三章 隠者の系譜 ⑩
僕は気がついたら、真っ黒な闇の中にいた。
何度も来たことがある、深い深い闇の中。音も匂いも光も何もない。ただ暗闇の中。その中で僕は呆然と膝を抱えて座り込んでいた。頭を膝に預けて下を向いている。目は開いていた。でもなにも見ていない。
――ここに来ると、なぜかあんまり頭が働かない。ただ漠然と時間だけが過ぎていく。
ふと、突然、視界の端に、誰かの両足が見えた。
顔を上げると、そこに柔らかい笑顔をした小柄な白熊のおじさんが立っている。僕はうれしくて、深く考えることなく、そのおじさんに飛びついた。おじさんが僕を受け止め、軽々と抱き上げてくれる。
――ここに来ると、いつもこの人と会う。この人はいい人だ。不思議なほどあったかい。ここに来ると何もないはずなのに、この人だけは違う。たくさんのものを持っている。
ひとしきり抱きしめてくれた後、その人が僕を降ろし、ふと一つの方向を指さした。
…?なんだろう?その方向だけ、少し闇が薄らいでいるような気がする。
鼻をひくひくと動かした。…懐かしい匂いがする。すぐに分かった。先生の匂いだ。ぼんやりと熱を感じる。そのぬくもりも多分、この向こう側にある。
上を見上げると、やさしい熊のおじさんが、やんわりと背中を押してくれた。行け、ということだ。
何度かその方向とおじさんを見比べ、僕は意を決してその方向に駆けだした。――闇の中でも、もうどこに行けばいいのかははっきりとわかっていた。この道に、何度も何度も、僕は導かれて闇の先へと抜けていた。
目をあけると、天井が見えた。
おいしそうなスープの匂いと、誰か人の気配がする。――先生の匂いがした、と思ったけど、そんなに強くない。気のせいだったようだ。
身を起こすと、近くにいた女の子がはじけるような笑顔で駆け寄ってきた。
「リョータ兄ちゃん、起きた!?」
クォンの妹、ホーリィだ。…どうしたんだろう?普段は自分より背の低いお兄ちゃんって、もうちょっと小馬鹿にした感じなのに…、今日はそんな空気が全くない。
「お、おはよう。」そのイキオイにやや気圧されつつ、挨拶をする。
「うん、おはよう!…と、言ってももう、ちょっと遅い時間だけどね。」
「え?」見回すと…、確かにもう明るい。この日差しだと、もう朝も遅いくらいではないか?
「…え?あれ?僕、仕事…?」
今日は休みだったっけ?と、うまく整理できない現状を考えていると、ホーリィが声をかけてきた。
「大丈夫?具合とか悪くない?」心配そうに聞いてくる。
「…え?…大丈夫、…と思うけど。」
「そう!よかった!まぁ今日は先生がいるから安心だけどね!」
聞き捨てならない言葉だった。思わず僕は問い返す。
「やっぱり先生が来てるのっ?!」
「うん。昨日のこと、覚えてない…?…あっ、そうそう、これを言わなきゃ、と思って、あたしは待ってたの。お兄ちゃん、昨日は助けてくれて、ありがとう!」
ぺこりと頭を下げられた。…え?この子にこんな風にお礼を言われるって、初めてじゃないか?
「ど、どういたしまして…。」ちょっとどぎまぎしながら答えると、彼女は「えへへ」と、年相応に笑っていった。
「昨日のお兄ちゃん、ちょっとかっこよかったよ!…そのあとはびっくりして怖かったけど…、もう先生が来てくれたから!…あ、お兄ちゃん起きたから、先生呼びにいかなきゃならないんだった。外で体動かしてくるって出てったの、呼んでくるね!」
その必要はなさそうだった。会話を聞きつけた先生が、戸口からちょうど顔を出してきた。
「先生?!」
「おう、リョータ、起きたか。」先生ははにかむように笑って答えた。
先生が来ると、ホーリィが入れ替わりで出て行った。
「じゃあ、あたしはそろそろ薪ひろいに行かなきゃ。二人の分の朝ごはんはできてるから、自分たちでお願いしまーす!」と、言い残して。
この家の人は、子供にもそれぞれ役割がある。彼女は近所の子と薪になりそうな枝を集めてきたり、湯治客に売れそうな花を集めてきたり、キノコや山菜を取ってきたり…、遊びがそのまま生活の糧になるようなことをよくしている。午後からは母のいる厨房で昼ご飯を食べ、宿の掃除や片付け、料理の仕込みを手伝っていた。
「先生…、いつ来たの?」
「…覚えてないか?」
「何か、あったんですか?」
「…そっか…、じゃ、後で説明しよう。まずはリョータ、顔を洗って、水を飲んでおいで。朝メシの前にちょっと体を動かそう。いつもしてたみたいにな。」
それから、にやりと笑っていった。
「組手もやるか。腕がなまってないか、見てやるよ。」
簡単な体操の後、一通り体術と杖術の型を流した。組手はいつも通り五本勝負で、今日は一本も取ることができなかった。
「ゔ~~~!」
口惜しくて唸る僕に、にへへ、と子供のように笑いながら先生が言ってくる。
「精進が足らん。今日は俺の勝ちー。」
だが先生はすぐに笑いをひっこめ、ぼそりといった。
「運動機能に支障はないな。上等。」
…その唐突な変化に、僕も我に返った。もう昼が近づいているじゃないか!
「…じゃなくて先生!僕、お仕事が!!」
どうも、先生が隣にいると、自然と先生といたころの調子に引き戻されてしまう。
その先生は気楽に答えてきた。
「あー、大丈夫大丈夫。リョータが寝てる間、俺がレーンさんには言っておいたから。」
「……へ?」レーン、というのは、親方の名前だ。
「診たら、まだしばらくは起きそうになかったからさ。クォン君と連れ立って挨拶に行ってきた。レーンさん、いい人だな。」
「……はい?」
「昨日のことも、レーンさんが任せといてくれってさ。クォンも、相手の先輩も、出来る限り穏便に済ますつもりだって仰ってたぞ。――その怪我してるかもしれない先輩も、俺が診ようかって話したんだけど…、ここはまず、自分に預けてくれってさ。お得意様の息子さんだから、いろいろと面倒なことがあるらしい。」
――昨日のこと、――クォン、相手の先輩、――穏便に済ます…、ケガ?
続けざまに入ってくる情報に、僕は、夢から覚める思いがした。
「…あ、…あ、…あ!」
「思い出したか?」
僕はうなずいた。昨日あったこと。また先輩たちに取り囲まれたこと。ホーリィが人質になってて…、…そうか、今朝のホーリィ、それで…、でも、ケガもなく無事だったんだ。良かった。
でも、ホーリィを逃がしてから、僕は…。
思い出していく物事に、僕は全身が一気に冷たくなっていくのを感じていた。
右半分が赤い世界。帰らなきゃ、と思ったこと。――ここでも先生の所でもない場所へ。――白く細い女の人――僕のお母さんが――――。
「お前なんて、産まなきゃよかった!この世に産まれてこなきゃよかったんだよ!!」
あの光景が閃光のように脳裏へとちらついた。痛みと衝撃が蘇る。膝ががくがくと震え、息が浅く短くなっていく。心臓の鼓動もおかしい。ふらふらする。あれは…。
「リョータ、落ち着け。」
ふと、先生の手が肩に置かれた。
それだけで、ぐらぐらと揺れていた僕の全てがぴたり、と元の所におさまってしまう。僕は呆然と先生を見上げた。先生が、柔らかいまなざしで、少し困ったように聞いてきた。
「昔のこと、思い出したんだな?」
僕は、答えることができなかった。
「何を、思い出したんだ?」
答えたくなかった。思い出したくもなかった。なんで、こんなこと、今さら…。
下を向いて答えない僕を見て、先生が一つ溜息をついた。おもむろに僕の隣に胡坐をかいて座る。そして自分の足の所をぽんぽんと叩いて、言ってきた。
「リョータ、ホラ。」
僕は特に何も考えず、胡坐をかいた先生の足のくぼみにストンと腰を下ろした。自分のすぐ頭の上に、先生の顎がある。
「――おー、リョータ、大きくなったなぁ、昔はもっと頭が下にあったのになぁ。」
「……?……え?…えっ?ええっ?!」
僕は自分が何をしているか唐突に気づいて、顔が赤く熱くなるのを感じた。
「えっ?あれっ?僕、なんでっ?」
こんな風に先生の胡坐の上に座るなんて、小さい頃だけで、もう何年もやってない。夢の中ならともかく、もう子供じゃないんだし。見られたら人から何を言われるか恥ずかしかった。あわてて立ち上がろうとすると、先生に肩をつかんで止められた。
「いーっていーって、今からちょっと頭を診るから、ここに座っててもらった方が都合がいい。」
「でも…、なんでっ?!体が勝手に…、今までこんなことなかったのに?!」
「昔のリョータの回路がオモテに出てきてるんだ。とーぜんだろ?」
「…はい?」
「覚えてないか?お前小さい頃、ああするだけでいつもすぐ飛んできて、喜んでここに座ってたんだぞ?」
「そ、そうなんですか?…にしてもちょっと、…これは恥ずかしいんですけど…。」
「大丈夫大丈夫、誰も見てないって。いいからここにいろ。」
「はひ…。」
毛が逆立って顔が真っ赤になるのを止められなかった。ちょっと下を向いた僕の頭を、先生の両手が挟み込む。
…その手はほんわかと暖かかった。でも、僕の頭の中を見るので必死なんだろう。なにかごちゃごちゃと考えている。それ以外は、何も伝わってこなかった。
…手持無沙汰で、目の前の光景を見た。少し離れてクォンの家が見える。その向こう側には街並みが広がっている。ここは、草原が見える少し開けた場所。風がそよいで、足元の草むらをさわさわと揺らしていった。
「……?」
なんだか、妙な感じがした。この光景…。
自分で普通に座るより、一段高い目線の風景。視界の両端には、胡坐をかいた先生の膝が見える。ちらり、と振り仰ぐと、上に真剣な先生の顔がある。邪魔したらいけないので、あわててすぐに視線は戻した。
「……?」
…上から静かな息づかいが聞こえる。背中のすぐ後ろにぼんやりと熱を感じる。鼻には先生の匂い。…あれ?何だ、これ…?
…唐突に、僕の目からポロリと涙が落ちてきた。
一粒落ちたら、後は堰を切ったように止まらず、ポロリ、ポロリと落ちてくる。
“…何だ?これ…。”
僕は自問した。不思議な感覚がある。
たとえようもない安心感と、切ないくらいの懐かしさがごっちゃになって、僕の胸を熱くしている。悪いものは全くない。静かな喜びのようなものが溢れていた。
“…何?これ…。”
まるで――なんだろう?
――――やっと見つけた安楽な場所、初めて見つけた幸せの場所に――――、ようやく帰ってこれたような気分だった。
「……?うわっ!どうしたリョータ!なんで泣くの?!」
自分の様子に気づいて、上から覗き込んできた先生があわてた声を上げた。両手が離れる。
僕は首を振って…、今の感覚を先生に説明しようとした。でも、ぐずぐずと泣きながら、「ゔ…、ゔ…」と、くぐもったうめき声しか漏れてこなかった。先生の顔が、一瞬で引き締まる。
「昔のリョータの回路が働いてる…、大丈夫、落ち着いて。」
先生が片手を僕の方に伸ばしてくる。僕はそれを待たず、自分から頭を先生の手にぶつけた。伝えたいことをその手に向かい、集中する。
…なんで僕は深く考えず、こんなことができてるんだろう、と思って…、その理由がすぐに分かった。
僕らは昔、ずっとこうやって会話していたんだ……。
先生は、実は、触れてさえいれば人の心や記憶まで見ることができる。
だが、しかし、それは簡単ではない。
この技法を習得するとき、先生ははじめ、人の心や記憶の方が見やすかったらしい。
だが、何度も何度も訓練し、人の体の複雑なところまで集中して見れるようになるにつれ…、今度は逆にそちらの方が見えなくなっていったのだという。今は機嫌がいいとか、悪いとか、見た目でも判断できそうな気分くらいしかわからない。他人の心を盗み見るのはあまりよくないことなので、結果としてはよかったが…、あえてそれらを見ようとすると、結構頑張って集中しないと無理になってしまったそうだ。
ただし、相手が伝えたいと思っていることや、強く念じていることは、別である。
それらは、矢のように先生の心に飛んでいき、突き刺さる。
…昔の僕は、そのことを経験で知っていたんだ……。
「そうか…、ホントに昔のリョータが戻ってきてるんだな。」
先生がしみじみといい、さらに言葉を続けた。緊張が解けて、柔らかい笑みがこぼれ出ていた。
「気になってたんだ。治療したらさ――、昔のリョータは消えてなくなってしまうんじゃないか…って。俺は昔のリョータも好きだったからさ。いなくなるのはさみしかったんだ。消してしまいたいわけじゃなかったんだ。」
そして僕の頭に手を戻し、言った。ぐしゃぐしゃとその手を掻き回す。
「そうかぁ、また会えてうれしい。――お帰り、リョータ。」
おかえり、リョータ。
それを聞いて、僕はさらに涙が止まらなくなった。
ゔ―ゔ―と、ぶざまなうめき声をあげながら泣き続ける僕を、先生は「うん、うん」と、頭を撫で、うなずきながらあやしてくれた。僕は泣きながら、全てを洗いざらい先生にぶちまけた。思い出したこと、思ったこと、あったこと…全部。この会話は、僕が落ち着いて泣き止むまで、止まることはなかった。




