは独りで奮闘することになる。クォンは負けるような男ではないと思うけど、でも、もう少し…、僕も一緒に仕事をしていたかった。
そういうと、先生は、分かった。といい。じゃあ、俺も町で暮らすか。三週間くらいでいいんだよな?と、言いだした。
そんなことを言い出すとは思わなかったので、度肝を抜かれた。
「ダメですよ!薬作るの、どうするんですか?!」
「――あ――、でもそっちより、リョータの方が大事だし。あきらめる。」
僕はこの言葉に胸が締め付けられるような心地がしたが、ここで黙っているわけにはいかなかった。これは大変なことなのだ。
「ダメですよ!先生知らないでしょ?!先生の薬、すごくたくさんの人が待ってるんですよ?!」
僕は大慌てで説明した。先生はこの町の薬問屋に手製のものを卸している。僕はここで暮らすうち、その店の主人と話す機会があったのだ。クォンとともにお使いで町を出歩くようになって、ある日、僕を見かけた店主に呼び止められたのである。
ここの店の主人はとても無口で、あまり話をしない。そう思っていた。ここで呼び止められるまでは。
聞きなれない声で尋ねられるには、先生はどうしたのだ?もう薬は作っていないのか?という。
事情を説明すると、店に招き入れられ、お茶とお菓子までご馳走になって、ぜひ頑張って先生の後を継ぎなさい、と激励された。そして少し話をしてくれた。
先生の薬は、この町のほとんどのお医者さんが使っていて、はるか遠方から求めに来る人もいるのだという。そして一つ、この店独自の医者の見方があるんだよ、と、いたずらっぽく笑って教えてくれた。
“先生の薬を使ってみて、その効果が分からないのはとんだダメ医者、かかわってはいけない。先生の薬をうまく使えない医者は、その腕がまだ未熟。”と分かるのだという。
医者だけでなく、いろんな人が、これじゃないと、と買いに来る。
クォンのうちの隣の隣のおばあさんだって、この薬じゃないと関節が痛くて…、と、動くのも不自由なのにわざわざ店まで買いに来ていた。
ここまで聞いて、いきなり先生の顔が渋面になった。「あーー…。」と、言いながら、見るからに縮こまってしまう。胸の前で指を合わせていじりながら、申し訳なさそうに言ってきた。
「…その薬、今ちょうど作ってたやつだ…。もう、ダメになったかも。」
「うええぇぇっ!!ダメになったってどーすんですかっ!!」
僕は色めきたった。誰知ろう、先生をよく知る人しか、知らない事実がここにある…。
実はこれで先生、薬を作ったり、調合したりするのは、とてもヘタクソなのだ。――よくわかっていない僕が見ていても――、実はこの人、すごく不器用なんじゃ…、と思う時がある。でも作るときはいつも楽しそうで、何も言えないんだけれど。
ちなみに、先生が“ダメにした”という時…、それは、一週間か、何か月か、それほどに苦労した作業工程・熟成を経たものが全部、無駄になった、という時である…。そんな時、先生はその労苦の結晶を燃やすなりして、全て捨ててしまう。人に使われる以上、不確かなものは出せないからだという。燃える結晶を前に、半泣きになった先生を僕は何度も見た。なんか見てるこちらが切ないので、一日に十五回くらい“元気出してください”と、言ったこともある。これはまさしくとんでもないことなのだ。
「いや…、まだ、今帰れば大丈夫だと思うんだけど…」
「すぐ帰って下さい今すぐに。」
「そんな追い払うみたいに言うなよぉ…。」
そこまで縮こまられると、なんだか僕の方が大きくなった気分だ。
しかし――、毎年、一年分の量を複数の品作るので――、実はこの先生、夏の期間というのは結構大忙しなのだ。各種の薬の製造工程を、一人で同時並行で流していく。
この、どちらかというと不器用なこの人が、今、ここに来てるってことは…。
「…あの、先生、薬作るの、どれくらい終わりました?」
先生が冷や汗を垂らしながら、目をそらして答えてきた。
「…………………いつもの、三分の一くらい?」
「…ちょっとっ!どーすんですか!この時期ならもう半分はできてるはずでしょ?!後の三分の二はっ?!」
「いやいやいやいや、もう三分の一はまだ工程の途中だよ?だから、出来てないだけだよ?…もっとも、リョータと一緒に町にとどまるなら、全部だめになるけど…。残りの三分の一は、リョータと一緒に作ろうかな、とか考えてた……考えてました。すみません。」
僕の形相に今度は先生が謝ってしまった。
僕に謝ったって、どうにかなるわけではない。…困った。どうしよう…、僕がおろおろと考え始めると、それを見かねた先生が、しばらくして妥協案を出してきた。
「分かった。じゃあとりあえず、俺は今日帰るから…、三日間だけ、リョータも一緒に帰ろう。その三日間でできる限りのことをリョータにする。たぶん、そのくらいで…、後は経過を見ながらの処置になっていくと思うから。時々俺が飛んで、町に診に来れば済むことだ。リョータ、三日間だけ、くれないか?今は手の届くところにいてほしい。どんなことが起こるか、分からないから。」
「三日間?」
「うん。今日俺と飛んで帰って、三日後にここに送り届ける。どうだ?」
「それでまた三週間、ここで暮らすんですか?」
「うん。それがリョータの言い分だから。――大丈夫、その三週間は、俺が手が空いたときに診にくるから。…ま、荷も持たずに飛べば、そんなに往復もかからないだろうし、何とかなるだろたぶん。…これが一番の妥協案だと思うけど?」
「……それって、先生がすごく大変じゃないですか?」
「どうってことはないさ。今はそう思えるよ。」
「今は?」
「…ああ。みすみすお前の兆候を見逃すことで、もう後悔はしたくない…。今回の発作の再発は、俺が気が付いていたら起こらなかったかもしれないんだ。…だから、ごめんな。…でも、昔のリョータに会ってみて、今、これが分かってよかったと思ったよ。もし、俺の手を完全に離れた時に起こっていたら……。たぶん、他の誰も、どうすることもできなかった。昔のリョータはまた迷子になってた。そう考えるとぞっとする。その可能性はずっと隠れてたけど、あったんだ。」
「……手を離れたらって、僕は先生の弟子になるんじゃなかったんですか?」
ここで先生は一瞬、ぽかん、とすると、にやりと笑った。
「そうだったな。お前の言うとおりだ。」
そのいたずらっぽい笑みは、すぐにやさしいものへと変わった。
「そうだったな…。――よろしくな。」
「――はい。」僕は殊勝にうなずいた。
「ま、最後の試験に答えきれなかったら、答えられるまで結構、かなり鍛えるから、安心してくれ。」
「………。」それって、全然安心できないんですけど、と思いながら、僕はその言葉を飲み込んだ。
それからは、物事が一気にあわただしく過ぎた。
もうお昼時だったが、遅い朝ごはんを二人で分け合って食べた。そのあと急いで親方の所へ挨拶に行く。
クォンが僕を見かけると、仕事をほっぽりだしてこちらに駆けよってきた。大丈夫か?と、聞いてくる。目を見せて――、なんともない。さすが先生だ。よかった――。胸をなでおろしていた。
親方の所に案内してもらい、三日ほど治療のため、留守にすることをお伝えする。
親方からは、しっかり診てもらって治してきなさいと励まされた。クォンもうなずいている。――それがいいと思う。昨日のリョータはすごくひどかったから。
三日間留守の末、その三週間後には、また居なくなることになる。そのあわただしさと迷惑を、先生と二人して謝ると、笑って、いいよ。と言われた。そして、おめでとう、と言われる。
こちらも魔法使いの知り合いが二人に増えるなら、願ってもない。ちょうど昨晩の不思議な騒動で、家屋の魔除けの相談も来てるんだ。今度、相談に乗ってもらおうかな。
…先生はなぜか顔をひきつらせて、出来ることはお手伝いします、と神妙に答えていた。
その後、クォンの家族全員に声をかけた。それぞれの職場でみんな忙しそうだったけど、みんな理解と激励を示してくれた。
そして僕は先生に背負われて、空を駆けて雲上の人となり、夏の借り宿へと向かっていた。
めったにない先生と空を駆けることは、僕のとても楽しみなことのひとつだ。先生がつい、いつもいつも遠吠えを上げてしまう、という気持ちがよくわかる。空を縦横無尽に駆けて、足元に雲と広大な大地を従え、制覇しているような気分。何とも言えない高揚感。―――いつか僕も、こんな風に空を駆けたい――――。
三日後、僕はまたタナンの町に降り立ち、町の生活を再開した。
不思議なほど、不安はなかった。自分の中で、何かが変わったような気がする。うまく言えないけど、何かが、おさまるべきところにおさまって、安定したような心地だった。
先生といると、その場の空気が変わる。――そして僕は初めてそのことに気が付いた。
今までは気づいていなかった。一度離れてみて、初めて分かった。
僕だけのことではない。クォンも、クィードさんも、ホルンさんも、ホーリィも、親方や気に食わない先輩たちまで、包まれている空気が変わってしまうのだ。――なのに、誰もそのことに気が付いていない。どうしてだろう。
先生は多分、何かを知っているんだ、と思った。――そんな風に世界を変えてしまう、何かを。
多分、それだ。僕が足りないと感じていたもの。僕はその何かを知らない。
僕も、それを知りたい、と痛切に思った。…いや、もう必ず学び取ってみせる。先生からダメって言われても、そのまだ合格していない魔法使いの試験に落ちても、もうそんなの関係ない。金魚のフンみたいに先生にくっついて行って、いつか必ず僕も、先生と同じ場所に立つんだ。そう思った。
そんなことを話していたら、クォンにいきなり、「お前、なんか変わった?」と言われた。
「そ、そう?」そこまで変わったわけでもないと思うけど…、と答えても、友は「フーン。」というだけで、なんだか訳知り顔で笑っていた。――僕の変化には満足気だった。
クォンはもうほとんど仕事を覚えていた。
読み書きの習得もかなり進んでいる。いつも目にする単語・いつも使う用語だから、毎日がほとんど勉強だ。計算も、先生が教えられる基礎的なところまでは全部終わった。後はクォンが、親方の専門的な知識をどれだけ取り込めるかになる。もう僕らの手を離れようとしていた。
過ぎていく日々の中で、朝、起きると山菜や魚が家の卓の上に積まれていることが時折あった。
夜、僕らが寝ている間に先生が来て、僕の容体を診ていったのだという。家の誰も起こさず、忍んで帰るつもりだったらしいが――、ホルンさんの目からは、いつも逃れられなかった。
「先生が来たらすぐわかるもん。あたしが見逃すはずない。」ホルンさんはそう言う。
「大丈夫、お茶くらい出して、ちょっとは休んで行ってもらったから。少し話していったよ?」
時々は、クィードさんも起きて、話していたらしいが、僕は全然知らない。大人だけで、何を話したのだろう。
一度、先生は一日だけ時間を作って、この町に来た。
そして親方とともに連れ立って、ともに出かけて行った。例の魔除けの相談だった。
僕とクォンはお留守番。何をしてくるのか見たかったけど、いつも頼まれていた仕事もあった。
その日の遅くに二人は帰ってきたけれど、親方はひどく満足気だった。感謝の言葉ばかりが先生にかけられる。先生はちょっと疲れていた。僕は見ればわかる。
先生に駆け寄る。心配だった。山奥にある夏の借り宿と、町を短時間で往復している。その上、製薬でも無理をしているに違いなかった。普段、夜しか来ないのがその証拠だ。眠る時間を削っている。製薬過程を見たことのある僕にはわかる。
そういうと、先生は少し困った顔をした。
「リョータにはばれてるか。――そうだよな――。実は、今作ってるやつで、途中で止めておけるのは止めておこうと思ってるんだ。それで、リョータが戻ってきてから、一緒に作ろう。――一人でできるかな、と思ってたけど、やっぱり一人じゃすごく大変だ。リョータの助けがいる。」
僕は一も二もなくうなずいた。当然だった。僕があの時わがままを言わなければ、先生は無理をする必要がなかったんじゃないかと、後悔があった。ためらいつつ、もう戻った方がいいか、聞いてみる。
「もうあと二週間もないじゃないか。お互い、自分の言ったことに責任持って、頑張ろう。」
「はい…。」僕はうなだれ、ちょっとしょんぼりした。自分の言葉に責任を持つ、というのは大変なことなんだ、と思った。
「大丈夫だよ。クォンの勉強も終わったし。けっこう楽になってきてるから。」
「…!!」
僕を気遣っての言葉だろうが、その言葉で思い当たる意味に、僕は愕然とした。
そうだ…、先生は、最初毎日、僕の夢に会いに来た。
途中から、クォンの勉強を見だして…。それもほぼ毎日…いくら先生の勉強法は能率がいい、と言っても、教える側が何の準備もしなくて、あんなにうまくいくわけがない。それに夢を渡る方法だって、僕はわかってない。クォンを招待するのも大変だったのではないか?まさか先生、クォンの勉強のためにも、いろいろ無理したり、準備したりで、動いてたんじゃ…。
「…?、どした?リョータ。」
…この人なら、あり得ることだ。
「…先生、クォンの勉強見るとき、いろいろ準備してたんですか?」
「ん?うん。まぁ、それなりに。建築関係はそんなに詳しくないし。」
僕は初めて、製薬が全然進んでいない理由がわかった気がした。いくらなんでもそうでないとおかしい。いつもの先生ならもっと進んでる。結局は僕のせいじゃないか。僕が怒ったりする筋合いなんて、どこにも無かった。僕はこの前何を言っていたんだ。とても恥ずかしくなった…。
たぶん、先生は、僕の見えないところでも、僕を助けるためにずっと動いてくれていたんだ。
「…ちゃんと僕、手伝いますから。いっぱいいっぱい、手伝いますから。」
「ん?…うん。期待してる。ありがとう。」




